月の微笑 ～略奪された王女と独善の王～

第41話 王宮へ

　ヴィスティは暗がりの中、ゆっくりと目を覚ました。

　自室ではなかった。見慣れない部屋。

　そうだ、月の君のお部屋にいたのだわ、と思い至る。

　いつの間にか眠ってしまって、ここに連れてこられたのだろう。着替えてもいなかった。

　でもなぜここ……おそらく侍女部屋、に連れてこられたのだろう。

　ゆっくりと起き上がると、窓辺に寄りカーテンを引く。もう陽は高く上がっていた。

　怖い夢だった。

　そうだ。全部、夢。恐ろしく現実的な、夢。

　自分の身体を見てみれば、ドレスに乾いた血のようなものが付いている。けれど、これも血などではない。

　だって全部、夢だから。

　そうだ、とヴィスティは思いついた。もう一度月の君のお部屋に行ってみよう。

　そうしたら、この不気味な赤い色の汚れにも明確な答えをくれるだろう。この泣きはらしたあとのような、目の痛みにも。

　そしてヴィスティは扉に向かって歩き出した。

　　　　　　　　　　◇

　侍女たちが部屋の隅に集まって、声をひそめて話している。

　サーリアは椅子に座って寝所のほうを見つめたまま、彼女らの話を耳だけで聞いていた。

「これからどうなるの？」

「わからないわよ、そんなの」

　これらの出来事は、彼女たちの想像の範囲を完全に越しているのだろう。

　落ち着かなくうろうろと歩き回ったり、仲間で顔を突き合わせたりして、なんとかして平常心を取り戻そうとしているように見えた。

「陽の君も酷いことを」

「殿下に毒入りの食べ物を持たせるなんて、人のする所業では」

　そのとき、目の端に人影が映った。

「黙りなさい！」

　反射的に自分の口から射るような鋭い声が飛んだ。

　いつの間にかヴィスティがそこにいて、立ちすくんでいたのだ。

　しまった、と侍女たちが口元を押さえたときにはもう遅い。ヴィスティがみるみる青ざめていく。

「あれは……夢ではないの？」

　誰に聞かせるものでもない、つぶやき。

　サーリアはヴィスティに歩み寄る。しかし彼女の質問に答えることはできなかった。

　そう、夢だったらどんなにか良かっただろう。怖い夢を見たのだ、と言って笑えたら。

「月の君、私、お母さまはあのお菓子のことは知らないって聞いたの！」

「殿下……」

「本当よ。お母さまは、関係ない！」

　そう言って、錯乱したかのように首を激しく横に振った。

　　　　　　　　　　◇

　そうだ、そんなはずはない。ヴィスティはそう思う。

　確かに冷たい母親だったかもしれない。

　でもそれは、王妃という立場からなのだ。

　それに、いくらなんでも娘が口にするかもしれないものに毒なんて。

　なのになぜ月の君はこちらを哀れむように見つめているのだろう？

　なぜ？

「お父さまはっ？」

　ヴィスティはふと気付いて叫ぶ。

　やっと答えられる質問を聞かされたためか、サーリアは安心したように言った。

「陛下は、王宮に」

「お父さまのところに行く！」

　踵を返して王宮へ駆け出したヴィスティの腕を、サーリアが慌ててつかんできた。

「陛下は今、大事な朝議の最中です。行ってもお会いすることは叶いません」

「だって、お父さまなら違うって言ってくれるもの！」

　つかまれた腕を振り解こうと、ヴィスティは身をよじって抵抗する。

　少しして、サーリアは深くため息をついて言った。

「わかりました。私も一緒に参りますから、殿下はどうぞお着替えになって。それでは目立ってしまいますわ」

「えっ？」

　自分の身体を見下ろす。そういえば、ドレスに乾いた血がついたままなのだ。

「誰か、殿下のお部屋に行って、着替えを貰っていらして」

　サーリアが声を掛けると、呆然としていた侍女の一人がうなずいて、ヴィスティの自室に向かって出て行く。

「殿下、どうぞ落ち着きあそばして。朝議がもし終わっていたらお会いすることもできましょうが、そうでなければ一旦こちらに帰って参ります。よろしいですね？　ベスタとお約束したでしょう？」

　いい子になるから。

　そう、言った。確かに、倒れたベスタにそう言ったのだ。

　そう言われれば、ヴィスティにはうなずくことしかできない。

　サーリアはそれを見て、そっと手を離した。

「結構。では、座ってお待ちになってくださいませ」

　　　　　　　　　　◇

　しばらくして、侍女が着替えを持って帰ってきた。侍女たちがヴィスティの着替えを手伝ってやる。

　その間、ヴィスティは一言も口をきかなかった。

　なにを考えているのだろう。その瞳は空を見つめたままだった。

「では参りましょう」

　着替えが終わると、サーリアはヴィスティの手を引いて部屋を出る。侍女が二人ほど、彼女たちのあとから邪魔にならぬよう付いて来た。

　サーリアは、繋いだヴィスティの手が酷く冷たいことに気付いた。子どもの体温だから、通常なら温かくともいいはずだ。

　おそらく、彼女は抱えきれない感情を持て余しているのだ。

　サーリアは彼女の手を握る自分の手にぎゅっと力を込めた。

　後宮を抜け、長い廊下を歩き、王宮に向かう。その間も、ヴィスティは黙ったままだった。

　廊下を黙々と歩いていると、向こうに人影が見え、そちらに目をやる。

　するとあちらはぎょっとしたようにこちらを見てきた。

　ゲイツ将軍だった。

　彼はしばらくそこに立ちつくしたあと、こちらに一礼した。そして足早に立ち去って行く。

　なにか、今の反応はおかしくなかったか。

　だが今は、それを気に留めている余裕はない。

　ヴィスティをとにかく落ち着かせなければ。

　サーリアはまたヴィスティの手を握り直して、廊下を歩く。

　ほどなく王宮の入り口が見えてきた。

「陛下に謁見を」

　ついてきた侍女が二人を追い越し、王宮の衛兵に告げる。しかし衛兵は困ったように言った。

「ただ今陛下は、どなたともお会いしないと申し付かっておりますので、今一度出直していただきたいのですが」

「私もですか？」

　サーリアは多少威圧的に言ってみせる。

「いえ、どなたならとは聞いておりません」

「ではもう一度、取次ぎしてくださらない？　それでも駄目なら出直しましょう」

　そう言うと、衛兵はサーリアをまじまじと見つめてきた。

　後宮から一歩も外に出たことはないサーリアではあったが、一目見て月の君だと理解したのだろう。それに、王女の手を引いているのにも視線を落した。

「サーリアさまとヴィスティ殿下でございますね？　しばしお待ちを」

　そうして衛兵は取次ぎのため、王宮の中に入っていった。