第35話 女たちの悲しみ

「恩人?」

「ええ。お茶請けに、少し語らせてくださいな」


 サーリアがうなずくと、ベスタはまずお茶で口を潤して、口を開いた。


「実は私、王城に勤める前は伯爵夫人でしたのよ」

「そうなの」


 けれど、今はベスタの家族の話というものをまったく耳にしない。王城に住み込んでいるし、独身を貫いてきたような気がなんとなくしていた。けれど結婚していたのだ。

 それはそうだ。レーヴィスの乳母だったと言っていた。ならば子どもを産んだことがあるはずだ。

 そして、伯爵夫人でした、と言うからには、今はそうではない。


「見初められましてね。これでも若い頃はそれなりに殿方とも恋愛いたしましたの」


 穏やかに笑ってそう言う。


「嫁いですぐに妊娠しました。けれど、死産でして」

「まあ……」

「それで、離縁されました」


 口調に深刻さは含まれていないが、それがどれほどの苦しみだったのかは、想像に難くない。

 なんと言っていいかわからず、サーリアは黙り込む。パメラも同じのようだった。


「死産でしたのに、母乳は出るんです。飲む我が子はいないのに。それはもう虚しくて」


 そう言って胸に手を当て、悲しげに微笑む。


「離縁はされましたけれど、その代わりというのか、王城に紹介されました。ちょうど陛下がお生まれになったところでしたから」

「それで、乳母に」

「はい。王太后さまの乳の出が悪くて。初めて陛下をこの腕の中で抱いたとき、行き先を失った愛情を向ける先ができたような、そんな気がいたしました」

「それに恩を感じてしまったのね」

「それだけではないのです。乳を差し上げなくなってからも、陛下は私に懐いてくださいましてね」


 なにかを思い出したのか、くすくすと小さく笑いだした。


「陛下もお小さい頃は、本当に可愛らしかったんですよ」


 穏やかに笑いながらベスタが言う。

 興味津々、という感じでパメラは身を乗り出していた。


「私がいなくなると泣き出すのです。歩けるようになってからは、後をついておいででした。気が付いたら後ろにいて、私の足にしがみつきますの。姿が見えないと、ねえや、ねえやと探しに来まして」

「まあ、それはお可愛らしい」


 パメラが瞳を輝かせて話を聞いている。

 サーリアにはまったく想像できなくて、首を傾げる。

 可愛らしい子どもが、いったいなにがどうしてああなったのか。


「陛下もしばらくは後宮にお住まいで。乳母としての役目が終わりましたら王城を出される予定でしたけれど、あまりに懐かれるのでそのまま後宮の侍女として雇われました。それからも、ことあるごとに陛下が取り上げてくださいましてね。私もそれに応えようとがむしゃらにやってまいりました。そうしていたら、いつの間にか侍女頭になっていたのです」


 ベスタは、感慨深そうに続けた。


「離縁された女など、もし陛下がいらっしゃらなかったら、今どうなっていたのかわかりませんわ」


 実家に帰ることもできず。さりとて職に就くこともままならず。新たな良い嫁ぎ先があるとも限らない。

 とにかく、安定した未来は保証されていなかった。


「ですから私は、陛下には返しきれないご恩があるのです」


 そう言うからには、今は彼女にとっては良い人生なのだろう。

 そのことに少しほっとする。


「ただ……」


 だがそこでベスタは目を伏せた。


「私も十分に責務を果たしているとは言い難くて」

「え?」

「王妃殿下のことをお慰めして差し上げられませんでした。オルラーフからついてきた侍女たちがいるから大丈夫、とは思っていたのですが……」


 そこまで言って、ベスタは首を横に振った。


「いえ、本当は少し、姫とはいえ産めたくせに、と思ってしまったことを否めません。それで親身になって差し上げられなかったのかも」


 御子が産めなくなった王妃。

 彼女が凶行に走ったことを、きっとベスタは気に病んでいる。

 自分の責任なのではないかと。


 ベスタは小さく息を吐くと、言った。


「本当に、出産というものはままなりませんわね」


 自分も。王妃も。そして。


「結局、王太后さまも産後の肥立ちがよくなくて、身罷られました」


 レーヴィスの母親も。


 それからベスタは、はっと気付いたようにこちらに身を乗り出した。


「そういえば、サーリアさまもお小さい頃からお母さまはいらっしゃらなかったように聞き及んでおりますが、もしかすると」

「ええ。私の母も、私を産んですぐ……」

「まあ、そうでしたの」


 ベスタはサーリアの話を聞いて、眉を曇らせた。


「王族はどこの国でも最高の環境で出産を迎えるものですけれど、それでもこのように命懸けなのですわ」


 その言葉にサーリアはうなずく。


「ですからサーリアさま、お大事になさってください」

「あ……」


 ベスタはにっこりと微笑んでそう言った。

 サーリアにはその言葉を否定することはできなかった。思わず自分のお腹に手を当てる。


「私どもも、もちろん最大限に補佐いたします。お世継ぎかもしれない、ということもございますが、私にとって孫のようなものなのです」

「ええ……」

「勝手なことを申し上げるようですけれど、お願い致しますわ」


 そう言ってベスタは頭を下げた。

 パメラはそんなベスタを見て、目に涙を浮かべながら、やはりこちらに頭を下げた。

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