第32話 溺れる女の独白

 一夜をともに過ごし、夜中にセレスは目を覚ました。

 そして隣に眠る夫に視線を移して、その寝顔を眺める。


 身を屈めて、眠る男の唇にそっと口づけようと顔を近付けた。

 けれどレーヴィスは、寝返りをうって背を向ける。


 たぶん彼は寝てはいても、熟睡はしていない。いつもそうだ。少し触れれば、なにかの気配を感じれば、すぐに目を覚ます。

 ここでは安心して眠れないのかもしれない。


 あなたは、本当にわたくしを愛している?


 セレスは心の中でそう問い掛ける。

 レーヴィスに問えば、いつも愛していると答えてはくれる。

 けれど、その言葉に真実はあるのだろうか?

 何度もそう心の中で反芻してきた。でも、いつまでたっても答えは得られない。


 いつだって不安はつきまとっていた。

 でもその不安はいつもレーヴィス自身が消し去ってくれていた。セレスの不安を打ち消すために、何度だって愛の言葉を囁いてくれた。

 それは今だって変わらない。


 なのになぜ、こんなにも不安になるのだろう? 胸が締め付けられるのだろう?


 わたくしは、あなたの正室。それは揺るぎない地位。何人の側室がいようとも、あなたの寵愛を一身に受けるはずの、わたくし。

 世継ぎを産むことは叶わぬ夢となってしまったから、側室を迎えるのは仕方のないこと。でも、あなたが愛しているのはこのわたくし。


 自分自身に言い聞かせるように、そう何度も心の中で唱えてきた。

 あの女が現れるまでは、その考えを信じていた。

 ……いや、そう信じたかっただけなのかもしれない。


 あの女について訊いてみたことがある。側室とはどのような女なのかと。

 すると、少し遠い目をした。あの女を思い浮かべているような。

 そして、にこりともしない女だ、と眉根を寄せて彼は言った。

 そのあと、そなたは感情が豊かで安心する、と笑った。


 違う、とわかった。そんなことは思ってもいない。

 あの女は彼にとって特別なのだ、と感じられた。


 なぜだろう。今なら確信できる。あなたの言葉には真実がない。


 背を向けてしまった男の栗色の髪にそっと触れる。

 無性に泣きたくなる。今彼を揺り起こして、この胸の内を聞いてもらおうか。もちろん彼はいつものように嫌な顔一つせず、優しく抱き寄せてくれるだろう。


 けれど……。

 セレスは自嘲的に口の端を上げて、思う。


 あなたの腕の中にいても、愛を感じることはできない。何度愛の言葉を囁かれても、わたくしの胸に響くことはない。

 心の中には、嘘、という言葉が浮かんでくるだけ。


 あなたは気付いているのだろうか?

 わたくしの部屋を訪ねてきても、わたくしと何度褥をともにしようとも、心がここにないことを。


 なんて残酷な現実。なんて残酷で、そして愛しいあなた。

 わたくしはあなたの顔も知らぬまま、この国へ嫁いできた。不安でいっぱいで、この国へ向かう船の中で涙を零したわ。

 でもあなたを一目見た瞬間に、わたくしは恋におちてしまった。わたくしは世界で一番幸せな花嫁になったのよ。

 身体を損ねてしまってからも、あなたはそれは優しくしてくださった。

 子どもは無事だったけれど女であったから、重臣たちは手の平を返したように、側室を得るよう、あなたをうながしたのだわ。

 それは耐えがたい屈辱だった。でも、あなただけはわたくしに優しくしてくださったから、わたくしはこの国に残ろうと決めたのよ。


 けれど、あの女が現れてからわたくしは気付いてしまった。あなたの優しさは、真実ではないことに。

 ああ、なぜ気付いてしまったのだろう? 誰に言われたわけでもないのに。

 知らなければ、騙されたままでいれば、こんなに不安になることもなかったのに。


 わたくしにはわかる。もし世継ぎが産まれてしまったら、あなたは間違いなく、わたくしの元から離れていってしまう。


 そんなこと、許せない。


 わたくしが受けるはずだった幸せを、あんな弱小国の元王女が享受するなんて。

 確かに美しい女だったけれど、わたくしだって大国オルラーフの王女。わたくしの美しさの前には大輪の薔薇も霞んでしまうと詠われたものだったわ。


 なのになぜあなたはわたくしを心から愛してくださらないのだろう。わたくしはあなただけを愛しているのに、あなたは側室などに入れ込んでいらっしゃる……。

 あなたはそう言うと否定してくださった。

 でも、安心するのは数日だけ。しばらくするとまたわたくしの中に不安がはびこってくる。


 それは、予感。あるいは確信と言っていいかもしれない。


 わたくしはこの後宮で飼い殺しにされ、陛下の寵愛はあの女が受ける。

 ああ、想像だにしたくないこと。

 それを現実にしてしまわないために、あの邪魔な女を消し去らなければ。お腹の中の子どもごと。


 だって仕方のないことですもの。どちらかが生き残り、どちらかが死ぬ。それは自然の摂理というもの。

 ああ、愛しいあなた。愛しくて、そして憎らしいあなた。

 わたくしはあなたの愛を得るためなら鬼にでも蛇にでもなりましょう。この心を悪魔に売り渡してしまっても構わない。


 わたくしの欲しいものはただ一つ。

 あなたの愛だけなのですもの。

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