第29話 自己愛




 「ヒック…うっ…うぅ…!!」


 街灯に照らされた夜道を歩く。今自分が惨めなのは、雨に打たれながら一人でいることだけが理由なのではない。


 (やっぱり全然ダメじゃん、僕…っ)


 最近の自分は成長していると思っていた。少なくとも以前よりかは遥かにマシになっていると思っていた。だが、そんな浮ついた考えが吹き飛ぶぐらいの衝撃が先にあった。


 (何も言えなかった…何も出来なかった…っ!)


 学校からの帰り道、横道に停まっていた見覚えのある車。中に居たのはスーツ姿の父親で、何やら大声で仕事のことについて電話をしていたようだった。


 ミラー越しで機嫌悪そうな状況に気付かず、気安く近づいたのがいけなかった。父親は電話が終わりこちらを見つけると、憤るままに僕を車に引き込んだ。その後はいつも通りだ。肉体言語で『教育』を施され、嫌がる素振りを見せようものなら従順でない罪とばかりにより強く殴れた。


 少しは成長できたと思っていた。一かけら分ぐらいは、小指の先程には。だが、そんなものは何の価値も無かったのだ。耳元で絶叫されただけで頭は真っ白になるし、心の豊かさなどという陳腐は暴力の前にはクソの役にも立ちはしない。理屈も礼も、品も知性も、それが通じる相手にこそ意味がある。ここ最近で多少身に着けたそれらは、むしろ人がましくなったことで生意気であると相手を逆上させた。


 父親に怒られている時の、かつての対処法を思い出す。一挙手一投足全ての行動は無駄で、軽はずみな行動は却って相手を怒らせることに繋がる。その為に頭も心も殺して全て反省に徹する。五感をすり潰すのだ、鋭敏な感性なぞここでは無用でしかない。知覚する世界が痛みと拒絶を伴うものであれば、愚鈍さこそが救いとなる。


 死にたい。死にたい。死にたい。


 これを誰かに話しても「そんな理不尽なことがある訳が無い」と笑われるかもしれない。親が子供を愛するのは当たり前で、一般的な愛し方は『これ』ではないと気が付き始めたのは綾音さんと出会った後のことだ。


 そう、彼女に出会うまでは未発達な感性で恐怖しか感じ取れなかった。理性、道理、親愛の欠如は理不尽であると今の自分は理解し始めている。ただ、洗い立ての白無地に血の赤黒さが映えるのと同じように、成長による知覚が認めがたい現実を無慈悲に伝えてくる。置かれている状況を一つ知り、それを解釈するごとに頭を掻きむしりたくなる。


 ひょっとしたら僕は、彼女に言われたことをお父さんに否定して欲しかったのかもしれなかった。


 ふと前を見ると、目の前から真っ白な傘を差して歩いてきている人が居る。


 強烈な既視感。僕はこれと似たような景色を知っている。前にも一度経験した…なんだったか、そう、あの子と出会った時の記憶。たしかあの時も僕は泣きながら帰りたくない家へと帰っていた。


 白い傘が上がり向かいの人が素顔を晒す。やはり彼女だった。




………

……




 「ごめん、ごめんね」


 彼の体を拭きながら謝る。雨宿りの為に寄った公園は薄暗く、私たちの他には誰も居ない。屋根付きのテラスは雨を凌いでくれるが、雲の切れ目から僅かに届く陽の光すら遮って闇を作り出している。


 「……?、何が?」


 「何がって…ほら、せっかく教師になりたいって教えてくれたのに、私が勝手なことを言って…」


 「あぁ…、別に気にしてないよ」


 心ここに無い返事する仁君。忘れるぐらいの何かが彼の身にあったのだろう。触れた彼の手は氷のように冷たくて、驚いてしまう。


 「帰りに父さんと会って…それで…」


 「…なるほどね」


 その一言で多くを察してしまう。ベンチに座る彼を抱き寄せて暖める。


 互いに無言の時間が続く。したたる雨音がやけに響く。彼も私も、ただただ過ぎゆく時間に身を任せる。暫く経った後、沈黙を破ったのは彼だった。


 「…あの時」


 「え?」


 「あの時綾音さんは何て言おうとしたの?僕に学校の先生よりもなって欲しかったもの」


 「あれは…もういいんだよ、あの時の私はおかしくなっちゃってたから」


 それでも聞きたいと訴えかけてくる視線、私は聞かれたことから少しだけずらして答える。


 「昔ね、凄く嫌なことがあったの。もう終わることが無いんじゃないかって位長くって、辛くって、思い出したくもないのに何度も何度も思い出しちゃうことが…そんなことが沢山あったの」


 「…うん」


 「私ね…そのことを無意味にしたくなかった、価値が無い…ただの不幸にしたくなかったの」


 「ただの不幸にしたくなかった?」


 「そう、自分が人とは違うことや不幸であることも、全部意味があるものだって考えなきゃ納得がいかなかった…というより耐えられなかったの。だってそうでしょう?みっともなく、愚かで、人より劣り続けてきた人間が最終的に・・・・報われなきゃ今まで苦しんで生きた意味が無い。芋虫が自分の醜さを許せるのは、将来美しい蝶になれると思えるから。ごく普通の、平凡な幸福なんて許せるものですか、そうでなければ私は自分を許せない」


 卑屈な自尊心のその一端。虚構であろうが、不可能であろうが、醜かろうが、卑しかろうが、孤独であろうが、人生の中枢を担っているこの胸の痛みの代替が無ければ、私という人格は納得がいかない。生きているその意味を見出せない。


 栄達、愛情、独占、恋愛、子孫、強奪、飽食、そして共感…それらの価値すら過程としての意義以上のものは見いだせない。自意識が肥大化していると言われればそれまでだが、少なくともそんな単純なもので満たせる程必要の底は浅くない。まして好きでこうなったわけでもなしに。


 今までの失敗と等量以上の成功を、これまでの侮蔑と等量以上の賞賛を、過去全ての否定以上の肯定を!己が存在の克己、復讐の栄光を飾らぬ限り、私は自らを承認できなかった。それが具体的に何を意味するかと問われれば、おぞましいものしか思い浮かびはしなかったが。


 「でも駄目ね、こんな妄執もうしゅうに仁君を巻き込もうとしちゃったんだから」


 「……」


 仁君は初めて聞いた私の美しいとは言い難い感情を聞いて何を思うのだろう。私がもしも狂っているのなら殴って正気を取り戻させればそれで済む話だ。だが、生憎私は正気のつもりだし、必要を求めるこの衝動が収まらない限りは生き方を変えることも出来ない。するつもりも、当然無い。一度過ちを犯して尚そう思う。


 本能は理性によって御し得るが、理性に意味を与える器官がそれであるとは限らない。時間が経ち、落ち着けば落ち着く程に衝動として必要性を感じるのだから、やはり理性的に振舞っている内は…否、理性が働いているからこそ、この行動を変えることはできないだろう。


 数分ほどだろうか、幾つかのやり取りと思考を経て仁君が口を開ける。


 「僕なんかが…気持ちが分かるなんて言ったらいけないのかもしれないけど、でも…ほんの少しだけ綾音さんの気持ち、分かるような気がするよ」


 返って来たのは意外な言葉、言っちゃいけないなんてこと無いよと答えて続きを促す。


 「僕がね…学校の先生になりたい理由、お爺ちゃんと同じ職業とか、響さんに教えるのが楽しかったからとか、色々あるけど…本当の理由は自分の失敗を生かせるからなの」


 「……」


 「僕が人より頭が悪かったからこそ、勉強が苦手な子供の気持ちも分かると思うし、綾音さんに会うまで友達が居なかったからこそ、孤独な子の気持ちが分かると思ったんだ。でも…」


 そこまで言いかけ、彼の声に涙声が混じる。


 「でも…やっぱり僕じゃダメかもしれない。こんな、こんなお父さんに怒られてばっかりの僕じゃ…」


 「そんなこと無いよ、私は凄くいいと思うよ…仁君の教師になろうっていう夢」


 「ほ、ほんと…?」


 「うん、やっぱり仁君は凄いよ。私なんかより、ずっとずっと凄いよ」


 「…いや、やっぱり駄目だよ。僕綾音さんにここまでしてもらってるのに、それでも……あっ」


 彼の口を塞いで自己愛を与える。ここは深い闇の中、元より重なる影は無し。


 他人から見れば自分を愛することは滑稽に違いない。鏡に笑いかける道化師の如く、それ自体うぬぼれているようなものだし、余裕のある人間からすればやっている理由さえ理解できず馬鹿に思えるのだろう。


 だが、誰からも愛されなかった人間がどうして人がましく振舞えようか。人が愛を知る能力とは、生得のものでは決してないのだ。


 「…っ、……!」


 抱きしめた先から抵抗の意思は感じない。されるがままから次第に受け入れられていく。


 自分が生きるのに必要なものが倫理から禁じられているのなら、人は一体どこへ行けばいいのだろうか?罪を犯してでも、醜くくても、やはりこうする他は無い。


 辛きも悲しきも人間賛歌…そう言うのは簡単だけれども、それまでにどうかもう少しだけ時と余裕を与えておくれ。


 この自己愛を決して否定させはしない。少なくともこの雨が止むまでは、少なくともこの闇の向こうから光が差し込むまでは…。

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