第28話 利他の理




 仁君の家、前世の実家近くの路地前で私は立ち尽くしていた。


 天気は連日続いている雨模様。雨で押し出されて地面から這い出てきた、落ち着いた土の匂いが鼻につく。前回彼に拒絶されたあの日から既に3日が経っている。


 「…………」


 その場から一歩も動けない。家に電話をかけて一言断ってから来るべきとも思ったが、それで断られるといよいよなすすべが無くなる。だが、彼の家のインターホンを押す勇気は無いし、彼が学校から自宅に帰ってくる時間帯には出会うのが怖くて物陰へ隠れてしまう。ここ数日は彼の家の前で何をするわけでもなく、ただただ立ち尽くしていた。


 私は一体何をしているんだろう…謝る為に来た筈なのに。意味も無く辺りをウロウロとうろついてしまう。


 あの日、仁君がせっかく打ち明けてくれた教師という夢を、愚かにも私は否定してしまった。その前の父親に殴られたことで彼と言い争った時には行えた、己のエゴに気が付くということできなかったのだ。どうして一度気が付けたことで過ちを犯してしまったのか。


 何巡も繰り返した思考、どれだけ後悔しても戻らぬ時間、久しぶりに感じる腹の裏側から自己嫌悪が全身へと昇りつめていくような…冷たい感覚。


 (何度考えても同じことだ、私は親が憎いあまり彼の意思を尊重できなかったんだ)


 例え全く同じ経験をしたとしても、その体験にどんな感想を持つかは人それぞれだ。自分がそうだから人もそうと考えを押し付けるのは傲慢なこと、そんなことは長い間社会から異物として扱われてきた自分が一番分かっていた筈なのに。―――しかも、私が愚かしいのはそれだけじゃない。


 (私はあの時なんと言った?…唯一無二の、不可侵の、存在するだけで尊敬と畏怖を吸い上げる?)


 その言葉に続けて私は何を言おうとした?『上』に行ける?彼が望みもしていない内に、連れて行こうとしたその漠然としたものは何だ。無意識について出た言葉の正体は、あの瞬時に願ったものの真意は何だ?


 ―彼が途中でどんな過程を経てもいい。ただ、人生の最終においては私と共に偉大になって欲しい、そんな願い―


 (我ながらなんて勝手な…っ!)


 考えだけではない、私は人生そのものを彼に押し付けようとしている。これは期待や向上心の共有などと呼べる可愛らしいものではない。もっとどす黒く、心の奥底に刻まれた呪いのような気がする。そう、自らの叶えられなかった悲願を、人生の成就を他者に託して強制させようという醜悪な欲望そのものだ。


 この感情は一体どこからやって来たものなのだろう?


 卑屈な自尊心という矛盾の一端を担うものの正体はこれか?


 もしそうだとしたら、彼と出会ったことがそもそもの間違いだったのだろうか?


 (分からない…何も、何も分からない)


 今の自分がどんな顔をしているのか分からない。彼にどんな顔をして会えばいいのかも分からない。苦しい、胸が今までのどんな時よりも引きつっている。


 どうも私は頭に血が上るとカッとして抑えというものが利かなくなるらしい。前世からも思い当たることは幾つかある。家出、今世での仁君のケンカ、ヘッドボードを殴り割ったこと…これが癇癪持ちの父親から受け継いだ血の影響も少なからずあるだろうなと思うと死にたくなる。


 理性では分かっているのに、感情が言うことを聞いてくれない。それを考えると、このまま出て行ってまた似たような過ちを犯さないとどうして言える?自分を信じることが出来ない。


 いっそこのまま―


 「大丈夫かい?」


 ハッと顔を見上げると、何時から居たのかそこには白髪の老人が立っていた。この人顔には見覚えがある、忘れようはずもない。この人は―




 「―――お爺ちゃん」


 「ん?」


 「あっ…い、いえ…すみません、何でもないです」


 前世の祖父がそこには居た。在りし日の、記憶通りの皺の顔。前世では高校時代には既に逝ってしまった人。紺の傘を差して伸びた背筋と共に美しい影法師を作っている。


 (そうか…こっちの世界ではまだ生きてるんだ)


 表情、匂い、仕草、全てが懐かしい…思わず泣いてしまいそうになる。


 「いや、息子の家を随分と眺めていたようだからね、あの家のもんに何か用かい?」


 お爺ちゃんは私の家のすぐ近所に住んでいる。私が小さく両親が家に居ない時は何時も預かってもらっていた。


 「ん?君ひょっとしてあれかい、仁が話してた綾音って子かい?」


 「えっ…いや、その…」


 どうやら仁君は私のことをお爺ちゃんに話しているらしい。不味い、もしも最近のことを彼から伝え聞いているとなると…。


 「はははっ仁から聞いとるよ、僕は仁の爺さんだ。去年あたりから仁と仲良くしてくれたガールフレンドなんじゃろ?お前さんもう仁のこれなのかい?」


 「……」


 嫌われてないかと思ったことは杞憂だったのだが、小指を立てて恋人なのか聞いてくる。そういやこの人はこういう人だったな…。うん、こういう所あったよ。不神経ではないけど聖人君子でもない所。


 「仁の帰りを待ってるのかい?ここじゃ雨に濡れて寒いだろう。どれ、仁が帰ってくるまでウチで待ってなさい」


 「えっ、でも…」


 「いいからいいから、遠慮しなさんな」


 そう言ってひょいひょいと歩いて行ってしまう。


 …いつの間にか私の両手足は寒さでかじかんで殆ど感覚が残っていない。このままここに居ても仕方が無い、招かれるままお爺ちゃんに付いていくことにした。




………

……




 「仁とは違う学校なんだって?」


 「え、えぇ…まぁ…」


 「そうかい、そりゃ会ったりするだけでも大変だろう、仁と仲良くしてくれてありがとうね」


 そう言ってお爺ちゃんは古い電気ストーブの上で焚かれた麦茶を、湯飲みに注いで渡してくれる。温かい。一口啜ると体中の凍っていた器官が徐々に戻っていく感じがした。


 「いえ、そんな…私の方こそ彼に助けられてばかりですから」


 謙遜じゃない、本当のことだ。最初は彼に役立とうとして今ではこの有様なのだから。


 「仁がいつも君のことを話してるよ、どうして自分と一緒に居てくれるか分からないくらいにいい子だって」


 「……」


 「勉強をみてくれてたり、色々手伝ってくれたんだろう?ありがとうね」


 皺の上に光る黒い瞳。まるで煮付けた黒豆のようだと子供の頃に感じたデジャヴが蘇る。同時に、その瞳が閉じられた彼が死んだ日のことも。


 どんな立派な人でも、人は死ぬ。


 私は直感した、これがお爺ちゃんと会話する最後の機会になるだろう…と。


 「お爺さん、私分からないんです」


 「ん?何がだい」


 「私…仁君を知れば知るほど彼が好きになっていって、どんどん自分の為じゃなくって、彼の為に助けたいと思うようになったんです。でも、最近は何だかずっと空回りしてしまう…」


 「……」


 「この前はとうとう自分勝手なことをしてしまって、彼に酷いことも言ってしまいました…。その時気が付いたんです、結局私は心の底で自分のことばかり考えていて、彼の為に教えるどころか、むしろ邪魔をしてるんじゃないかって…だから、私っ、もう…もう彼の前から、いっそ消えた方がいいのかなぁって…!」


 途中から上手く言葉にできず、視界が滲んでいく。こらえようとしたが、でも一度決壊した涙が止められない。


 説明も足りず、突然泣き出してお爺ちゃんも困っただろう。暫く無言で背中を撫でてくれた。


 「ご、ごめんなさい…こ、こ、困りますよね…こんな…!意味わからな、くて…ごめんなさいっ」


 だが、今の私にはどうすればいいのかが分からない。どこへ行けばいいのかも分からない。


 甘えてしまっている。普段は理論と決意で武装している筈の心が、今はどうしようもなく脆い。


 こんな、こんなに私は弱かったのか?不安を吐露しただけで、感情的になって、あっという間に理性が飛んでしまって。もう中身は立派な大人なのに、幾ら相手がお爺ちゃんだからって脆すぎる。


 「……」


 お爺ちゃんは私が落ち着くのを待ってから、ゆっくりと口を開く。


 「君はミツバチと花の関係を知っとるかな?」


 「んぐっ…ミツバチと花…ですか」


 「そう、単体では繁殖力の弱い花は甘い蜜でハチを誘い、花粉を運んで貰うことを介して繁栄している。いわば共存共栄の関係だ」


 空になった湯飲みを注ぎつつ、お爺ちゃんはゆっくりと語っていく。


 「多くの生物は異種同種に限らず共生関係の中で生きている。携わることで有益となる他者、周囲と調和することに『喜びを感じる』機能が互いに生まれつきで備わっているんだ。赤ん坊は生まれた時から周囲の大人にお世話をしてもらえるよう、見る人に可愛いと思わせる微笑みを持って生まれてくるし、衣食の面倒をみて欲しさに猫は人に好ましい容姿で共に進化を続けてきた。癌やエイズ等の一部を除けば、人間の体には無自覚の内に日々ウィルスが入り込み、宿主へ有益な効果を与えることで共に協力し合って生きている」


 「……」


 「こう考えると…どうだい、人と他者、自我の境界線なんて非常に曖昧なものだと思わないかい」


 お爺ちゃんの話を聞きながら私は似たような話を思い出していた。犬は古来から番犬としての役割を担ってきたし、多くの植物が共に生きる森林では生息する動植物に大気を通して木々がビタミンを注ぎ、森林浴として活性化させている。我々は自らを、互いが互いに延長し合っている。


 「だからね…完全に自分の為にならず、純粋に他人だけを助ける方がむしろ行為としては難しいことだ。僕は昔学校の先生をしていたんだけどね、教える側である教師が逆に生徒に教わることだってままあったよ」


 「教える側が逆に教えられる…?」


 「そう、だから仁にはどうか気負わずに接してやってくれ。責任感が強いのはいいことだけど、何でもかんでも一人で背負っちゃ息切れしちゃうからね」


 そういうとお爺ちゃんはニヤリと笑う。


 言われてみると確かに、今まで仁君に対して教えよう導こうとするばかりでそんな風に考えたことは無かった。


 (あぁ…そうか、そうだもんね…二人で歩いていくなら前でも後ろでもなく、隣を歩かないと)


 これまで胸でつかえていた何かが、ホロリと取れた気がした。


 「それに仁が大変なのは僕のせいでもある」


 「えっ…!?そ、そんなこと無いと思いますよ…仁君はお爺さんのことを尊敬している筈です!」


 何を言うのだろう、前世から私はお爺ちゃんが居たからこそ救われていたのに。今世の彼だって言葉の端々からお爺ちゃんを敬っていることは見て取れた。


 「仁の父親のことだよ、住む家が違うからハッキリとは分からないが、どうも仁にあまり優しくないらしい。アイツには親として子供の頃ろくなことをしてやれなかったから、自分の子供にもどう接していいのかが分からないのだろう。」


 「……!」


 初耳だった。でも、お爺ちゃんは教師だから子育ては慣れてる筈じゃ…。


 私の表情から読み取ったのか、お爺ちゃんは頭を振って答える。


 「教師だからじゃない、教師だからこそだ。普通の家庭なら学校でどれだけ厳しくされても、家に帰れば優しく接してくれる親が居る。だが、学校でも家でも親が教師だったら気が休まる暇が無い。若い頃の未熟な俺…僕はそのことに気が付かなかったんだなぁ…」


 「……」


 「他人の子供を教えるのと自分の子供を教えるのが同じ訳が無い。それに気が付いてから色々してみたり、アイツから仁への接し方に口を出してはいるんだけどね…中々難しいもんだ」


 そう言うとお爺ちゃんはどこか遠くを見るような目で庭を見やる。何故かその横顔が酷く寂しいものに見えた。


(知らなかったそんなこと…)


 長年抱え、絶えず塗り固めていた自分の認識が急速に形を変えていくのを感じる。固く濁り、詰まり切っていた思考が動き出し、外の雨音は意識より疎外されていく。


 勿論、この話を聞いたからと言って父への恨みが無くなった訳ではない。今でも憎いし、もし目の前に本人が居れば手を出さないという確証はない。


 だが、少なくともそういった感情がこれまでとはまた違った感情に移ろい行っていること、それだけは微かに自覚した。


 もう迷わない。これで仁君に会うことが出来ると思った。語る自分だけの言葉を取り戻せた気がする。


 「だからってわけじゃないけどね、これからも仁のこと…どうかよくしてやってくれないか」


 それは聞くまでもないことだよお爺ちゃん。私は腹の下から湧き上がってくる衝動のままに返事する。


 「はい!勿論です」

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