第27話 決別

※昨日2020/10/21に「赤い瞳」として27話を投稿しておりましたが、一度削除して中身を改変した上で本日再投稿しました。ご心配おかけしたこと、似たような文章を複数回読ませるような状況を招いたこと、大変失礼致しました。




 「きょ、今日も来れないの…?高坂さんと響さん」


 「うん、二人ともきっと忙しいんだよ」


 顔すら上げないで綾音さんは答える。梅雨に入り、今日も雨音がしたたる休日の午後。僕の自宅に来ていた。


 (最近の綾音さんは何かが変だ…)


 僕がお父さんに殴られたことについて言い争って以来、彼女は変わった。以前はたまに真面目な話をするときはあっても、いつも根っこの所では太陽のような明るさ、ひょうきんと言っていいだけの朗らかさがあった。


 それがどうだろう、今の彼女に自覚があるかどうかは分からないが、常に眉間へシワを寄せて張り詰めたような雰囲気をまとっている。まるで燃料一つを得るだけで身を燃やし尽くすアルコールランプのような、つまようじ一つ突かれるただけで爆発する、空気を入れたごみ袋のような…そんな危うさがあった。


 「そんなことよりさ仁君、今日はいつもの勉強を始める前に見て欲しいものがあるんだ」


 そう言って鞄から取り出されたのは白いクリアファイルにまとめられた資料のようなもの。何だろうと思い渡されたものを見ていく内に、とんでもないことが書いてあることが分かる。


 「綾音さんが…学費を全額負担!?」


 「入学金、授業料、雑費…仁君がウチの学校に受験して入るまで、初年度でもたった150万円もかからないわ」


 こともなげにそう言って入れられた麦茶を飲む綾音さん。まるで自宅にあるコップを扱うかのような、そんな慣れた手つきで美しく飲んでいる。


 「たった…って、150万なんて大金とても受け取れないよ!」


 「あら仁君、150万なんて額面だけ捉えて考えるからそう思えるのよ、割合で考えれば大したことないわ」


 「割合…?」


 「そう、私幼い頃からお小遣いやお年玉を特に使う予定も無かったから貯金として溜めてるんだけどね、今口座に1000万ぐらいの貯金があるわ」


 「いっ…1000万!?」


 あまりに大それた数字が出てきて眩暈がする。1000万…それって幾らぐらいなんだ?うまい棒が一本10円だから100万本買える?ハンバーガーが1つにつき大体100円だから、10万個買える?10万個って幾つだ?あれ?


 想像もつかない数字にフラフラしてる僕を尻目に、綾音さんは言葉を続ける。


 「仁君もコンビニで買い物をしてる時に、レジで数円だけお釣りが出たら募金ボックスに入れる時があるでしょう?これぐらいのお金なら別にいいや…って、それと同じように私は自分が持ってる総資産からすれば150万ぐらいなら大したことないの」


 「そ、それでも150万は150万でしょ…」


 「いいえ?お金の価値はね、絶対的なものではないの。あくまで交換することで価値を生めるモノ、国家の信用がそこに担保されているというだけのモノ、それができる『だけ』のただの紙切れなのだから」


 「……」


 「地球の裏側では抗生物質一つ取れない人々が何人もいる。2、30円あれば人一人の命を救うことが出来る。そんなことは誰でも知っているのに、日々の私たちは自分の生活水準を上げることに躍起になってるよね?お金も、愛も、そして命さえも、価値は一定じゃないんだよ。誰だって自分の選んだ価値に自分で値札を付けている、150万がもしも大金だと思うのなら、私にとって仁君にはそれだけかけがえのない存在なの」


 真面目な話をしているのにこんなことを考えると不謹慎かもしれないが、何だか愛の告白のようにも取れる。嬉しさや恥ずかしくなる気持ちを必死に抑え、何とか思考を言葉にして返す。


 「そう言ってくれるのは嬉しいけど、貯めていたってことは元々何か目標があったんじゃないの?僕なんかに使うのはやっぱり…勿体ないよ」


 理屈は分かるがやはりお金はお金。皆が大切にして、血の一滴のように取り扱う程価値のあるものなのだ。そんなものを自分なんかの為に使わせるわけにはいかない。


 「いいえ?節制の精神はともかく、貯蓄そのものに意味なんか無いのよ仁君。人は必要なモノだけを交換し合えば贅沢したがらない。でも、そこになんにでも交換可能な貨幣が入り込むと、貨幣があればあるだけいいと人は考えてしまう。価値基準の総体としてなり変わってしまうからね。自分のあくなき欲望のために、子孫のために、周囲の人々のために、国家のために、共感可能で自分を重ねられる相手さえいれば人は際限なく、狂気の域まで富を集め続けてしまう…でも、そんなことに意味なんて無いのよ。あの世に持っていける訳でも無しに」



 「そ、それでも…っ!君にこれ以上一方的にお世話になるわけにはいかないよ、一度150万っていう金額を受け取ったら、もう二度と対等にはなれない気がするし…」


 「大丈夫よ仁君、その金額だって全額は最悪の時に払うもので、仁君の努力次第でそこからずっとずっと小さくできるんだから」


 「…どういうこと?」


 クリアファイルの後半部から幾つかの紙を抜き取る綾音さん。手元の書類には奨学金制度と書いてある。


 「私の学校には給付型の奨学金が幾つかあるし、仁君のこれからの成績次第で全額から半額近くまで学費を免除することができるの。学外にだって県の給付、貸与制度があるし、それが難しければ国の教育ローンもあるから将来働きながら返せばいい。150万全額を支払う必要はないの」


 淡々と奨学金を受け取るのに必要な条件を述べ立てていく綾音さん。彼女は制度を、世の中の仕組みを知っている。それを教えてくれる人間関係と環境を持っている。…どこかで聞いたことがある、お金持ち程賢く節約することができるという…その言葉の意味が少しだけ分かった気がした。


 だが、ここまで調べ上げて協力してくれるというのは尋常ではない。金額にしろ労力にしろ、友人に協力するという範疇を明らかに超えている気がする。僕は友達が少ないけれど、これが決して普通のそれでないということぐらいは分かる。


 「どうして…そこまで…」


 「…私はただ経済的なものを含めて、お…周囲の環境のせいで、仁君の選択肢を減らしたくなかったの。ただ、それだけ…」


 目頭が熱くなってくる。自然と感謝の念が湧いて出てくる。


 「ありがとう綾音さん、ここまで僕の為に調べてくれて…僕なんかに時間を使ってくれて…なんてお礼をすればいいか」


 いいのよと笑顔で答えかける彼女の言葉を、でもと遮る。ここまでしてくれたからこそ、彼女にはどうしても伝えなきゃいけないことがある。これほどまでの好意を断らなければならない理由を伝えなければならない。


 「…綾音さん、実は僕この前からずっと考えてたんだ。そもそも何で受験して、進学するのかって。ずっと…友達と一緒に居たいからとか、遊べる学生生活がしたいとか…やっぱりそんないい加減な理由もあったんだと思う。綾音さんはそれでもいいって言ってくれるかもしれないけど、少なくとも僕は胸を張って誇れるような理由じゃない」


 「うん…」


 自分の情けない所、卑怯なところを正直に話していく。辛い気持ちもあったけど、ここまでしてくれる彼女に隠し事をするのは騙すようで嫌だった。ただ、自分の気持ちを正直にさらけ出していく。


 「でもさ、誰に関わらずお金を支払ってもらう以上、そんな理由じゃ進学するのも失礼だろうなって思ったんだ。それで僕、将来の夢を決めたんだよ」


 「…将来の、夢?」


 右瞼がピクリと少し上がる。彼女らしからぬ驚きの表情。


 「うん、僕将来はお爺ちゃんみたく学校の先生になりたいんだ。理由は色々あるんだけどね」


教職免許?のために大学には行かなきゃいけないけど、これなら私立の学校には行かなくて済むし、そもそも不純な動機で周りを振り回すことは無い。大学へ行くのもお金が掛かるが、高校からはアルバイトができる。自分で負担できる割合も高校受験とは段違いだろう。彼女が教えてくれたような奨学金制度だって、大学進学において似たような制度がきっとある筈だ。


 「だから…僕は受験の目的を綾音さんと同じ高校に行くことにしない。さっき説明してくれたように、学費が免除される状態で同じ高校へ通えるならそれに越したことは無いとは思う。それでも併願受験にするつもりだし、学費の低い公立校を中心に受けようと思うんだ」


 僕なりに自分の意思で決めた、自分なりの進路。浅知恵だと笑われるかもしれないが、その度に悪い所は治していけばいい。人生に関わるような、初めての重大な決断。


 (きっと綾音さんは応援してくれるだろうな)


 これまでの彼女を思い出す限り自然とそう思えた。何時でも僕の意見を尊重してくれる優しい彼女。それに甘えるわけにはいかないが、きっと賛成してくれる筈。だって普段の彼女は―


 「駄目だよ、絶対に、絶対に駄目」


 えっ―


 予想もしなかった言葉に凍り付く。嘘だと思いたくて彼女の顔を見るが、綾音さんは見たこともないような苦悶の表情を浮かべている。この表情の意味は何だ?


 「え、えっとね…違うんだ、決して綾音さんと同じ高校に通いたくないわけじゃ無いし、ここまで僕の為に骨を折ってくれたことに感謝してない訳じゃないんだよ」


 労を惜しまず協力したのに、僕が自分の意見なんていう勝手なことを言ったから怒ったのだろうか?こうして考えると無配慮だったと気が付いて彼女に隠れて右後ろ脚を思い切りつねる。僕はいつもこうなんだ、なんて馬鹿なんだろう。


 「ううん…そっちじゃないの仁君、そんなことはどうでもいいのよ」


 「…綾音さん?」


 泣きそうな顔で否定してくる綾音さん。それでは何故そんなに悲しそうな顔をしているのだろう。何故そんな『泣くような顔で怒っている』のだろう。


 「教師っていう職業を悪く言いたいわけじゃ無いの、職業に貴賤は無いしその重要性は知ってるわ。聖職として扱われる所以があることも肌身を通して知っている…。でもね、私はもっと…仁君に偉大になって欲しいの」


 「なっ…」


 想像だにしない言葉が出てきて驚愕する。なんだそれは。偉大?意味が分からない。


 「きっと仁君はお父さんに遠慮してそう言ってるだけだよね?私立に進学するのは気が引けるから…だから父親に、あんな奴に気を使ってそう言わされてるだけだもんね?教師になりたいだなんてくだらないこと、本心から言ってる訳がないものね? 」


 「ちっ、ちがっ…!!」


 「でもそんなの気にしなくていいの、仁君…いっそ私の家の子になっちゃいなよ。お金とか、親とか、そういったしがらみには縛られずに済むし、誰にも文句は言わせやしない」


 何だそれは。何だそれは。


 「誰にも邪魔されないことで歩める…仁君にはもっと相応しい将来があると思うの。他の何人たりとも触れさせないような、唯一無二の、不可侵の、ただそこに存在するだけで尊敬と畏敬と吸い上げていくような、そんな将来が」


 目の前にいる人は本当に僕の知るあの鳴上綾音なのだろうか?普段の彼女が持っていた…何というのが正しいのかはわからないが、公平性らしきものがまるで感じられない。少なくともここまで独善的なことを言う人では無かった筈だ。


 「ねぇ…仁君」


 「痛っ!痛いよ綾音さん…!!」


 目を爛々と輝かせて腕を掴んでくる。もがき苦しむような、怒るような、それでいてどこか楽しそうな、狂気としか形容しがたい表情を覗かせながら彼女は言う。


 「私と一緒に行こう?私達二人ならきっとどこにだって行ける、何にだってなれるんだから。学校の教師なんてくだらないこと言わないで?もっと、もっと『上』に行こうよ!!」


 叫びながらもどこか甘美に響く声、激しさの中で不思議と妖艶さを含む誘い。きっと優れた彼女はその提案を実現するのだろう。夢物語としか思えない妄想を、至極現実的な手段で世に編み出してしまうのだろう。僕が知りようもない、想像もできないような、そんな世界への架け橋なのかもしれない。その誘いを僕は…


 「やめてよっ!」


 「あっ」


 身を乗り出す彼女を突き飛ばすことで答えた。思った以上に強い力が出て、彼女を転ばせてしまった。


 「ひ、仁君…?」


 「僕の気持ちを勝手に決めないでよっ!」


 「……!」


 「教師っていう職業は…僕のお爺ちゃんの職でもあるんだ!くだらないことなんて言わないでよっ!!」


 怯えたような表情をする綾音さん。ひぃと小さな悲鳴を漏らす。先ほどまでとは打って変わった弱々しい表情。綺麗な白肌を横断する一筋の涙。


 「出て行って…!」


 「ま、待って…!仁君、私は…!!」


 「聞きたくない!いいから出て行ってよ!!」


 くだらないなんて言って欲しくなかった。僕が初めて自分の意思で決めた夢のことを、大切に思ってる祖父の職業のことを。


大好きな彼女に言って欲しくなかった。


 縋りつく彼女を玄関から無理やり外に出す。視界がぼやける。力が抜け、閉めたドアにそのまま寄り掛かって崩れ落ちる。鳴りやまない泣き声は自分のもの。冷たいタイルの上で、いつまでも泣いていた。

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