第16話 打てば響けや人の和よ(前編)
「うわ…綾音のパンケーキ、美味すぎ…!?」
調理を終え、三角巾を脱いだ友達が料理の感想を伝えて来る。自分でも一口食べ…うん、我ながら中々良い出来になったと思う。
「先生、これウチの班のケーキです!どうぞ!」
「うむ…」
調理実習の成績を付ける為に先生が各班を順に回り、こちらのテーブルにも近づいてくる。彼は家庭科にしては珍しく男の先生だ。
「先生、どうですか!」
「うむ」
料理を一瞥して見た目を崩れていないことを確認した後、フォークで一切れを貰い口へと運んでいく。
前世では一人暮らしが長かったこともあり、料理には多少の心得がある。忙しくなるにつれ手の込んだものは作れなくなっていったが、それでも学生レベルの調理なら手間取ることは無い。…といっても、レシピ通りに作っただけなのだが。
「……」
いつの間に静かになっていた周囲が
「うむ…!!」
満面の笑みでサムズアップをする先生。彼のそれは最高の評価だと知ってキャーッと歓声上げる友達。何でもいいけどこの先生、さっきからうむしか言ってないな。
「やったー!これで家庭科の評価がマシになる!!」
「ありがとう、全部綾音のお陰だよ」
「そんなこと…」
ないよと言いかけて彼女達が材料を持ってきたこと以外何もしていないことを思い出す。たぶん料理経験者が意図的に割り振りされて班が作られているので、こんなものかもしれないが。
どの班でも各々のケーキが焼けて食べ始めたのか、甘い匂いが充満し楽し気な声と共に部屋中を包んでいる。生徒たちの雑談でまるで休み時間のように気が緩んでいく。
「こんなに楽しいんだからアキも一緒ならもっと楽しかっただろうにねー」
「体調が悪いんでしょ?わかんないけど、仕方ないよ」
「……」
あれからアキは殆ど学校に来ていなかった。形の上では体調不良ということになっていたが、私と顔を合わせることにバツが悪くて来なくなったことは明らかだった。
「ちょっと…」
「あっ、ゴメン綾音…私…」
「ううんいいの、大丈夫よ」
アキと元々仲が良かった私が黙っているのを見て、気分を悪くしたのかと思った友達が謝ってくる。私が原因でアキが不登校気味になったという真相を知れば、彼女達はどんな顔をするのだろうか。
正直私個人のアキへの怒りはとうの昔に収まっている。前世から怒るという感情があまり長続きしたことは無かったし、対面でも電話でも必要な一言があればすぐに許すつもりでいた。
だが、これがアキと私だけの問題ならこちらからメールなりの連絡をすることで終わらせてもよかったのだが、問題は仁君への侮辱である。彼への謝罪か発言の撤回が無ければ私は納得がいかなかった。
(私から連絡して彼へ謝らせるのもおかしな話だし、アキから話しかけて来るまで何もするつもりはない)
そう思いつつ自分が数年来の友人に対して酷くぞんざいな扱いをしていることに気がつく。自覚せずとも、やはり心のどこかでまだ怒っているのかもしれない。
甘いパンケーキに合うと言って友達が持ってきた紅茶は思った以上に苦味を感じさせた。
◇
「…随分遠くにあるんだね、鳴上さんの家」
「そう?まぁ確かに少しだけ遠いかもね」
いつもの図書館で集合した後、鳴上さん家の車に乗ってから大分経っている。一目で高級車と分かる黒塗りの車、着いた瞬間うやうやしく頭を下げた運転手、前々から育ちの良さを感じさせていた彼女はどうやら本格的にお嬢様のようだ。
「……」
僕と似て車が苦手なのか車内での彼女は口数が少ない。同じ後部座席から覗く彼女はまさしく深窓の令嬢を思わせる美しさだった。
窓から陽が差す度に長い黒髪とまぶたが透き通り黒真珠のように光っている。彫像をくり抜いてきたかのように整った顔はずっと見ていたかったが、不信に思われないよう横目でちらちらと見るのが精一杯だ。
(どうして鳴上さんは僕と一緒に居てくれるんだろう)
幾度となく繰り返してきた自問。何故こんなに美しい人が自分といるのか、それが分からなかった。容姿も、知能も、そして恐らく家柄も何もかもが違う彼女。
彼女の友人と会った時にその不釣り合いさを責められたこともあり、今日の服装は気をつかったつもりだ。だが、それでもこうして隣で並んでいると月とスッポンという感じがしていたたまれない。もはや存在自体が別次元という感じがする。
鳴上さんと知り合い既に半年以上経っているが、あらためて僕は彼女のことを何も知らないのだなと思う。彼女に色々と教わってから自信が出て、少しは近づけたのかと思っていたが実際はどうなのかは分からなかった。
(今日は出来るだけたくさん彼女のことを知って、それから目標を立てよう…彼女へ追いつくための)
彼女と知り合い対等になろうと思ってから、自分なりにそれまでの生活を変えた。勉強や障害に関して教えてもらったことは勿論、彼女の手をなるだけ煩わせたくなくて家で人知れず復習をしていたのだ。加えて、好きな人が居るのに続けるのは何となく不誠実な気がして
意味があるのかは分からないし、くだらないことかもしれないが、自分なりの願掛けだった。時々気が狂いそうな衝動に襲われるが、その度に彼女の顔が思い浮かんで手は止まる。自分のような人間と一緒に居ることがどれだけしんどいことであるかは自覚していたし、その信頼を汚すようなこともしたくなかった。せめて気持ちだけでも彼女とは対等でありたかったのだ。
田村仁の自慰依存症は誰にも気づかれないまま解決を迎えていた。
「あっ、着いたよ仁君!」
そう言って豪華な庭園を構える住宅地のような場所へと車が入っていく。敷地内には幾つかの建物があってどれもかなり大きい。洋風の町並みは統一されていて、まるで映画で見たことのあるヨーロッパ世界のようだ。
「す、凄い場所だね…このうちどれが鳴上さんの家なの?」
「…?、全部だけど?」
「……はい?」
共同住宅地かと思っていた場所は全部鳴上さんの家らしい。そう言われてみると外周は柵に囲われ住宅地よりかはコンパクトにまとまって家同士が繋がっている気がする。大きな門をくぐった後になお数十メートル走った後にようやく車が止まる。
「さっ、降りて!今案内するね」
「……」
そう言って最奥のひと際大きな家…いや、豪邸に入っていく鳴上さん。さっきまでの気持ちや決意が早くも折れそうです。
「ただいまー、仁君こっちこっち」
「お、おじゃまします…」
学校の踊り場と同じぐらい大きな玄関を通されながら家の中へ入る。鳴上さんから受けていた説明では連れて来る日に妹以外の家族は居ないとのことだったが、遠目に庭師やハウスキーパーらしき人が見え、とんでもないところに来てしまったと思った。
(す、凄い…絵や壺が飾ってある…こんな家が日本にあったんだ…)
何気なく二人で通り抜けた応接室には見たことも無いような装飾品が飾られている。この一室だけでも僕の家、いや、親戚中の家を足しても同じぐらいの価値がありそうだと思う。
「えへへ、こっちが私の部屋なんだけどね、パパ以外の男の人が入るのは仁君が初めてなんだよ?」
そう言ってどこかイラズラっぽい表情で一室に招いてくる鳴上さん。おずおずと入ると色々な意味で期待が裏切られ驚いた。
まず目についたのは巨大な本棚だった。痛まないように日陰側に面して配置された数百の本が所狭しと幾つかの棚に敷き詰められている。それも難しい漢字で背表紙すら読めない本や洋書の類ばかりだ。そして本棚の近くには事務机のような無骨で大きな机が一つ置かれ様々な筆記用具が配置されている。流石に来客を知っているからか机の上は整頓されていたが、机表面に残る傷やシミの多さに普段そこでは混沌としているのが常であることを物語っていた。
これだけ見たなら間違えて図書室にでも紛れ込んだのかと思うのだが、この一角の対角線上にはいかにも女の子らしいぬいぐるみやベージュ色の鏡台、ピンク色のベッドが揃えられている。何故かベッドの上にあるヘッド―ボードだけ木を変えたのか色が新しくなっていたが、こちらは総じて女の子らしい空間となっている。
そしてそれら対極とも言っていい室内の様子を割って入るかのように中央へ大きな机が備え付けられている。まるで二つの空間の境目に接続路を設ければそれは一つの空間なのですよと強引に語り掛けて来るかのようだ。
(なんじゃこりゃ)
一方は一切の華美を捨て去った重厚な空間、もう一方は年齢相応のファンシーな空間。まだこの部屋には違う人間が二人住んでいますよと説明された方が納得がいく…そんな部屋だった。
「どう?私の部屋いいでしょ!」
「…………うん」
どうにかそれだけ言葉を捻りだす。初めて彼女の…その、普段の完璧さとは少し違った面を見てしまった気がした。
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