第15話 会話という奇跡




 「じゃあやってみるからいつも通り真似してね、『えはようございます』」


 「え…『えはようございます』」


 「そうそう、もう少し続けてやってみようか」


 誰も居ない公園でのびのびと発声する。休日の早朝には私たち以外誰もおらず、人目を気にすることなく練習に集中することができた。


 撫でてくる風は少しだけ肌寒く、カラリと晴れた空は秋の終わりを感じさせる。仁君と吃音改善の練習をし始めてからまだ3週間程度だが、効果は目に見えて表れ始めていた。


 「…っ、『えりがとうございます』…、『ひつれいします』」


 吃音には幾つかの種類があり、主だったものを類別すると以下の3種類となる。同じ言葉を繰り返す『連続型』、言葉尻を長く伸ばして発声する『伸発型』、そして仁君が当てはまり最初の言葉が発音できない『難発型』だ。


 「…『ほんにちわ』、『ほつかれさまです』」


 例外もあるが、基本的に彼が吃る言葉の頭文字は規則性があり、それを特定することができる。私が彼にさせている改善法とは、吃る傾向のある頭文字を無理に発音させるのではなく、言いやすい別の音に置き換えて発音させるというものだ。


 一文言を構成する音を全体として近いものにすれば、人は頭文字の音が変わっていようが気づかない。それだけでコミュニケーションは成立するのである。


 そもそも人は言語を捉える際に、必ずしも全ての音を認識して文字を判断しているわけではない。一文の中にある一音がズレていようとも、聴力以外で受け取る情報を使い脳内で自動的に補正をかけてから何を言われたのか判断する。


 挨拶を例に取ろう。五感で近くにいる人の気配を感じ取り、「おはようございます」という言葉を耳で受け止め、発言者を目で確認し、お辞儀のポーズを見て記憶からその意図を連想し、そこから認識して返答などのリアクションを返す。この一連の流れのうち耳で受け止める一音とは情報の割合としてとても少なく、大量に処理されるうちの極僅かな一要素に過ぎない。


 だが、吃音者側が発音を上手にできなかったことを気にして何度も同じ音を言いなおそうとすると、この一連の流れが中断されて挨拶される側もそれに気がつく。これは吃音者が症状を自覚することで悪化する理由の一つである。


 なので彼には正確な発音をするということよりも、合わせて行う動作、つまり挨拶なら頭を下げたり腰を折るといった随伴行為を意識するように伝えてある。『おはようございます』の頭文字が発音しやすい『え』に変わっていようが、目の前で堂々とお辞儀していれば人は挨拶をしているんだなと認識する。大抵は音が少し変わっていることなぞに気づきはしないし、気づいたところでわざわざ指摘してコミュニケーションを妨げようとする人は滅多にいない。


 分りやすく言えば、一か所ぐらい間違えていても全体として堂々としていれば気付かれず問題にならないということだ。


 勿論この解決法は前世で得た私個人の経験則に過ぎない。吃音症には個人差もあるし、同じ難発型でも私以外の人間にこの方法が通用するかは分からない。しかし、今回のケースに限って言えば彼はその経験則を得た前世の私そのものなのだ。このやり方に慣れさせさえすればかなりの効果を期待できる。


 ちなみにこの方法は社会に出て、否応なく接客する際に上手くいかず、何百発も先輩から殴られた後に泣きながら試行錯誤の末に産まれたという経緯を持つ。吃音を改善する方法は他にも敢えて伸発型のように伸ばして発音したり、発音しやすい言葉に変えつつ他の箇所で不自然とならないようバランスを取る方法などがあるが、これが一番実戦的であると自負している。


 「あら、おはようございます」


 「あっ、えはようございます…、……!?」


 大分日が昇って犬の散歩に来た老人と挨拶を交わす仁君。彼は自然とできた挨拶に他でもない自分自身が一番びっくりしているようだ。何一つ不審がること無いまま去り行く老人の背中を、信じられないものを見るかのように見送っている。


 「な、鳴上さん…僕…今…!?」


 「おめでとう仁君、努力が実ったんだよ」


 嬉しさがこみ上げて来るのか、興奮冷めやらぬ様子で語り掛けて来る。まだまだ細かい調整は必要になるし、長文を音読する時などには別の方法を使わなければならないが、これで日常生活の定型句ぐらいなら不自由なく行えるだろう。


 「…っ、っぁ…えりがとう!えりがとう鳴上さん!!」


 ニコニコしながら感謝の気持ちをストレートに伝えてくる仁君。よかった…本当によかったねぇ。


 人に自分の意思を伝えることができる。単純なことだがこれは奇跡である。他人と心を通わせ、共感し、これを喜ぶことができる。こんなに幸せなことは無い。


 田村仁という一個人にとって吃音は生涯治らないが、対策を立て、その付き合い方を工夫することによって普通の人と変わらないように「会話するという奇跡」を行うことができる。


 これが私の出した答えだった。


 「『えはよう』…『ほんにちわ』…!『ひつれいします』…!!」


 覚えたイントネーションを忘れないよう一言一言大切に紡いでいく彼。天を向き、まるで突き抜けるような青空へと歌い上げるように言葉は繰り返される。


 「『えりがとう』、『えりがとう』…!!」


 感謝の言葉は秋の空にいつまでもこだましていた。




                ◇




 「本当に、本当にえりがとう、鳴上さん…全部鳴上さんのお陰だよ…」


 帰り道に横を歩く仁君がそう言って感謝の気持ちを伝えて来る。休日にしか見れない彼の貴重なジャージ姿を目に焼き付けながら言葉を返す。


 「そんなことないよ。仁君が強い気持ちで治そうって思って、私のことを信じてくれたからできたんだよ」


 「またそんな…鳴上さんは学校の勉強ができるだけじゃなくて、こういうことも知ってるんだから…本当に凄いよ」


 そう言って彼は尊敬のまなざしを向けて来る。好きな人と一緒に居るだけでも幸せなのに、こんなこと言われたら…私嬉しくて狂っちゃうよ…。


 「そうかな?えへへっ…」


 とはいえ、彼の障害への取り組みはまだ始まったばかりだ。吃音の次に目に見えてコミュニケーションを阻害するのは強迫性障害、現に今も彼は点字ブロックを3の倍数になるように踏んでいき、不自然であろうが10番目のブロックを両足で踏んで一巡としている。


 「……」


 強迫性障害は心理的な圧迫、ストレスが原因であることが多い。前世では最終的に自然と治っていたが、それまでに幾度となく強迫性障害で人に嫌われ、それが原因でまた障害を起こしているという悪循環を繰り返していた。こちらも早く治せるのならそれに越したことは無い。


 (こっちはどうしようかな…)


 勿論今まで通り一緒に遊ぶだけでもストレスは減らしていけるとは思う。だが、吃音が治まり人と話せるようになった今、並行してそれが実感できるような方法でストレスを解消させてあげれば同時に自信も付く筈だ。


 対人関係療法とまでいかなくても、ただおしゃべりをするだけでも十分効果は期待できるだろう。問題は彼の相手を誰にさせるかということだ。


 (私は仁君から信頼されてるけど、吃音へ理解がありすぎて逆に治った実感や会話ができる達成感を彼に与え辛い。となると完全に他人が必要なんだけど、学校の友達…はこの前のアキみたく拒否反応を示せば逆効果だから選択には入らない)


 どういう人材がいいか慎重に考える。できれば彼をなるべく怖がらせないような相手、落ち着いた年寄りか、もしくは年下か…。


 だが、信頼が置けて年が離れてる都合の良い相手なんてそうそういる筈が…。


 その瞬間ピピピピと携帯が鳴り、思考が中断される。


 ぱっと携帯を開きメールが届いていることを確認する。響から学校の勉強で分からない所に関する質問だった。


 「で、電話…?」


 「ううん、メールだね…妹からだ」


 携帯を持っていない仁君はこの時代の携帯がどんな機能を持っているかよく知らない。そうなんだ、と不思議そうな目で眺めて来る。


 ちなみに前世で携帯…というよりスマートフォンを手に入れたのは社会人になった後だ。この話を同僚にすると必ず驚かれたが、友人が一人も居なかったので特に不便は感じなかった。嬉しいやら情けないやら。


 「へぇ…鳴上さん妹が居るんだ」


 「うん、とっても可愛いよ今度紹介し…」


 紹介しようかと言いかけて頭に電流が走る。ここにいるじゃないか、信頼できる年下が!


 「……」


 「な、鳴上さん…?」


 突然黙りこんだ私の顔を恐る恐る覗こうとする彼。いいことを思いついた。


 「ね、仁君今度私の家に来ない?」

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