幕間 もしも向上心が無かったら

※注意! 幕間です。堕落して読んでください。




 「ふぅ~今日は疲れたな~」


 私の名前は鳴上綾音。25歳のキャリアウーマンだ。現在学生時代に出会った彼と同棲して充実した日々を送っている。


 (パスワードを解除して…と)


 オートロックを解除してフロントに入る。守衛さんから挨拶を受けて会釈を返す。


 都心で駅近くのこのマンションはそれなりの値段がしたが、職場に近い今のこの家は結構気に入っていた。


 正直、高校時代に転がした株で一生働く必要が無いくらいの資産は持っているのだが、仕事が楽しいため今のところは続けているのだった。


 隅まで掃除の行き届いたエレベータと大理石で彩られた廊下を通り過ぎて愛の巣に着く。やっとマイダーリンに出会える。


 「たっだいまぁ~帰り遅れてごめんね、すぐご飯を作るか…ら…」


 玄関ドアを開けた瞬間驚愕する。美味しそうな匂いが既に部屋の中から漂ってきているのだ。


 「あっ…お、お帰り…鳴上さん」


 なんとそこにはエプロン姿の仁君が配膳をしているではないか。私はポカンとしながら荷物も置かないでその場を立ち尽くす。


 「…?な、何してるの…鳴上さん…ボーっとして?」


 「な、何してるのって…それは私のセリフだよ…!!」


 仁君がゲームをせずに家事をしている…何事だろうか…これは夢?それとも天変地異の前触れなの?


 「…今日は晩御飯、作ってみたんだ…実は前から少し練習してみたりして…」


 そう言ってはにかむ仁君。テーブルに並ぶ料理は色とりどりで一品一品かなり手が込んでいる。とてもおいしそうだ。


 それに料理だけじゃない…何となく部屋が綺麗になっているような…。


 「仁君…もしかして…」


 「えっ?僕また何かやっちゃった?」


 まさか外に出ている間に掃除もしていた!?いや、見まわした部屋の中には畳まれた洗濯物やお風呂が沸いている痕跡もある。


 私が一つ一つに恐れおののいて凄すぎ凄すぎと連呼する。これではまるで専業主夫のよう、働きすぎだ。


 「凄すぎ…って、在宅時間の割には家事してなさすぎ…っていう意味だよね?」


 謙遜しつつえへへと照れる彼。可愛い。食事の前にこっちから食べてやろうか…?


 先ほどまで仕事で疲れ切っていた体にヒトシウムが吸収されていくのがわかる。あぁ…これだけで後10時間は働ける。彼がいるこの生活を噛み締めながら、私は幸福の中へと足を踏み入れていった…。




                ◇




 彼と同棲を初めて既に7年が経っていた。


 「もう無理だよ、僕になんかできっこない!」


 そう言って彼が他人とコミュニケーションを取ることを諦めてから、彼の面倒は殆ど私が見ている。あれから障害を治すような取り組みも、勉強をみることも殆どしなくなっていた。


 障害の克己や自立なぞは所詮健常者が作り出す社会の理想でしかない。障害者側の生活を保障さえすれば、本人が望みでもしない限り外の世界に触れさせる意味は無い。元々障害者雇用とは労働力として社会側に求められるより、経済的支援を必要とする障害者側の論理に重きを置いて成り立っているものだからだ。


 彼が無駄に傷つく必要は無いし、進んで周囲に迷惑をかけて苦しめるということもない。ゲーム、アニメ、漫画…好きなことだけをさせて喜ぶ彼も幸せそうだ。


 確かに世の中には彼以上に重い障害を持って働いている立派な人間は幾らでもいる。社会的に排除され孤独であろうが、物理的課題にいつまでも苦しめられようが、母親がかつて述べたように仁君の障害は社会参画が不可能なほど重い障害ではない。これは事実だ。


 世界の裏側では抗生物質も与えられぬまま死に行く人々が大勢を占めているし、貧しく治安の悪い国々では愚痴を覚える間もなく子供が死んでいる。禍福とは所詮相対的なものに過ぎず、少し視点を広げれば彼の障害は不幸の内にすら入らないだろう。


 だが、それでは世界一不幸でなければ人は自己の不幸を嘆いてもいけないのだろうか?それは違う。見えない場所で年間に何億人死のうが、目の前で体感する現実にはこれっぽっちも影響を与えやしないからだ。殴られれば痛いし、馬鹿にされれば気分は沈む。これは極端な例を挙げた詭弁であるが、述べたことが事実であることにもまた変わりは無い。


 自分を慰める為に出た妄想が満員電車を空かしてくれるのか?いや、くれない。主観を知る者は己のみ、プラシーボなぞ泡沫でしかなく他人への配慮なぞ二の次で…あれ?何で私こんなことを考えていたんだっけ?


 「んぐ…んぐ…プッハァ…!」


 「な、鳴上さん…飲みすぎじゃない?」


 缶に残るビールを勢いよく胃に押し込んでいくと、いよいよ思考がまとまらなくなってくる。


 ようは甘えだとか、楽だとか、それが出来る内は好きにさせろということだ。他人が当事者でない癖にごちゃごちゃと口を挟む資格は無い。考えが暴走し、思考盗聴するものが文脈を無視すれば誤解しそうな文言が次々と思い浮かんでは消えていく。あぁ…理性が吹っ飛び舌がひとりでに躍り出していく。


 かつて己を裁断すらした公平な思考はここにはない。アルコールで自制心が薄まっていたことは事実だが、むしろその程度で揺らぐほど彼女の倫理観が失われていることもまた事実だった。


 「なぁ~い!資格なぁ~し!!だぁっとれ~!!」


 「僕もそうだけど、ホント鳴上さんアルコールに弱いよね…はい、お水」


 手渡しされた水をグビグビと飲んでまた鍋をつつき出す。おっ、このつくね好きだなぁ。出汁が染みてておいしいや。


 「うふふふ…幸せ、こんな幸せな気持ちにさせてくれる仁君には感謝だね!」


 「…そんなことないでしょ、僕なんか只の引きこもりで…働いてないわけだし、やっぱり情けないよ」


 そう言ってどこか気おくれした顔をする仁君。その表情は中学の頃から殆ど変わってなく、若いというより幼いという印象を見る者には与えるだろう。


 「いや?同じ職場で働いてる子達の中でも、同棲してる相手が仁君みたいに無職な人は結構多いよ?」


 「え…そうなの?」


 「うん、売れないバンドマンの彼氏からヒモにされたり、家にあるお酒が切れると殴ってくる彼氏はよく聞くケースだね」


 「…うん、うん?」


 「同じ引きこもり系でも、彼氏の壁ドンの種類でご飯かウェブマネーの追加をねだられたりする子もいるんだって。間違えると暴れられて今部屋に空いた穴が8個目らしいよ」


 「……」


 話を聞いてゲッソリする仁君。こういう話をしてまだ俺はマシだとは思わず、そんな連中と比べられること自体に恥じているのだろうか?まだまだ引きこもりの修行が足らないようだ。


 「その点仁君は最高だね。たまにでもこうやって家事をしてくれるんだから、私に不満なんて何一つないよ」


 「そ、それなんだけどね…」


 ん?


 「ぼ、僕さ…やっぱり今みたいな生活って…いけないと思うんだ」


 そう言って伏し目がちに真剣な表情をする仁君。彼の食事を楽しみながら耳だけ傾ける。


 「こ、今度さ…近所で…料理教室…みたいなのが、あ、あるみたいなのね…そこに行ってみたいんだ」


 おずおずとこちらの表情を伺っているのが分かる。とっくに成年を迎えている彼が小学生のようなお願いをしていることで独自のギャップが生まれている。まったく愛おしい。


 「すぐに人前で仕事したりするのは、難しいかもしれないけど…少しづつ他の人と関わって…慣れて…社会に…復帰したいんだ」


 思い切ってそう打ち明ける彼。なるほど、今日の料理は私へのアピールというわけだ。


 「…ね、だからさ、外に出ることを許可して欲しいんだ…いいよね?」


 しばし沈黙が続く。私のビールを飲み干す音が一室にこだまする。


 私は仁君にクルリと向かい笑顔を返す。その表情を見て快報かと思った仁君も笑顔になっていき…






 「駄目だよ」


 無慈悲に期待を裏切った。


 「え…な、なんで…」


 「仁君は殆ど引きこもってるから分からないかもしれないけどぉ、外にはこわいこわ~い人がいっぱい居るんだ。純粋な仁君なんてすぐに騙されちゃうよ、だから駄目」


 戸惑う彼が可愛くて、つい意地悪な言葉をわざと選んでしまう。責めるような言い方にビクリとする仁君。


 「で、でも…」


 「でもじゃないよ?仁君のことは私だけが知っていればいいし、仁君も私のことだけを見ていればいいの」


 彼と彼の家族は別の事情もあって早々に絶縁させている。私も彼のことをごちゃごちゃと言ってくる両親や友人とは殆ど連絡を取っていない。


 唯一妹である響とは大学時代まではよく一緒に過ごしていたが、一度パーソナルスペースに踏み込もうとしてきたことがきっかけで関係を断っている。彼の目に私以外の異性を映したくなかった。


 「そ、そんな…こんなネットも繋がらない場所じゃ…あまりにも…」


 「あ、そんなこと言うんだ?今まで誰のおかげで生きてこれたのかな?そんな悪いことを言う仁君なんて私やだな」


 「…っ」


 高校時代に彼をこの家に隔離してからしばらく経ったある日、私の目的は変わった。彼を外の世界から守るためではなく、彼を閉じ込めて独占するという目的になったのだ。


 「玄関の鍵なんて自分で開けられるし、外へ行こうと思えばいつでもいけるよ?それでも今まで引きこもってたのは仁君だよね?」


 「……」


 嘘だ。彼の衣食住全てを握っているのは私だし、あらゆる情報をシャットダウンされている今の彼には外に出て行っても何をどうすればいいのか、その全てが分からない。既に彼は私無しでは生きていくことができないのだ。


 実際これまでに彼が何度か逃げだしていたことはあったが、大抵近くの公園か駅のホームで呆然としているのが関の山だった。長い間外の世界と関係を断っていた人間というのは、轟音で動く車や列車を見るだけでも圧倒されて立ち尽くすものだ。地元でもなく、知り合いも居ない彼がこの街から逃げ出すことは絶対にできない。


 この部屋は彼の城であり、同時に牢獄なのだ。食材、家具、娯楽、それらすべてが彼に与える影響を精査した人物、つまり私の欲求が反映されている。元々同じ人間なこともあって彼が考えていることは手に取るように分かるし、反抗心の芽になるようなものは予め潰しているつもりだ。


 「ねぇ仁君、私仁君が好きだから言ってるんだよ?だから教えて欲しいな?」


 「な、何を…?」


 「お料理教室…一体誰に誘われたの?」


 またビクリと震える彼。私に隠そうとしているのか口をハマグリのように閉ざすが、そんなことは許さない。絶対に。


 「誰かな~?大家さんかな?守衛さんかな?あっ、それともこの前越してきたご近所さんかな~?」


 最期の言葉を口にしたときわずかに耳が動いて反応した。間違いない。あの女か、私の仁君に色目なんか使っちゃってまぁ…。


 「ねぇ仁君、一つだけ許してあげる方法…教えて欲しい?」


 ルンルン顔で近づいていき、いつものセリフを告げる。彼が全てを諦めた日から続く最後の抵抗を、今折ってしまいたかった。


 「綾音って呼んでくれたらいいよ?」


 「……」


 「フフフ…これを言うといつもだんまりだもんね?名前を呼ばないことで対等になれるとでも思ってるのかな?」


 出会った日から私は一度も彼に名前で呼ばれたことが無い。きっとそれは不均等な私達の関係から自尊心を守る唯一の方法なのだろう。


 だが、他者から逃げ出した今の彼には私の名前を呼べる日は決して訪れない。今更向上心を持ったとしても、これだけ世話した人間が自立して離れることを私は許せなかった。


 結局同じ人間でさえも、他者と関わる意志を捨てた者に伝える言葉は生み出せない。そして一度下した決断はしばしば取り返しがつかないものだ。いつの間にか伝染していた諦観は、鳴上綾音の倫理観を既に蝕みきっていた。


 (ドロドロに溶けて彼と一つになりたい…。元々一人の人間なんだし、こう思うのは当たり前だよね)


 沈黙を続ける彼に口づけをする。隣の部屋まで手を引いて連れていき、有無を言わさずにベッドへ押し倒す。そして…






                ◇






 「きゃあああああああっ!!」


 「わっ…ね、姉さん…どうしたの…」


 夢か…響の勉強を見ている最中についウトウトしてしまっていたようだ。


 「ご、ごめん…つい眠って夢を見ちゃったみたい」


 「う、ううん…私のほうこそ姉さんが疲れてるのに…ごめんなさい」


 短い間だが何か壮絶な夢を見ていたような気がする。どんな夢かは忘れてしまったが、何だかろくでもなかったような…。


 頭を振って気を取り直す。今は響の勉強をみなければ…。


 そう思った私は宿題を見て欲しいと頼んできた響の手元に目を移す。向上心とは大事であり、控えめな彼女の頼みはとても珍しいものなのだから。

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