第14話 鏡が開く時




 「…なっ…鳴上さん…ど、どうしたの…その手…」


 「ん、ちょっとね」


 包帯に巻かれた右手を見て仁君が心配する。左手は止血で済んだが、医者が言うにはしばらく右手で重いものを動かすのは止めた方がいいらしい。


 「昨日ちょっと寝てるときにぶつけちゃっただけ…たいしたことないよ」


 それよりも、と言葉を続けて話を切り替える。今日は彼に話さなければいけないことがある。


 「ごめんなさい仁君、この前私が人を連れてきたせいで…本当にごめんなさい」


 「い、いや…その、ぜんぜん…僕は気にしてないけど…」


 仁君は優しくそういってくれるが、あれだけ面を向かって罵声を飛ばされたのだ。傷ついていない筈が無いし、その原因はアキを連れてきた私にある。


 「きちんと断っておけばよかったの…こうなることは予想できた筈なのに」


 私は私以外になったことはないから人の気持ちはわからない。だが、少なくとも前世で田村仁として生きていた頃から一度体感した失敗がその場限りで終わることはあり得なかった。


 失敗の記憶と関連することにこれからの人生で出会う度、その場で行われた負の感情がフラッシュバックして彼を苦しめることになるだろう。アキは容姿にかなり特徴がある。これから仁君が金髪や釣り目の女性と出会う度にあの罵声を思い出してしまうかもしれない。私はとんでもない過ちを犯してしまったのだ。


 そしてこうも思ってしまう、私は仁君と関わることで彼を余計に苦しめているのかもしれない…と。


 「ね、仁君。正直に答えて欲しいんだけど、私と一緒に居て…どう?」


 「ど、どうって…」


 「私が仁君に勉強を教えたり、一緒に居るのってさ、ただ私の押し付けに過ぎないんじゃないかって…つい、そう思っちゃうんだ」


 仁君、もとい子供の判断能力には限界がある。教育とは、本能的に楽を望む子供側に如何にものを身に着けさせるかということだ。最終的に本人から嫌われたとしても本当に子供の幸福を望むのであれば半端な行動をしてはならない。


 こう思った時、「ならば子供の意思を無視してもよいのか」と疑問を持つ意見もあるとは思う。だが、知識や経験が未熟な子供の衝動に任せて放任すれば、その子供が大きくなった時に「どうしてあの時必要な教育を施してくれなかったのか」と思われるかもしれないし、そもそも学ぶ意味を理解させてやれないまま、自分の頭で考える習慣を身に着けさせられないまま世間という大海に投げ出すことになってしまう。


 勿論、学びとは本来楽しいものである。それを気づかせてあげられたというだけでも彼に勉強を教えていることに後悔は無い。将来にとっても効率的な投資となるだろう。


 しかし…


 「私ね、仁君には私以外にも色んな友達を作って欲しいと勝手に思っちゃってて…それでアキが来るって話になった時、心のどこかで二人が友達になれるいい機会かもって…そう考えちゃったんだ」


 学問とコミュニケーションは違う。前世で私は孤独のままに死んだ。だから田村仁という一人の人間がどれだけ訓練したとしても、人と親密な関係を作り、それで幸福になれるかどうかは分からないのだ。


 もしもこれから先、あらゆる努力を重ねた後に人間関係を作れなかったたとしたら、彼は『ただ前世の私が抱えていた妄念に付き合わされただけ』という結果に終わるのではないだろうか。


 そう、彼が多くの人と触れ合って孤独から抜け出して欲しいという願いはまさしく私の勝手な願いである。吃音を筆頭として仁君が人間関係を作ることに適正が無いことは分かり切っていることだ。そのディスアドバンテージを押しのけてまで彼が見合う幸福を手に入れられるかどうかは分からないのだ。


 アキに図書館裏で犬が欲しくて彼といるのだろうとなじられた。賛同者欲しさに彼を助けているわけではないから、それが不当であることに変わりはない。だが、そう言われた時もしかしたら私は彼の為と称して本当は自分のことしか考えて無かったのではないかと、そう思い至ったのだ。


 誰かに愛してほしかった。同じ時を過ごし、同じものを見て、共に笑い合える相手が欲しかった。そう思いながら死んだ前世の呪いのような願いを、今世で彼に叶えてもらいたくて…そして押し付けている自分がいる。それに気がついたのだ。


 彼に初めて出会った夜、私と彼を同一視することでそこに問題は無いと思っていた。同じ記憶と経験を持つ人間同士なのだから変わらぬ同一人物なのであると。しかし、時が進むごとに彼は確実に前世の自分とは離れていき別人格だと思えるようになった。勉強を通して達成感を得たり、いじめに立ち向かったり…もはや彼の禍福を無断で判断することはできない。確実にそこへ責任が発生するからだ


 「だから…もし友達を作って欲しいって私の思いがしんどいのなら…、余計なお世話だと思ったのなら遠慮なく言ってほしいの、私は…仁君が何を選んだとしても、それを尊重するつもりだから…」


 最悪閉じた世界に二人で生きていくことだってできる。鳴上の家は彼一人を身請けすることくらい問題にもならない。仮に家族から反対され、家から支援を受けられなくなったとしても私にはこれからどの業界のどの会社が伸びていくかが分かっている。これまでお金に不自由しなかったから稼いでこなかっただけで、その気になれば幾らでも株を転がして財産を作ることができる。


 外の世界の一切を遮断し、二人だけで幸せに生きていけるならそれでもいいのかもしれない。


 「ねぇ…どう思う?仁君」


 無言で聞いていた彼に質問を投げかける。そして彼の口から出た言葉は…


 「…ご、ごめん、難しくてよく…わからないや…」


 ズコーッと音がたたんばかりに私がズッコケる。勢いよく椅子から転げ落ちたせいで図書館に居た近くの利用客たちがなんだなんだと不思議そうな目でこちらを眺めて来る。


 そ、そりゃ無いよ仁君…


 「ごめん…でもようは僕が友達が欲しいか…どうか…でしょ?うん、欲しいよ…鳴上さんも応援してくれるなら…百人力…だよ」


 そう言ってニコリと笑ってくれる仁君。うぅ…そんな顔で言われたら何も言えないじゃない…ひょっとして分かっててやってるんじゃないよね?


 「…で、でもさ…実を言うとね、この前話した…別の友達と一緒に遊びに行くって話…覚えてる?」


 「うん、夏祭りに行く前の話だよね?一緒にゲームするっていう…」


 「あれね…当日行って…一緒に遊んだら、僕が…馬鹿で…どうも嫌われちゃったみたいでさ…それから一度も誘われ…ないんだ」


 瞬時に凍る私をよそに仁君は話を続ける。


「でもさ、それって…当たり前の、ことだと思うんだ…僕…吃り…だし、それに…これだって…」


 そう言って強迫観念で机の縁側をなぞる自分の手を横目で見る仁君。今の彼は4の数字を避けつつ10の数字を探して机の木目を否応なしになぞっているのだ。上段の溝、下段の溝、中段の溝…なぞる回数が合計10になるように、かつ往復路に4を入れないよう3段を使い順で規則的に溝がなぞられていく。


 強迫性障害とはその行動に意味が無いと分かっていても特定の行動をしなければ不安となり、意思に反してやらざるを得ないという障害だ。いわゆる潔癖症と呼ばれる汚れていない手を洗い続ける行為や、閉まっているガスの元栓を何度も何度も確認してしまう行為が一般的な人にはイメージしやすいものだろう。


 仁君の場合その行動は数字にまつわる。大抵の場合突然衝動がやってきて、人前だろうが車道のような危険な場所であろうが、それが不可能に近ければ近いほど強い衝動に誘われてそれを行うことを強制される。


 「…そのぐらいのこと、私は気にしないよ」


 予め知っていたこともあって、仁君と出会ってから私がこの行為に言及したことは一度も無かった。当然のことだと受け入れていたし、実際前世の私にとっては自然と治る日まで続けていた当たり前の行為だったからだ。


 「うん、ありがとう…でもさ、あの子があんなに怒ったのは、こんな…ことがやめられない僕と…鳴上さんの関係が不自然だったから…それが理由だと思うんだ…」


 「……」


 私がどれだけ仁君の障害を気にしなくても、他の人が気にしないわけではない。同じように、彼がどれだけ成長したとしても、またそれがどれだけの価値があることか前世を知る私が評価したところで、それが他人に通じなければ相手にとってコミュニケーションを取る理由にはならない。


 結局のところ、私たち二人だけの関係を幾ら発展させても元は同じ人間。外の世界に開いていることにはならないのだ。


 「…し、しんどいとか…余計なお世話とか…と、とんでもないよ…だって勉強だって友達作りだって…全部鳴上さんは僕の為を…思ってやってくれていることなんだもん…」


 吃りつつ一言一言を一生懸命仁君は紡ぎ出していく。


 「…な、鳴上さんには…言ったことが無かったけど、ぼ、僕のお爺ちゃんって…も、元教師…なんだ…」


 「うん…」


 知っている。だが、必死に喋る彼の言葉を聞き逃さないように私は集中して受け止める。


 「昔…そのお爺ちゃんが…僕に勉強を教えてくれたこともあったんだけど、僕の物覚えが悪くて、がっかりさせちゃったことがあるんだ…元、教師だった人を…諦めさせるぐらい、それぐらい僕ってバカなんだよ」


 否定しようとする私を止めて仁君は続ける。


 「でもさ、そんな僕を見捨てずに…鳴上さんはこうやって教えてくれてる。どれだけ間違えても、何度も忘れても、見捨てずに僕の隣で教えてくれる。これって…とっても、もう言葉じゃ表せないぐらい有難いことだよ」


 そう言って顔を上げた仁君を見て私は言葉を失う。一瞬、ほんの一瞬だが彼の顔がとても大人びて見えたのだ。


 「ホントはさ…勉強や友達を作ることだって、僕が一人で解決しなきゃ…いけないことなんだ…それなのに、ここまで親身に考えてくれるているんだから…だから、早く、一日でも早く成長して…鳴上さんにこの恩を返したいんだ」


 決意を込めた目で私を見つめてくる。本当に彼は私の前世なのだろうか?この時代の彼は本来こうではなかった筈だ。こんなに人を気遣い、想えるような…


 「それから…鳴上さんと対等になって…鳴上さんが友達に紹介しても恥ずかしくないような…そんな人になりたいな…なんて、流石におこがましいかな…?アハハ…」


 恥ずかしくなってきたのか、徐々に赤面となって消えそうな声でそう呟く仁君。思わず彼の手を取って逸れかけた目線を強引に重ね合わせる。


 「なっ…わっ…鳴上さんっ!?」


 障害への取り組みに必要な第一歩とは本人がそれを自覚し、改善の決意を持つことにある。単純なことだが実はこれが一番難しい。目を逸らして自己欺瞞することや、他者の居ない場所に閉じこもることは簡単なことだからだ。


 現在の医学では原因が分からず治せない障害もある。どう世間に理解を求めても通じないこともある。一生涯をかけても苦しみの中から当事者が抜け出せるとは限らない。更に言えば、彼の問題はこれら障害のみに止まりはしない。夜の次に待つものはまた別の夜である。


 それでもここに、前へと進もうとする意志を彼は示したのだ。その意思に応えるため私は新たに誓いなおす。


「わかったよ仁君、貴方の決意に応えるために私も今まで以上に…全力で君に協力するから」


 うち開きの鏡は徐々にその蓋(ふた)を開きつつあった。外の光を取り込み、そして真実を写さんとするために…。

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