第13話 神なるものに死を




 (ここは一体…)


 深い霧の中を歩いている。どこに向かっているのか分からないまま、足先も見えない濃い霧の中をひたすらに進んでいる。ここがどこかは分からないし、何故こんな場所に居るのかもわからない。


 歩きながらなんとなしに靴を履いているかに意識が向く。何か危ないものを霧で気づかず素足で踏んでしまっては不味いからだ。だが意識したその瞬間、頭に電流が走ったかのように記憶が痛みとなって飛来する。


 否、これは記憶ではない。かつてあったことの再来だ。トラウマがビデオテープのように網膜で再生されたのだ。


 「おい、コイツ足の骨折ったんだってよ」


 「マジかよ、あれで折れるなんてどんだけ脆いんだよ」


 「だっさ…」


 これは高校時代、体育の時間にサッカーで足を思いっきりぶつけてしまい親指の骨を折った思い出。激痛に耐えながら帰った記憶、松葉杖をついて登校したことを笑われ恥をかいた記憶、松葉杖を隠され芋虫のように這いずり回ることを強要された記憶…。


 足を意識してしまったことで「足」に関連する負の感情が一瞬にしてフラッシュバックする。


 (…!)


 これは日常でも幾度となく行われる悪癖。いや、幼いころから私の意思とは無関係に行われるのだからもはや一つの病気なのかもしれなかった。



 「…っ」


 脳髄のうずいを焼くような痛みを誤魔化すように足を動かす。一度歩みを止めれば二度と歩く気にはならないだろう、霧を蹴り飛ばしながら前へと進む。


 だが、進めど進めど白い霧に覆われたこの場所を抜け出すことができない。全身にまとわりついてくるこの霧の正体がつい気になってしまう。


 「…ゴホッゴホッ!」


 思いがけず鼻で吸ってしまい後悔する。この匂いは知っている、車に乗っていると漂ってくる『ほこりのようなあの匂い』だ。


 次の瞬間に先ほどとは別の記憶がフラッシュバックする。まだ小学生低学年の頃、父親に乗せられた車の中で殴られた記憶だ。顔を真っ赤にして怒鳴り散らす父親に私はただ体をすくめて怯えることしかできない。運転席から左手だけ寄越して背中越しに握られた拳が飛んでくる。密室の車内には逃げられる場所なぞ何処にもない。シートベルトを外して逃げるどころか『自分が悪いんだ』としか考えられない自分はひたすら右手で自分の太ももをつねり上げていた…そんな記憶。


 その出来事以来車に乗るたびにその記憶が思い出されて吐き気がおこる。この記憶が車に乗る時でなく、匂いから直接思い出してフラッシュバックするのは珍しいことだった。


 過去のトラウマを認識する度に痛みを伴って私の頭は無茶苦茶になっていく。一つのトラウマを思い出しては気分が沈み、沈んだ気持ちがまた新たなトラウマを記憶の海から引き上げていく。


 私がいくら過去を忘れたかったとしても、過去が私を離さない。自分の一挙手一投足、全て行動には自己嫌悪が付随する。


 「はあっ…はぁっ…!」


 吐き気を抑えながら走り出す。早くこの場所を去らなければならない。早く逃げださなければ。


 『吐き気』『走る』『逃げる』何気ない一単語があらゆるトラウマをほじくり返していく。


 人間関係は最終的に改善されたとしても嫌われていた過去が記憶の中では強調されるし、今ではしない失敗だと分かっているのに当時の負の感情だけが想起されてしまう。数十の失敗がごく短い時間の間に再体験される。


 もう限界だった。これをやめる方法があるのなら今すぐに助かりたい。人を呼びたい。助けてもらいたい。


 私にしては珍しく他人を頼ろうと思った。だが、声を出そうとしたその瞬間…


 「…ぁがっ!…ごっ…ごっ…!!…あ…あ…!!」


 そうだ、これがあるから私は人を頼れない。無理に言葉を話そうとすると顔が醜く歪み、力んだ体からは吐息のような音しか出ない。


 吃音症は「普通の人間健常者」からはふざけていると思われるし、こちらが真剣に話そうとすればするほど滑稽な惨状となるのでちゃんとしろと叱られたこともある。私の場合吃りを押して喋ろうとすればするほど体に力が入り手足がバタつくので他人から見ればギャグのように見えるのだ。


 一度吃音症を経験したほとんどの人は大人になるにつれ自然と治る。故に、私のように一生治らなかった吃音者は大抵努力が欠けているとみなされる。健常者は勿論、かつて同じ症状に苦しんでいた筈の元吃音者からも馬鹿にされるというわけだ。


 吃音それ自体と併発した発達障害によって生まれた多種多様のトラウマが一瞬にして全身を駆け抜けていく。これも治す訓練だといって医学的根拠も無いまま教師に無理やり大勢の前で音読させられて嘲笑されたこと。吃りで生まれた沈黙から何かを喋らねばいけないと思い発音しやすい言葉を選んだ結果言葉遣いが乱れ誤解されたこと。吃音で答えられなかったばかりに喋れないのではなく覚えていないと思われて答えを知っているのに頭が悪いと馬鹿にされたこと。


 「死んでくれ」「キモイ」「ウケる」「ちゃんとしろ」「人間じゃない」


 頭の中でリフレインする罵声をかき消すように絶叫し、飛び起きた。


 「…はぁっ…はぁっ…!」


 ここは家、今世鳴上綾音の自室だ。深夜で暗いながらも前世ではお目にかかれなかった高級な家具や調度品を見つけ、この空想のような現実を実感する。


全身に滝のような汗をかいているのが分かる。私は今夢を見ていたのだ。それもとびっきりの悪夢を。


 「……」


 昂っている感情そのままに、ベッドに付いているヘッドボードを思いっきり殴りつける。鈍い音を立ててはいるが、不思議と手の痛みは感じない。


 (何故あんな夢を見たのだろう)


 感情的に殴り続けながらも、頭のどこか冷静な部分で思考を巡らす。いや、考えるまでもない。昼間アキに仁君と、仁君を通して私のことを侮辱されたからだ。


 ほとばしるままに感情をぶつけたのは久しぶりのことである。あそこまで気が立ったことがあんな夢を見た原因なのだろう。


 「……」


 無言のままヘッドボードを全力で殴り続ける。手が痺れ感覚が薄まってきたが、まだ止める気にはならない。女性の華奢な腕では殴り辛いため、全身の体重が乗るよう振り回すようにして殴る。


 障害者が何故生まれて来るのか?その疑問を社会生物学的に答えるのであれば、人類があらゆる危機に直面した際に全滅を避けるための保険として機能するからだ。


 大抵の人類は画一的な能力を持って生まれて来る。目が付いており、手が付いており、足があり、脳がある。二足歩行をして生活し、舌で他者とコミュニケーションをとって社会的生活を送っている。一般的、普通と呼べる水準がそこにはある。


 だが、人類が全く同じような姿形をしていて、皆が完全に同じ能力だったとしたらどうだろう。もしも人類の天敵となる存在が現れたり、生存に必要な状況が大きく変わった時に皆が全く同じ状況に苦しみ、皆で一辺倒の対応をして絶滅の可能性が生まれてしまうのだ。


 例えば流行病が出た時に皆が同じ体質なら感染の拡大は止められず、ドミノ倒しのように人類は滅んでしまう。噴火や地震などの天変地異に皆が同じ行動を取ったとすれば、それで助かればよいのだが、もしもその対応も誤りがあればそのまま皆で死に絶えてしまう。


 人が皆一人一人違う要素を持ち合わせることで人類はあらゆる状況に対応することができる。学者と称される人々は人類の僅か数パーセントしかおらず、感性も普通の人々と大きく異なり変人として扱われることも少なくない。だが、その知性で生み出したものを社会に反映させて人類全体の生活水準を大きく引き上げている。革命家と称される人々は、それまでの社会を良く思っている者から見れば鼻白む存在でしかないが、彼らの思想は閉塞した社会の矛盾点をついて抜本的改善を担う可能性を秘めている。


 大勢が共通する要素で苦境に立たされたとしても、残る僅かな人々がその苦境を解決する方法を思いつくかもしれない。そのために多様性とは人類にとって常に必要となり得る。


 また、発展のためには犠牲が不可欠であり、失敗は成功の母である。ナチスは優生学に則り障害者を集めて虐殺したが、短期的、一義的な成功しか知らぬ国家は早々にして滅んだ。身体が一見して大きく、偉丈夫であるからと言って本当に兵士として適しているのだろか?女性がスリムで美しいことは必ずしも良いことなのだろうか?否、無駄に体が大きければ多くの新陳代謝を必要として長期の戦いには不向きかもしれないし、細い女性は伴侶を見つけることには苦労しないかもしれないが、出産する時には苦労するかも分からない。その時々に下される社会的な評価とは所詮一面的なものでしかないのだ。


 短期的には愚かな行為でも、時間が経ってから成功の元だったと気づくことは多くの人が人生の内に経験することだろう。何が必要な要素で、何が本当に不要かなぞ当代を生きる者が把握しきることなぞできないかもしれない。


 人は五体不満足で生まれて来ることもあるし、知的な障害を持って生まれて来ることもある。先天的なものもあれば後天的に獲得するものもあるだろう。また、障害とまでいかなくとも背が小さかったり、太りやすい体質であったり、醜い顔で生まれて来る人もいる。それにはこういった多様な遺伝子を確保することで、人類の存続を安定させたいという種族の目的があるわけだ。万物のあらゆる存在には、当人さえ知り得ぬ使命が遺伝子に組み込まれているのかもしれない。それを否定するつもりはない。


 だが…


 だが


 バキィと音を立ててヘッドボードが軋む。殴り続けた拳は血に濡れている。


 だが、それが一体何だというのだろう!私の劣等が長い目で人類に必要だったとして、私個人はただただ苦しいだけである。種を残そうという長大な計画が幾ら壮大であったとしても、現実で苦しんでいるという事実は全く変わらない。


 (ふざけるなよ)


 右手だけではなく左手でも殴り始める。これ以上は危ないと脳が悲鳴をあげている気がするが知ったことではない。この憤りを、勝手に人柱にしておいて幸福な隣人に馬鹿にされ続けるこの現実を、決して認めたくなくて拳を叩きつけ続ける。


 こんな自分に産めと誰が頼んだ?誰がこんな自分に創造しろと言った?人類の創造主と呼べる人格があるとするのならば、私はそいつを許すことができない。


 この世に神が居なくてよかったと思う。もしも居たらそいつを必ず殺さなければならなかったから。


 (…!)


 足音がする。誰かが私の部屋に近づいている。


 ハッとした私が慌てて殴り続けるのを止めて手を後ろに隠す。一体誰だろう。


 「姉さん…?」


 ガチャリとドアを開けて現れたのは妹の響だった。


 「ど、どうしたの響?こんな時間に…」


 「どうしたって…姉さんの部屋から凄い音が…ヒッ!」


 電気を付けた響がベッドを見て悲鳴を上げる。なんとヘッドボードが歪み折れ、私の血で真っ赤染まっていたのである。


 (えぇ…うそぉ…)


 惨状を見て引き起こした張本人なのにも関わらず絶句してしまう。殴っている時には暗闇で見えていなかったが、まさかこんなになるまで殴り続けていたとは…。


 現実を知ってようやく冷静さを取り戻す。両手はジンジンと痛み真っ赤に腫れているが、恐らく骨は折れてはいない…と思う。人間暴力を振るう時には殴る自分の拳を守るために意識無意識でストッパーが働くものだが、どうやら夢中で気がつかなかったらしい。


 (もしかして仁君が大人数相手に喧嘩で勝ったのって…)


 「姉さん…大丈夫?」


 思考がズレそうになった所を響の声で我に返る。今は響を安心させなければ。


 「うん、ちょっと寝てるときに鼻血を出してそれに驚いちゃってさ…びっくりさせてごめんね?」


 両親は家が大きいことが幸いして寝室が離れていたが、響の部屋はすぐ隣である。異変に気付き起こしてしまったのだろう。


 その後は響を落ち着かせるために彼女の部屋へ行き、寝入るまで頭を撫でて一日を終えた。今日は昼も夜も慌ただしい日だったなぁ…。

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