第11話 最初の思い出




 あたしが本当の意味で綾音を知ったのは小学校に入り数年経った時だった。


 初めて連れていかれる器楽コンクール。あたしは審査員として呼ばれた母さんの付き添いで会場に行ったが、正直その時には音楽にも出場する何人かの同級生にも全く興味が無かった。


 そりゃ顔見知り程度の子も出てはいたが、だからといって何なのだ。ほとんどは座っているだけの退屈な時間だったし、そもそも何故大勢の大人が年少の子供の演奏に首を揃えて聞いているのかも当時の私には理解できなかった。


私や隣のおじいさんはところどころ寝ていたし、後半になるにつれ観客も集中力が切れ始めたのか、何だか飽きたようにしらけた表情をしている人もいた。


 じっと座っていることにもしんどくなって、もう観客席から出ていこうかとも思ったその時に番が回ってきたのが綾音だった。


 鳴上綾音。クラスは一緒だが女子のグループが違うし、話したことは殆どない。いつも学校のテストで満点しか取らない変人だということは知っている。


 彼女は体を小さくしてお辞儀をすると、重そうなチェロを抱きかかえるようにして前に置き、演奏を準備する。


 (早く聞かせてよ、ヘッタクソな演奏を)


 くたびれた私はすっかり意地悪な審査員気分になっていた。実際それまでの同級生達も曲を正確に演奏するか、それすらできないようなものばかりだった。子供であることを免罪符にしたお遊戯会なぞ、家でCDを聞いていたほうが何倍もマシだ。


 私は頬杖をつき、足を組みながら彼女の出す音を傲慢ごうまんに待ち…そして圧倒された。


 悲しい音だった。重苦しく、やるせなさと怒りが入り混じったような、だがすすり泣くような可愛いものでは決してなく、絶叫を叩きつけて来るような、そんな悲痛な曲だった。


 それまでどこかゆるんでいた会場の空気が一変する。刺すような痛みが眠気を吹き飛ばすようにして観客達の意識が覚醒していくのが分かる。なんだこれは。


 あの弦は骨でできているのではないか。この音色はどこかに隠している人の悲鳴なのではないか。そう思えるぐらいのもの悲しさを耳で、肌で、全身で感じ取る。


 こんな曲を何故小学生が?何故あたしと変わらないような女の子が弾けるのか。音の迫力に対して演奏者の小ささがコントラストとなって錯覚に囚われる。壇上からではなく空間そのものから音は出ているのではないか?


 寝ていた隣のおじさんはいつの間にか起きて涙を流していた。不気味さすらこの演奏で感じたあたしとは違って、この人は何か別のものを感じ取っているのだろうか。


 会場を見渡せばおじさんのように涙を流している人は少なくなかった。特に年配の観客達が一様にして泣いている。


 (なんなの…なんなのよ…)


 皆が綾音から目を離さない、いや、離せない。音楽と共にあたしの胸を通り抜けていくこの感情は何だ?羨ましいような、嫉妬のような、いっそ耳を塞いでしまいたいような、それでいてどこか憧れてしまうような…。


 あたしは勉強も運動も一通りこなせる。やったことのないことも、一度やれば大概のことはできた。母さんは誰でも知ってる有名人で、クラスでは誰からも一目置かれている。勉強だってもっと本気を出せば、きっとアイツに負けはしない…


そこまで考えてハッとする。今あたしは必死にアイツの粗を探して勝てる所を見つけようとしている。



 演奏が終わった後も母親に声を掛けられるまであたしはその場を動くことができなかった。余韻よいんに浸っていた…というよりも、聞いた音がずっと頭の中で繰り返されて鳴りやまなかったのだ。




                ◇




 「ねぇ、アキは誰にチョコを渡すの?」


 「…え?別に誰にも渡さないけど」


 「え~っ!?アキってばモテるのに勿体な~い!」


 小学3年生の週末、いつもの女子グループと週明けのバレンタインデーについて話していた。いつも放課後はこの7、8人のメンバーだ。


 「モテるならチョコなんて作らなくてもいいじゃん、むしろホワイトデーを待たずあたしに男が渡せってカンジ」


 「えー…」


「アキやばいよそれ」


 最近女子のみんなが男に媚びていて気に入らない。廊下や教室で気になっている男子と目が合うと露骨に笑いかけたり、わざと男子に聞こえるような声でかっこいいと仲間内で話しているのを見かけると眩暈がする。


 「誰か気になってる子とかいないの?チョコを渡してあげれば告白してくれるかもよ」


 「いないよ、そんなの」


 告白してくれるってなんだそれ。好きなヤツができても自分で告白しないで相手にさせようというのが気にくわない。そんなズルいことばかりしてるから男に舐められるのだ。男子も男子でそのことをどうやら誇りに思っているらしく全くバカバカしい。


 「あ、鳴上さん」


 「ん?どうしたのみんなで集まって」


 教室から出ようとする鳴上に皆が話しかける。


 「これから私の家で来週のバレンタインデー用にチョコをみんなで作りに行くの、鳴上さんも行かない?」


 きっと鳴上は来るだろう。いつもクラスの付き合いには積極的な方だし、男女両方に人気な子だからきっと合わせてくるだろうと思っていた。だが…


 「ゴメン、今日はちょっと読みたい本があるからいいかな」


 そういってそそくさと図書室の方へ向かって歩いていく。変な奴…。


 「…鳴上さんっていい人だけどちょっと変わってるよね」


 「ほんとよ、変な奴」


 思わずそう口に出てしまう。アイツはこの前もテストで満点だった。それなのに今日も図書館へ向かうということはまた勉強するのだろうか?この前のコンクールでも賞を取っていたのに自慢するそぶりも見せないし、本当に変な奴だと思う。


 「読みたい本って何だろうね、何かの勉強なのかな」


 「私も勉強嫌いじゃないけど、鳴上さんほどじゃないかなぁ…この前辞書みたいに分厚い本読んでたし」


 そうだそうだとあたしは頷く。この前鳴上の演奏を聴いてから何となく勉強を頑張ってみたが僅差で2位。学年最高得点を上から女子2人で取れたのは少し嬉しかったが、それでもアイツに勝てなかったのは悔しい。


 「でもさぁ、私モテるならあまり勉強できない方がいいと思うんだよね」


 ……は?


 「ちょっと、アンタそれ…」


 「あ、ごめんごめん別に鳴上さんの悪口じゃないんだ」


 でもさ、とその子は続ける。


 「男子って自分より少しだけ頭悪い子の方が好きになりやすいらしいよ」


 「あっ、その話前にママが言ってたかも!」


 そういってどんどん話が盛り上がっていく。曰く男の子のプライドを傷つけないように支えていくことで相手に大事にされる。曰く生意気な女は嫌われる。それを聞いてあたしは叫び出したい気分だった。


 うちの学校は生徒の自主を、独立を尊重している。道徳の時間にそう先生から聞いて、それに皆で賛成したあの時間は嘘だったのだろうか?


 これでは男の好意にすがりに行っているようで…まるで自立することを自分から避けているようだと思った。何故平気な顔をしてそんなことを話せるのか、何故平然とそんなことを許せるのか。


 これは私が子供だからそう思うだけなのだろうか?私が未熟で、こんなちっぽけな嘘や矛盾が気になるのはただバカな証というだけなのだろうか。


 悪寒が全身を這い上がってくる。こらえようとするが、罵声となって口から出てこないようにするだけで精一杯だった。


 「あっ…高坂さん!」


 気がついたらその場にいることが耐えられず走り出していた。


 何故か走りながら母さんが頭に思い浮かぶ。お母さんはいつだって正直で、真っすぐで、私には嘘を吐かない。だが私以外にはどうなのだろう?テレビや映画に出る時に相手に合わせて嘘を吐くのだろうか?役をこなすのに嘘は当たり前なのだろうか?家の外では賢くそう振舞うのだろうか?今すぐにでも聞いてみたかった。




                ◇




 気がついたら図書室にいた。走ったことを先生に一通り叱られたあと、夕が差してオレンジ味の増した本棚に囲まれてあの子を探す。


 「……」


 (居た…)


 図書室の隅の小さな丸机で椅子に座り、入り口に背を向けて座っている。日陰に座り長い髪の毛だけが見えるので一見置物のようにも見える。


 「ねえ…鳴上」


 「……」


 無視される。なんだコイツ。


 「ねぇ、鳴上ってば!」


 「きゃっ!と、高坂さん?びっくりするから急に話しかけないでよ…」


 「さっきから話しかけてたわよ…」


 気がつかないほど集中していたということだろうか?向かいの席に座って読んでいる本を見る。


 (なんだこれ…)


 難しい漢字が沢山あって読むことができない。読んでいる本が小説じゃないことは分かるが、文字の意味がほとんど頭に入ってこない。向かいに座っているので首を傾けて正の位置からも読んでみるが、やはり分からない。


 鳴上も鳴上で何の本か教える為に背表紙でも見せてくれればいいのに、よほど集中しているのか本から目線を上げることすらしない。


 「…ねぇ、アンタ何やってるの」


 「え?本を読んでるよ」


 見て分からないのかと言わんばかりにそう言ってくる。そうじゃなくて…


 「この前のテストアンタ一位だったじゃない、それなのにまた勉強してるの?」


 「勉強?これ私が読みたいだけで学校のテストは関係ないよ」


 こともなげにそう言ってくる。多分この子は嘘を吐いていない、本気でそう言ってるのだ。うちの学校には男子ならこういう子は何人かいるのだが、女子で実際に見るとなるとやっぱり珍しい気がする。


 「フン…ねぇ知ってる?女の子が勉強できると男子にモテない…らしい、よ…」


 言いながら自分で後悔する。私は何故こんなことを言っているのだろう。鳴上が傷つく所を見たいから?鳴上が動揺するところを見れば何かに勝った気がするから?なんにせよ意地の悪い話だと思った。


 「…?、それが?」


 「そ、それがって…」


 いつもクラスではニコニコしてる鳴上とは思えないそっけない答えにかえって私が動揺する。仮にも女子で、しかもかなり可愛い方だと思われてる鳴上がこんなことを言うとは思わなかったのだ。


 「そんな心の小さい男子なんか相手にしなきゃいいんだよ、高坂さん」


 「…!」


 鳴上はこともなげにそう言ってニコリとほほ笑む。


 当たり前のことだと言うように。あと100回聞かれても同じことを言うかのように、そういった。


 「…くっ、くっくっくっ…っ!!」


 「高坂さん?」


 突然笑い出した私を不審そうに見てくる。そうだ、簡単なことじゃないか。何であたしはこんな簡単なことが分からなかったんだろう。


 あまりに多くの子が当たり前に持っていた意見だったから、ついそれを正しいと思ってしまった。そんな訳はないのに。普通であることが間違いじゃない保証は無いし、ましてや正しさを認め判断することを他人に預けてしまっていいわけが無かったのだ。


 (自分のことは自分で決める…それが当たり前だものね)


 目の前のこの子はきっと男に媚びはしないのだろう。自分があって、これから人を好きになったとしても相手の気にくわない所はむしろ直していきそうだ。大人しそうな見た目をしているくせに、何て真っすぐな子なのだろうと思う。


 この子と一緒に居られればきっと後悔なんてしないんだろうな。成功も失敗も全て自分のもので、人のせいにする余地なぞ生まれようが無いから。


 「アキでいいよ、あたしのことは」


 綾音は嘘を吐かないし、吐くことができない。そう思えた最初の一日だった。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る