第9話 二人と恋(G)
先ほどまでのことを思い出す。既に大分癒えてきた彼の背中に湿布を貼ろうと肌に触り、自分の背中なんてまじまじと見たことが無かったものだから色んなことに気が付いた。思っていたより背筋がしっかりしてるな…とか、こんなところにホクロがあったんだ…とか、湿布の強い匂いに紛れた懐かしい男の人の匂い、仁君からは前世のおじいちゃんの匂いがするんだな、なんて…。
「……、…さん…鳴上さん!」
「えっ…」
ぼうっとしていたところを仁君に呼ばれてハッと気が付く。いつの間に気が遠くなっていたのだろう。
「どう…したの?どこか…調子でも…」
「う、ううん!全然全然、何とも無いよ!!」
頭を振って否定する。あなたの裸のことを考えていましたなんて本人には言える筈も無い。
「なら…いいんだけど、この問題で少し聞きたいことがあるんだ…」
そういって問題集を抱えながらもずいと体を寄せてくる。今は仁君の家、つまり前世の実家で勉強しているため座る場所が狭くどうしても密着気味になる。普段図書館で一緒に勉強している時にはそうでもないのだが、家にいていつもよりリラックスしているのか、それとも単に勉強に熱中していて周りが見えていないだけなのか、寄せる顔が近いような気がする。
(あっあっ…ち、近いよ仁君…)
心臓の音を聴かれてしまうのではないかと思うぐらい胸がドキドキしている。鳴る早鐘を必死に落ち着かせながら聞かれた質問に答えていくと、納得した仁君がまた机に向かいだす。
「……」
離れたら離れたでどこか寂しい気持ちになる。私は頭がおかしくなったのだろうか?
仁君がいじめに立ち向かってから早一週間。梅雨入りしてどこか落ち着くような日々は今日も変わらない。
あれからまた仁君へ報復があるのではと心配したが、彼の話では学校で無視されることはあっても以前のように虐められることは無くなったのだという。
「なんだか…不思議で…ね、今までもずっと虐められて…きたから、これからも…ずっとそうなのかと思ってた、でも…違うんだね、たった一回立ち向かっただけで…こっちが拍子抜けする…ぐらい」
元より彼らは度胸や喧嘩の強さをステータスにして生きている人種だ。虐める相手を暴力で従わせていると同時に、暴力に屈し歯向かわぬ相手を最も軽蔑していたのかもしれなかった。
淡々と語る仁君の顔からは何の感情も読み取れない。これまで虐められてきた分これを機にこちらから復讐してやろうだとか、水原に勝ったあの日はこうやって活躍したんだぞとか、そんなことは一切言わなかった。
ただ、どこか憑き物が落ちたかのような顔をして落ち着いていた。心なしか背筋が伸びているような気もするが、それ以外は普段と変わらない。
喧嘩のことも突然運動神経が良くなり強くなったというわけではないらしい。中学生程度なら体が育ち切らず、体格にも差が出づらいため、少なくとも虐めっ子達が普段思っていたほど一方的な喧嘩にはできなかったのだろう。ヤンキー漫画を読めば誰でも喧嘩に強くなったような気がしてくるものだが、根拠の無い自信を持てるのは何事も初心者の内だけだ。
…いや、それにしても7人を相手にするというのはそれだけじゃ説明がつかない気がする。あの日あの場所で何が起こったのかは結局本人にしか分からない。
「……」
ちらりと眺めると仁君は理科の問題集を真剣に取り組んでいる。本当に普段通りだ。
むしろ異変があったのは私の方である。今まで仁君には過去の自分として接し、未来を知る者としてできる限りのことをしようと思い行動してきた。注ぐ親愛の情も今まで欠かしたこと無かったし、これから先に何があっても彼を見捨てるようなことは絶対にない。彼は私自身であり、私は彼なのだから利害の分裂なぞ起こりようが無い。
…だが、先日の一件で仁君は明確に前世の私を超えて成長しているのを感じる。小中虐めてきた相手に反抗し、己の手だけで問題を解決してみせたのだ。それがどれだけ難しく、偉大なことであるかは他でもない私自身が一番よく知っている。
眉間にシワを寄せて考えている彼の顔を横から覗き見る。カッコイイ。
そう、私は今の彼を魅力的な男性だと感じてしまっている。これまでは私が通ってきた道ばかりを彼に歩かせてきたので予測が立てられたが、今彼が辿り着いている場所は完全に私が未踏の地であり、どんな経験をしているのかが予測できない。経験の違いは人生の違いであり、歩む人生の違いは本人の人格を変える。今の私には彼が少しずつ私ではない別の人間に変わり始めているようにも思えた。
そこまで思い至った時、仁君を今までのように自我を重ね合わせられる相手ではなく、別個の自我を持った異性だと認識したのだ。…してしまったのだ。
(~~~っ)
今まで私が彼にしたことやされたことを思い出して恥ずかしくなる。将来彼が異性と付き合うためのハードルを低くしようとして随分ボディタッチをしてしまったような気がするし、事故とはいえその帰りの電車で彼に…その、胸を…触られて…。
(どうしよう…どうすればいいんだろう)
結構おもいっきり触られてしまったような気がする。これが自分自身相手だったからよかったものの、普通だったら責任を取ってもらうぐらいには重要なことじゃないだろうか?
いけない、思考がどんどん熱を持って加速している気がする。女の子の体に精神が引っ張られているのか、さっきからピンク方面にばかり頭が回ってしまっている。落ち着かなきゃ…こういう時は前世での経験を生かして冷静に…いや、私の前世で異性との交際経験は無いんだった。こと恋愛に関しては目の前に座っている中学生の仁君と同じレベルだわ。
(ううぅ…何だか私一人でもんもん考えて馬鹿みたいだよ)
こういうことは一人で思い込み激しくなるのが一番いけない。何事も相手あってのことだ。仁君だって今は涼し気な顔をしているが…いや、ほんとに憎いぐらい涼しげない顔をしているが、きっと心の中では私と同じように相手の体を触ったことをずっと覚えている筈だ。体…体のことを…。体といえば仁君の背中逞しかったな。
「あ」
「どうしたの?また湿布貼る?」
「いや…し、湿布はさっき張り替えたばかりでしょ、トイレに…行ってくるね」
そう言って仁君はさっさと行ってしまう。流石に私は恥ずかしくなり、一人で何盛り上がってるんだろうと反省する。
仁君がいなくなった後の机を見て勉強の進捗を確認する。順調…いや、思ったよりも進みが早い。そういえば今日はあまり質問をされていない。内容が暗記物ということもあるだろうが、それだけ集中していた証拠だろう。
(学校の中間テストも見せてもらったけど驚くほどよかった…また何か彼の為にできることをしたいな…)
脳内におけるシナプスと神経細胞は回路として使う度に強化されてより記憶しやすくなる…ありていに言えば、基本的に頭は使えば使うほどによくなる。数か月前の彼からは想像もできないような今を思えば、何かご褒美になるようなものを用意したかった。
(ご褒美…本人に聞けば多分遠慮して答えないだろうし、この頃の自分が欲しかったものをちょっと思い出してみよう)
目をつむり思い浮かべる。この頃の自分が欲しかったり、やりたかったことと言えば…。
顔見知りにバレないようにわざわざ隣街へ行き、グラビア雑誌を週刊誌で挟んで会計に持って行った記憶…。
母親のパソコンでエッチなサイトを見ようとして架空請求に引っかかり、多額の請求書が家に届くのではないかと心配しながら生活した記憶…。
どうしてもエロゲーが買いたくて大人っぽい恰好に変装して店に行くも、当然店員に見破られてレジで恥をかいた記憶…。
いや、エッチなことに関連する記憶しかない!やっぱりエッチじゃないの仁君!!
何となくエッチな気持ちを他のものに向けるのが許せない気がする。…いや、それなら正しくはどこに向けるべきなのかと問われると分からないが。
まだ仁君が戻ってくる気配はない。勝手知ったる我が家である。今の内に仁君のエッチな本だけでも処分しなければ。
部屋の隅にあるブラウン管テレビ下のビデオケースを開ける。この下は二重底になっており、幼い頃からここにはお世話になった神器達ばかりをしまっていた。
「よいしょっ…と」
体を屈めて手を伸ばす。人のモノを勝手に捨てるのはいけないことだが、彼は私であり私は彼である。今の彼に必要かそうでないかは未来を知る私が判断を下すべきだ。私と出会ってから彼はエッチなものを鑑賞する時間を勉強に充てて生産的に使っている。それは彼の為になることであり、彼がエッチなことに使う時間が減ればそれだけ私のことを見て…じゃなくて、より勉強に充てることができる!以上、Q.E.D!判決有罪!証拠物件押収、早期送致ッ!
ガバリと勢いよく開けて中を見る。だが…。
「…あれ?」
中には何も入っていない。そんな馬鹿な、確かにこの時代の彼はここにあんなものやこんなものを入れていたはず…。ここにないなら一体どこに?
釈然としないままビデオケースを戻し、視線を上げようとした先で何かが見える。テレビと壁の隙間でモソリと動くものがあった。
長い触覚茶色い骨格、足が六つで羽も付きゃ、走る姿は風のよう。
室内害虫、チャバネゴキブリだ。
「いっやあああああああぁぁぁ!!!」
するりと壁から這い出てきたソイツは股下を抜けて床を滑るように走り回る。何とかしなければと思うが体が金縛りにあったかのように動かない。
「鳴上さんっ!」
悲鳴を聞いてか仁君が部屋に飛び込んでくる。ソイツを見つけて状況を理解すると、両手で掬い上げるようにして近づいていく。
追いかける中で何度か逃げられるが、彼は物陰に隠れたのを見計らって退路を潰すように手で塞ぐ。
「…!」
チャバネが逃げ場を無くした一瞬の隙に捕まえる。凄い。
「な、鳴上さん…窓、開けてくれない?」
そういうと両手を塞がれた彼は顎で近くの窓を示す。何が何やら鍵を回して窓を全開きにするとそこから仁君がゴキブリを窓外に放り捨てる。
…あぁ、ゴキブリを殺したくなかったのか。
緊張の糸が解けてへたりと座り込む。しばらくして念入りに手を洗った仁君が介抱してくれる。
「な、鳴上さんも…苦手なもの…あるんだね」
今世では清潔「すぎる」と言っていい場所に長く住んでいたため、久々に見てびっくりしてしまった。
「ごめんね…僕が家に連れてきたばかりに…怖い思い、させちゃって…」
今日家に湿布を忘れてきてしまった仁君に、雨の中じゃ行き来も大変でしょうと言って勝手に来たのは私だ。彼が謝ることじゃない。
「ううん…大丈夫、むしろ来てよかったよ」
背中に触れただけじゃない。彼の優しい一面を再確認できたり、今こうやって介抱してくれるのならまた出てきて欲しい。好きな時に彼に飛びつけるのならむしろお金を払ってでも出したい茶色いキューピッド。
確実にいかれつつある思考を自覚しつつも、抱きとめられる心地よさに身を任せる私であった。
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