第5話 二人と学び
「それでは始めー」
先生の声と共に一斉に教室中から筆記音が聞こえ始める。
(昨日は楽しかったな…)
仁君と出会って既に数週間経つ。昨日は習い事が無い日で彼と共に放課後を過ごしていた。
(宿題を手伝える仲になってきてもうしばらく…そろそろ他のことにも手を出すべきかな?)
配られたテスト用紙にザっと目を通して順に問題を解いていく。設問で問われていることに反射的に答えながら、次に何をして彼と過ごそうか考える。
(…いや、家でのことや学校のことを解決するのはまだ早いかな)
テスト中に時間が余るのは中等部に進学してからも変わらない。念のために何度か見直すが特に問題は無いだろう。
(虐められてることや、対策が立てられる障害からは一日も早く解放してあげたいけれど…まず本人がそれを認めること自体に大きな勇気がいる)
前世の自分が抱えていた問題は多いし、それは問題同士が複雑に絡み合ってもいる。なるだけ早く解決してあげたいが、その問題を自覚するだけでも本人の自尊心は深く傷つくことになるだろう。仮に仁君が今の時点で薄々と気が付いていたとしても、私が不用意に踏み込めば嫌悪感を持って距離を置くかもしれない。そういった事態を避けるためにも、もう少し寄り添える関係になってから手伝った方がいい。
試験の問題用紙にこれから仁君に教えるスケジュールを書き出しながら頭の中を整理する。
(そうなるとやっぱり当面の目標は今までと変わらず勉強を教えることになるかな…)
私が彼の勉強を見ていることには幾つかの理由があるが、最も重要な理由の一つとして仁君が授業中に過ごしている時間を無駄にしたくないというのがある。何を隠そう前世では、小学校から高校まで一部の教科を除いて殆ど授業に付いていけず、授業中には聞いているフリをするか寝ているという大変勿体ないことをしていたのだ。
夜間大学に入り一から学ぶ際、自分は何て貴重な時間をドブに捨てていたのだろうと泣きながら後悔していた。あんな馬鹿げたことを繰り返さないためにも、仁君にはまず授業に付いていけるようにしなければならない。
(知育教育の本でも読もうかな…)
テスト終了を告げる鐘(かね)が聞こえてきたのは、彼に解かせるための問題を数十問程用意できた後だった。
◇
「うっ…また、間違えちゃった…」
「大丈夫大丈夫、この前やった問題の正答率は上がって来てるし、ゆっくりやっていこうよ」
市立図書館に集まり二人で肩を寄せ合い問題を解いていく。当初は助けてくれたお礼ということで仁君の宿題だけを相手していたが、それを解くのにも結局小学校で学んだ基礎的な問題が解けなくてはならず、今では計画通りに全教科をほとんど一から教えている。
だが、それまでに使っていなかった頭を長時間酷使してせいからか、彼は日を追うごとにヘロヘロになっていっている。最初一緒に勉強できることを喜んでくれていたが、今ではまるで殴られ続けたボクサーだ。
「も、もう駄目だよ…どうせ…僕なんかに…勉強はできっこないよ…同じ問題を何度も…こんなに間違えて…」
「そんなことないよ、仁君は他の人より覚えるのにちょっとだけ時間が掛かるだけ…自分のことをなんかなんて言わないで?」
何度か休憩を挟んでいるものの、既に覚えた筈の問題を何度も忘れて間違えてしまうことがキツイのか、かなり精神的に参っている様子だ。
「ぼ、僕…頭が悪いんだよ…せっかく鳴上さんにここまで時間を使ってもらっているのに…」
「仁君…」
確かに過去の私は物覚えが悪かったが、それは必要な勉強量を必ずしもこなしていたことを意味しない。過去を思い返すに、たまに勉強してはうまく集中できなかったり、思ったように成果が出ずに辞めてしまう…その繰り返しだったように思う。
人はどうしても憶えたことを忘れてしまう生き物だが、忘却曲線といって忘れたものを憶えなおすこと…つまり復習する度に記憶を忘れづらくすることができる。
記憶した次の日、3日後、1週間後、1か月後…一定間隔で覚えた内容を復習し続ければ、そのごとに脳は確実に記憶していく。それでも忘れることはあるかもしれないが、仁君が抱えている本当に努力ではどうしようもない障害に比べれば、遥かに克服は容易い。
確かに世の中には一度見聞きしたものを忘れない卓越した記憶力を持つ人間がいる。だが、そんなひと握りの人間を基準にして勉強を諦めてしまうのはあまりに勿体ない。
「そんなこと言わないで…ね?」
「あっ」
彼の手を取り、目を合わせ語りかける。正解できた問題を一つづつ指し示し、その問題に取り組んだ最初の日時を聞いていく。前世では対人経験が無いことも災いし苦労した。こうして私と接することで異性と話すいい経験になればと思い、スキンシップ多めのコミュニケーションをとっていく。
「これは?」
「三日前の…問題」
「じゃあこれは?」
「えぇと…この前、一週間ぐらい前にやった…やつ」
耳元に口を寄せて必要な情報をささやいていく。仁君は暑いのかだんだんと耳が赤くなっていっている。
「そう、仁君はちゃんと覚えているよ。今日の問題だって何度もやれば、きっと三日後や一週間後にはちゃんと頭の中に残ってるよ」
所詮人間は弱い生き物で、一人ではどうしても己を律しきれない部分がある。今の勉強ができない自分しか知らない彼が頭に自信を持てず、勉強する習慣を身に付けられないことも仕方がないことだ。
「何十回でも、何百回でも間違えていいんだよ。その度に私と一緒に勉強していこう?」
だが、ここには努力の彼岸を知る私がいる。前世では簡単な成功体験に辿り着くのに人の何倍も遠回りをしたが、それでも努力してよかったと思える日があることを知っている。そのためには困ったときには支えるし、彼が自分を客観視するための目、喋る鏡のような存在にもなりたいとも思う。
「う、うん…」
気を取り直したのか、仁君は鉛筆を握りなおしてまた問題を解いていく。問題が先に進むほどまた何問か間違えるが、それが彼のストレスにならないように笑顔でアドバイスしていく。
「…ねえ、鳴上さん…一つ、き、聞いてもいい?」
「ん?なぁに仁君」
「な、なんで鳴上さんはそこまで…僕に優しくしてくれるの?」
解いている問題に関する質問かと思っていたので一瞬面くらったが、直ぐに思ったままの答えを告げる。
「私たち友達でしょう?当り前じゃない」
暗くなるまで一緒に勉強し、図書館前で別れ私たちの一日が終わる。前世では自分から学ぼうとするのに20年近く掛かったのだ。腰を据え、ゆっくりやっていこうと思う。
◇
「み…見て!…な、鳴上さん…!これっ!」
数週間ほど経ったある日、出会い頭に興奮した様子で仁君が小さな紙を手渡してくる。懐かしい、母校で定期的にしていた漢字の小テストだった。
「60点…!?ど、どうしたのこれ…!!」
「え、えへへへ…」
驚くべきことに半分以上も点が取れている…! 前世の記憶では中学生時代に3割以上の点を取れたことはほぼ無かったことを考えると、これは快挙と言っていい。
「っ~~~!!、凄いよ仁君!天才だよ!」
「いやそんな…鳴上さんがずっと勉強を見てくれたおかげだよ」
照れているのか仁君は俯きながらもはにかんでいる。教えている側からしても、思っていたよりずっと早く記憶の定着が高まってきたように思っていただけに、目に見える成果を彼が出したくれたことはとても嬉しい。
勉強がコストパフォーマンスの高い将来への投資というだけじゃない。テストで点を取れた時の達成感や、日常において知識と知識が線を繋いで閃きを生むあの喜びに早く仁君も気が付いて欲しい。
そのためには…
「ね、仁君今度の日曜日一緒に出掛けない?」
「え…?そ、それって…」
頑張ってよかったと思えるだけの、努力の成果に値する報酬になるような…そんな思い出を彼に作ってあげようと思った。
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