第4話 気づき

「猫が....喋ってる...」

「まあ、僕を見て驚く要素なんてこれぐらいだよね」

「...悪いけど猫さん。私は行かなくちゃいけないの、彼のところへ。だから邪魔をしないで」

「? 彼って言うのはアレのことかい?」

喋れる黒い猫は、目線を崖の方へ向けた。

そこには、笑みを浮かべる彼が..いなかった。そこにいたのは、私が知っている彼とは全く違っていた。

人型のシルエット、だが、人ではないことは一目でわかる。顔が、いろんな表情をした顔が身体中に無数に存在している。無表情な顔、悲しそうな顔、怒っている顔、とにかく、いろんな顔が、というより、顔で体を形成してるように見える。

「なに...アレ...」

「さあね。よくわからない化け物って認識でいいんじゃないかな。でも、良かったよ、正気に戻ってくれて。君はあの気持ち悪い奴のところに向かおうとしてたんだよ。ま、向かおうとする前に、崖の下に落っこちちゃうけど」

「正紀は? 正紀はどこに?」

「現実を見なよ、人間。君が正紀と呼ぶ人間はもういないさ」

金属音がする。

それは、宙に浮いた化け物の全身にある顔が叫んでいる音だとわかる。

「逃げるよ、人間」

そう言われて、私は咄嗟に体を起こすと、化け物とは反対の方へ駆け出す。すぐ前では黒い猫が走っている。そして、すぐ後ろでは化け物の叫び声が耳を劈く。

はあ、はあ

運動部に所属していたわけでもなく、生まれつき体力が優れてるわけでもなく、神奈子の口からは、乱雑に息が漏れ出る。黒い猫はそんなことを気にも止めずに、走り続ける。

(もう、いいかな)

心の声が、鮮明に浮かび上がる。

(もういいよね。私、がんばったよね?)

荒々しい息を吐きながらも、考えてることは、やけに呑気な、のんびりした速さで流れていく。

(もう、終わりたいよ。正紀がいない世界で、私はどんなふうに生きればいいの? もう疲れた。もう、どんな終わり方でもいいや。このまま、あの化け物に...)

『神奈子には生きててほしいんだ』

耳元でそう聞こえた気がした。

その言葉に反応するかのように唇を噛みしめる。

足を止めるな、走れ、生きろ。

頭に浮かんでくる雑念を、これらの言葉で遮る。どうして、正紀が死んだのかはよくわかってない。でも...正紀は、私に生きてほしいって言ってくれた。届いたメールが全く別の人の言葉かもしれないけど、私は信じた。理由なんて特にない。何にもないけど、それが、私の生きる原動力になる。

「あともう少しの辛抱だよ。人間」

前で黒い猫が言った。なんのことを言っているのかは、よくわからなかったけど、私は全力で走る。

夕陽が沈みかけているのが、背面からでもわかる。太陽の光があるうちにこの森を抜けなければ、真っ暗で何もかも見えなくなってしまう。そうなれば、どこへ進むのも困難になるだろう。タイムリミットが迫ってきているのは明らかだ。

背後からは依然として、あの化け物の叫び声と、木々が倒れる音が聞こえる。捕まればどうなるかは、考えたくもなかった。

(走れ、走れ)

自分に言い聞かせる。

やがて、視界が広がっていった。

森を抜けたのだ。

(? いくら全速力で走ったって、山頂辺りからだったはず...そんなに速く山を降りれるわけがない)

「おつかれ、人間」

黒い猫が佇んでいる。

気づけば、先ほどまで、耳を劈いていた化け物の声も聞こえなくなっていた。後ろを振り返るがその姿もどこにも見当たらなかった。

「いったいどういうこと?」

疑問を猫に投げつける。

「簡単なことさ」

黒い猫は快活に言う。

「あの化け物はここに入って来れない。だから消えた。じゃあ、なぜ入らないのか、という疑問が生まれるね。それは、ここが終着点だからさ」

「...なにを言ってるの?」

言ってることの意味がわからない。頭が混乱してくる。

「そうだなー、君はここに来るまでの過程を覚えているかい? 山の頂上まで行き、あの化け物に会うまでの過程を」

「覚えているわ。私は...あれ?」

(思い出せない。なんで? 私はどうやって山まで来たんだっけ?)

思わず頭を抱える。自分の頭がおかしくなりそうだった。

「ようやく気付いてくれて何よりだよ。多分そろそろかな」

なにを言ってるの? そう言いたかったが言葉が出なかった。

頭が痛い。

割れる。

視界がぼやけてくる。

「さあ、目覚めたまえ〜、人間。それが君にとって最善の道かは知らないけどね」

目に映る黒い猫のシルエット。まもなくそれも認識できなくなると、神奈子は深い闇に包まれた。

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