第15話 女幹部エマ 前
難民――それは、はるか昔から存在する。
彼らは亡国の民。あるいは迫害されし者。
魔に侵され、倫理が崩壊し、居場所を奪われた者たちだ。
現在、大国と呼ばれる国々は人道上の理由で難民を受け入れている。
だがその実態は、都合の良い労働力を確保するため。
国民には出来ないような非人道的扱い、家畜のように消費するための駒として彼らは受け入れられていた。
人類が魔より生存圏を勝ち取り、急速に拡大していく労働力の需要。
農業と産業の重層化。貧富の格差。
それにより明確に分かれる命の重み。
そんな価値観が支配する表社会で、難民たちが真っ当に生きていく事は不可能だ。
故に、彼らが裏社会に身を堕とし、犯罪に手を染めるのは自然なことである。
誰からも救いの手を差し伸べられず、誰からも見向きされない。
ならば、自らの手で勝ち取るしかない。
例え、他者を殺めようとも。自分の身をすり減らそうとも。
彼らにとって唯一信じられるものは、"強さ"だった。
貧困ほど惨めなものは無い。
雨風を凌ぐ家も、寒さから身を守る服も、空腹を満たす食事も……何もかもが足りず、いつも満たされない。
故郷を追われ、何とか流れ着いた先で待ち受けたのは、まさにこの貧困だった。
この貧困から抜け出すには、"強さ"が必要だ。
他者から奪う力。搾取する知恵。非道を躊躇わない冷酷さ。
だが、当時齢15の少女だった私たちは、そのどれも持ち合わせていない。
結局、私たちに残された道は自身の体を売り、端金でその日の飢えを僅かに満たす生活を送ること。
私は、そんな生活でも仲間たちと生きていけるなら何の不満も無かった
寒さと空腹は確かに辛かったが、それでも不幸だとは思わなかったんだ。
しかしある時、仲間の一人である"マチルダ"が日に日に痩せこけていたことに私は気付いた。
充分とは言えないまでも生きていける程度には食事ができていたはずなのに何故、と疑問に思い、彼女に問い詰めた。
「マチルダ。お前、どうしたんだよ」
「急に何よ。エマ」
「はぐらかすな。お前、明らかに細くなってるじゃねーか」
「……」
「他の奴はまだ気付いてないみたいだが、私の目は誤魔化せねぇぞ」
「……そう。じゃあ、そのまま皆には黙ってて」
「マチルダ!」
マチルダは、どんなに問い詰められても答えようとはしなかった。
彼女は何かを私たちに隠している。
それが原因で、衰弱していっているんだ。
その後もマチルダはその原因を隠そうとしていたが、一度気付いてしまえば彼女でも隠しきるのは不可能だ。
私はそれからしばらくマチルダの後を追い、観察した。
そして分かってしまった。彼女が痩せこけてしまった原因を。
彼女は、自分の分の食事を私たちにほとんど分け与えていた。
私たちがこれまで少ないと思いながらも食べてきた食事は、彼女の犠牲の上に成り立つものだった。
――この時、私は初めて惨めだと感じた。
自分がどんなに貧しくても、我慢できる。
だけど、自分のせいで仲間が苦しんでいる姿には耐えられなかった。
そんなことは辞めさせようと、私はマチルダを説得した。
彼女は私たちの中で最も美しく、それ故に一番稼ぎも良い。
だから、マチルダにはもっと贅沢をする権利があると訴え続けた。
しかし、彼女はそれを辞めることは無かった。
それをしてしまえば、他の皆がこれまで以上に飢えに苦しむことが分かっていたからだ。
私はただ、弱っていくマチルダを見ているしかなかった。
一層のこと、痩せこけて醜く成り果ててしまえば、マチルダは穢されずに済んだだろう。あるいは、飢えに苦しむ前に死ねれば楽だったのかもしれない。
しかし、不幸なことに私たちの体は他の人間に比べて丈夫だったために簡単に死ぬことができず、さらにマチルダは衰弱したことで退廃的な美しさを醸すようになり、より男たちの欲望を掻き立てるようになってしまった。
私は、仲間たちと共にこのまま世界に消耗されつづけて惨めなまま死んでいくのかと諦観し、貧困の惨めさに悶えながら涙した。
だが、意外にも"奇跡"というやつは前触れも無くやってくる。
"その男"が私たちの目の前に現れてから、生活は一変した。
"ユーリー"と名乗る男は私たちに屋根のついた寝床を与え、充分な食事を与え、さらには人としての尊厳をも与えてくれた。
その男に、仲間たちはすぐに懐いた。
特にマチルダは、仲間たちを救ってくれたことでユーリーを深く信用しているようだった。彼女は私たちの中で誰よりも責任感があり、誰よりも仲間想いだったのだから当然ともいえる。
私も例に漏れず、多少なりともその男を信用していた。
ただ、他の仲間たちと少し違ったのはその男を感謝するのではなく、利用しようと考えていたこと。
――この男の庇護下にある内に、"強さ"を手に入れなければならない。
そう思った私は仲間たちの目を盗み、再び体を売りながら金を貯めた。
マチルダが知れば怒っていただろう。
自分のこと以上に、私たちが穢されることを悲しんでいたから。
だが、私には金が必要だった。
武器を買う金が。身を守るための武器が。他者から奪うための"強さ"が。
ある日マチルダが何かを察したのか、私に問い詰めてきた。
「エマ。最近、夜にどこへ行っているの?」
「……言う必要があんのか?」
「答えなさい」
「マチルダ、そりゃあねぇよ。お前だってあのとき答えなかったじゃねぇか」
「ふざけないで、エマ」
「ふざけてなんかいねェ。私は本気だ」
「……あまり皆に心配を掛けさせないで。私も、貴女のことが心配なのよ」
「そんなこと分かってる。だから、今は口を出さないでくれ」
「一体、何が不満なの? そんなことする必要ないじゃない」
「マチルダだって気付いてるんじゃねぇのか? こんな生活、ずっとは続かない。あの男はいつか私たちを利用して、飽きたら捨てるんだよ」
「――撤回して。ユーリーはそんな人じゃない」
「はっ、それはお前の願望だろ?」
「エマ!」
私はもう話すことは無いとばかりにその場を去った。
マチルダは私の後を追おうとしたが、それに捕まることは無い。
知能や美貌ではマチルダの方が優れているが、身体能力だけは私の方が上なのだ。
私はマチルダから逃げ切り、市場に出た。
(金はもう充分貯まった。あとは、獲物を手に入れるだけ……)
目当ての物を探しながら先ほどのことを思い出す。
(マチルダはあのとき、本気で怒っていた)
思えば、これがマチルダとの初めての喧嘩になる。
仲間に対して度が過ぎるほど甘いマチルダが、あの男のことで私にあれほど怒るとは思わなかった。
まぁ、理解できなくはない。
ユーリーは恩人だ。私たちはあの男に大きな恩がある。
私自身、ユーリーが私たちを利用して捨てるような奴だとは思っていない。
なのにあんな言葉が出てしまうのは、きっと嫉妬しているからだ。
仲間たちが、特にあのマチルダが、彼に対して信用を超えた感情を抱き始めていることに私は嫉妬していた。
「クソが……」
つい口に出した悪態は一体誰に対してのものなのか……。
私は苛つきながら歩き続けていると、いつの間にか市場を抜け、人気のない場所に辿り着いてしまった。
「……チッ、何やってんだ私は」
早く市場に戻り、目当ての物を手に入れなければ。
そう思い後ろを振り返ると一人の男が道を塞いでいた。
全身黒い装いをしており、その佇まいはどこか普通とは異なるもの。
不気味な雰囲気を纏うそいつに私は道を退くよう言う。
「おい、おっさん。道を開けてくれ」
「……」
「聞いてんのか? 退けって言ってんだ――」
次の瞬間、その黒ずくめの男は一瞬のうちに私との距離を詰め、片手で私の胸元を掴んで持ち上げた。
「ほぉ……これは中々。どこの阿呆が迷い込んだかと思えば、悪くない」
「うぐっ……、触んじゃあ、ねェ」
「最近噂になっている難民の女共だな? 思っていたより若いが、都合がいい。長く使えるからな」
男は私の言葉なんて聞こえないかのように振る舞い、独りでに喋り続ける。
「お前らみたいな弱者ってのは、つくづく有難い。表社会では搾取され、裏社会では利用されるだけの、ただの家畜だ」
「――黙れ」
「家畜がいくら消費されようと、世間は何とも思わない。この世は、強くなければ生き残れねぇのさ」
「黙れってんだ!! クソやろ――――がはっ」
私が叫ぶと、男は躊躇なく私の腹を殴った。
少女が大の男に殴られれば、無事では済まない。
私は殴られた衝撃で息ができず、意識が遠のいだ。
「喚くな餓鬼。そうやって叫べば助けが来ると思ったか? そんな都合の良いことが起こると? 今までの人生で何も学べなかったのか?」
「――た、すけてぇ」
「いいことを教えてやる。この世界はな、そんなに優しくはない」
私は絞り出すように掠れた声で助けを求めた。
だが、この男の言う通り世界は優しさで出来てはいない。
きっと私はここで終わりだろう。
"強さ"さえあれば――そう思って行動したのに、その結果がこれだ。
意識が朦朧とする中、走馬灯のように頭を駆け巡るのは仲間たちのこと。
特に、自分の身を犠牲にしてまで仲間を助けようとするマチルダの強さが、私には羨ましかった。
そしてもう一人、あの男のことを思い出して――――
「案外、そうでもない」
その声は、まさに今思い出していた男のものだった。
――これは、夢か?
何故彼が、ユーリーがここにいるのか。
どうしてこの場所が分かったのか。
なぜ私たちを助けてくれるのか。
そんな疑問がいくつも出てくるはずなのに、そのとき私は嬉しさを感じた。
信じてもいない都合の良い優しさに、私は安易に喜んでしまう。
「貴様……見覚えがあるぞ」
「ほぉ。あんたみたいな裏社会の人間に知り合いはいないはずだが? なんせ、俺は育ちが良いんでね」
「そうか、分かったぞ。ローウッドの配下だな。あの目障りなローウッドの犬がこんなところに何の用だ」
「そんなことを訊いている場合か? ここにはもうすぐ閣下の護衛がやってくるぞ」
「……ふん、下手な嘘を吐くな。明らかに貴様は偶然ここに辿り着いただけだ」
「試してみるか? 少女一人のために賭ける程度の命なら、ここで散らすといい」
「……」
「お前が生き残る道はたった一つ。その子を解放し、俺を人質にすることだ」
「信用できないな」
「俺は立派な役人だぞ? お前らみたいに他人を騙したりはしない」
「……」
「さぁ、はやく解放しろ」
男は私を掴んでいた手を離し、解放した。
私はよろめきながらもユーリーの方へ歩き出す。
そして彼は近くまで来た私に手を差し伸べ、手を握った。
「餓鬼を解放してやった。次はお前の番だ」
「あぁ、次は俺の番だな」
彼はそう言うと、突然私の手を引っ張り走り出した。
「全力で走れ! 市場まで逃げれば衛兵が巡回している!!」
「え、はぁ!?」
当然、黒づくめの男が後ろから追ってくる。
「貴様ァ、騙しやがったな!」
「間抜けめ! これは騙したんじゃない。俺たち役人はお前らのような輩とそもそも約束事なんかしないのさ! だからお前が何を言っているのか俺にはさっぱり分からん。記憶にございませんねェ!!」
「てめぇ、ぶっ殺してやる!!」
私とユーリーは全力で走った。
彼はまだ調子の戻らない私を置いていかないよう、強く手を繋いで引っ張っていたが、途中で息が上がったのかゼェゼェと言いながら失速してしまい、逆に私が彼を引っ張ることになった。
人通りの多いところまで何とか逃げ切ると、黒づくめの男も諦めたのか追っては来なくなり、私たちは無事生き残ることができた。
「はぁ、はぁ、……助けるなら、もっとしっかり助けてくれよ……」
「ゼェ……ゼェ……、助かったんだから、文句はないだろ……」
「は、はは……違いねぇ」
息が整うまで私たちは座り込む。
その間、いくらでも時間があったはずなのにユーリーは何も聴いてこない。
私はそれがもどかしくて自分から尋ねてしまった。
「……聴かねぇのか。何であんな所にいたのかを」
「なんだ、話してくれるのか?」
「チッ、端っから私に言わせるつもりだったのか」
「お前は案外お喋りだからな」
「ざけんな」
「いいから言ってみろって。ユーリー兄さんが聴いてやる」
「……――武器が、欲しかったんだ。自分を、仲間を守る武器が。何かを奪われるんじゃなくて、相手から何かを奪える"強さ"が欲しかった」
「……」
「そしたらあのざまだ。なぁ、教えてくれよユーリー。私は間違ってたのか? 弱者が"強さ"を求めるのは、間違いなのか?」
「……いいや、間違ってないさ。この世は強くなければ生きていけない」
「じゃあ、なんでいつも私たちはこうなんだ? 私は、生きていたいのに……」
何もかもが満たされない。
ユーリーのおかげで貧困から脱したと思っても、次は弱さから逃げられない。
「なぁ、ユーリー。あんた、ずっと私たちと一緒にいてくれるか?」
「それは、できないな」
「……じゃあ、私たちはあんたに捨てられて、死ぬしかないのか? 私たちに生きる資格は無いのかよォ……」
分かり切っていた答えに、私は失望した。
彼がいなければ生きることさえままならない現状。
惨めな自分に、失望した。
だが、ユーリーは突然私の頭を抱きかかえて言う。
「強くなければ生きられない。そして、優しくなければ生きる資格がない」
「優し、さ?」
「お前たちは優しいよ。仲間のことを深く愛していられる。それだけでお前たちには生きる資格があるんだ」
「あ、あぁ……ぐすっ、うぅ……」
その言葉に私は涙が溢れ出した。
人通りの多い中、誰も泣き出す私を気に留めはしない。
ユーリーはそんな私を優しさで抱き締める。
生きてもいいと、初めて人から言われた。
たったそれだけのことで私は救われる。
私たちは、本当の意味でこの男に救われたんだ。
いつか再び彼に出会ったとき、私は証明しようと思う。
あなたの言葉が正しかったと。
それまで、私は強く生き抜くことを決意した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます