第12話 マチルダの運命

 ユーリ・ハワードとの出会いは私にとって"運命"だった。


 そして彼は、私との別れを"運命"といった。



 どこで間違ってしまったのだろう。



 彼との最初の別れだろうか。


 彼が私たちの生き方を尊重し、そして私たちも彼への負い目から引き留めることのできなかったあの朝の別れ、あの時にどんな矛盾を孕もうとも彼を拘束しておけばよかったのか。


 いや、できるはずがない。


 あの時の私たちは彼の気持ちを、意志を踏みにじることが犯してはならない過ちだと思っていたのだから。



 では、彼と再会した後の振る舞いだろうか。


 彼の自由を奪い、どの女にも手を出せないよう縛り上げて自分だけのものにしておけばよかったのか。


 いや、そんな必要は無い。


 彼に理解させたかった。例えあなたがどれ程の女を抱こうとも、結局あなたが一番愛しているのは私なのだと。あなたのいるべき場所は私の隣なのだと。

 



 しかし、今となってはどれも言い訳でしかない。


 結局、私は彼に嫌われたくないだけだ。


 彼に嫌われ、捨てられることを恐れている。そして失うくらいならば彼を殺し、その亡骸を抱きながら私も死のうと考えるほど彼に依存している。


 だからこそあの日、私から彼を奪った"あの女"から彼を取り戻すため、彼と共に死のうと思っていた。



 だが、実際に彼の口から別れを告げられた時、私は体中から力が抜けて動けなかった。


 彼が"あの女"を妻にしたと聞いたときから覚悟していたはずの言葉。それが現実となると、私の覚悟は容易く崩れ去った。


 同時に失望した。私を裏切った彼にではなく、私自身にだ。


 私の愛は、覚悟は、こんなにも脆いものだったのかと。



 失意の中、彼が隣にいない孤独な時間の中、私はある違和感に辿り着いた。



 ――私は、勘違いをしていた


 彼に捨てられたからといって、私は彼を愛することを止められない。他の女のものになったからといって、彼を愛おしく思うこの気持ちは少しも欠けたりしない。


 彼に必要とされなかったからといって、彼を愛せないなんて"未熟な愛"を私は持ち合わせていないのだ。


 だからこそ、負け犬のような心中に躊躇したのは当然のこと。



 

 奪われたのならば、奪い返せばいい。


 彼がどんな風になっても、私が彼を愛していればそれでいい。


 ユーリーをこの手に入れ、そして最期まで彼の隣に立つ。



 彼に会おう。もう迷いはしない。


 奇跡や偶然による愛など、私の望むものではない。


 私の意志で選び、望んだ未来に進む。


 これが、私の"運命"なのだから。


 




 



 歓楽街で食事を終え、アクロスの外交官、エルフの『エド』と宿屋まで帰る道の途中、ふと視界の端に人影が映る。


 この街は美しい人が多い。

 エルフは男女問わず麗しい姿をしており、そしてそのエルフに似た容姿の人間の女が多く立ち並ぶ歓楽街。


 俺がそれらに目移りしなかったのは、単純に"美人"に見慣れていたからだ。


 だからこそエルフのエドを初めてみた時も見惚れることなく普段通りの接し方ができた。



 だが、視界の端に映る人影は美人に耐性のある俺ですら視線を惹かれてしまっていた。


 当然はっきりと見えたわけではない。それでも否応なしに目を奪われる。


 そして建物の影に佇む人影に焦点を合わせた時、息を呑んだ。



 ――マチルダ



 こんなところで急に会ったから驚いた訳ではない。


 俺が驚いたのは彼女が息を呑むほど美しかったからだ。


 見慣れていたはずの彼女に、妖艶な雰囲気を纏い佇む姿に、見惚れてしまった。



「久しぶりね、ユーリー」



 マチルダの声色は、以前あった時のような狂気を感じさせないものだった。


 むしろ、何か強い意志を秘めた理性すら感じられる。



「……見惚れてしまったよ。綺麗になったな、マチルダ」


「あら、そう。素直に嬉しいわ。だって、私をそうさせたのはあなたですもの」

 

「……どうしてここに、と聞くのは無粋か?」


「えぇ、そうね。そんな陳腐な台詞で愛憎劇に興ずるほど、互いに子供ではないでしょ?」



 落ち着いた口調に、余裕のある笑みを浮かべた表情。

 癇癪を起して暴れそうな様子も無い。


 一体、彼女に何があったのだろうか。


 俺の想像を超えてどこか成長しているように見える。



「悪いけど、そこの"貴女"。ユーリーと二人きりにしてもらえるかしら」


「……――!」



 マチルダが声をかけたのは、俺の隣にいるエルフのエドだ。


 彼なのか彼女なのかは判断できないが、エドですらマチルダに見惚れていたようで、声をかけられて初めて意識を取り戻した様子だった。



「……ユーリー、この"エルフもどき"は普通じゃないぞ。二人きりになるのはやめたほうが――」



 途中まで話しかけていたエドの言葉がそこで途切れた。

 エドのほうを見てみると、首に"黒い手"のようなものが締め付けている。


 喉を抑えて苦しむエドにマチルダが近づき、エドの唇に指をあてる。



「意外ね、エルフが人間を心配するなんて。でも、これはお願いじゃないの。命令しているのよ、エルフの


「――ごほっ……っくっ」


「ほら、返事は?」


「……ッ、わ、わかった」


「いい子ね」



 そういってマチルダはエドの頭を撫で、そして俺の方に振り向く。



「それじゃあ、行きましょうか。宿に帰る予定だったんでしょ。そこでいいわ」


「あ、あぁ……」

 


 その表情に、またドキリとしてしまう。


 今までも十分に美しかった。


 だが、今の彼女は畏れるほど妖しく美しい。


 それは女性的というよりも、生物的にそう感じさせる。



 その後、彼女に腕を組まれて為すがまま宿に向かった。


 俺は宿の部屋に入るまで一言も言葉が出なかった。マチルダもただただ腕を組み、手を絡ませるように繋ぎながら歩くのを楽しんでいただけだった。








 ――幸福だ


 ただただ彼と腕を組みながら寄り添うように歩くこの時間が、今までにない至上の幸福に思える。


 一度ならず二度までも失って、新たに気付かされる。


 本当に、この男は猛毒だ。

 嵌まってしまえば沼のように抜け出せない。抜け出そうと思えない。


 

 それに、先ほどから向けてくる彼の視線。

 私を意識し、私に見惚れる彼の視線が、私を欲情させる。


 今すぐに彼を犯したい、貪ってしまいたい。


 部屋についたら押し倒してしまおうか。


 ……いや、少し冷静になろう。


 過程を疎かにしてはいけない。


 慎重に、丁寧に、確実に、彼を絡みとっていく。

 そして何一つ残さず彼のすべてを味わうのだ。


 そう考えれば貞淑を装うのも苦ではない。




 彼が泊まる宿につき、部屋に入る。

 私は椅子に座り、彼に向かい側へ座るよう促した。



「そこに座りなさい」


「……マチルダ、以前もいったが俺の考えは変わら――」



 せっかちな彼の口を閉じさせ、私はもう一度座るよう促した。



「そこに座りなさい。これは、お願いよ」


「……」



 今度は言う事を聞いてくれたようだ。

 

 だが、向かい合って座った彼の表情は険しい。


 

「俺を怨んでいるだろうな」


「いいえ、私はあなたを怨んでなんかいないわ。耐え難い苦痛を与えられ、裏切られたとしても、この感情は怨みではないの」


「だとしたら、その感情は一体なんだ?」


「――愛よ。傷つき、悲しみ、狂い、そして残ったのはより純粋な愛。逆に問うわ、ユーリー。あなた、"あの女"のこと愛しているの?」


「……愛している、といえばお前は諦められるのか?」


「フフ、それは愚問ね。ねぇ、ユーリー。一つだけ聞いておきたいことがあったの。あなた、私のことをまだ愛してる?」


「……」



 沈黙。それが彼の答え。


 それは言葉よりも雄弁に語ってくれる。

 あぁ、よかった。それが分かって。


 彼の気持ちだけが、私には分からなかった。

 それは私が彼を客観的にみることができないからだ。


 きっと、何を考えても楽観視してしまう。

 愛されていたいという気持ちが、私を惑わす。


 だけど、これで分かった。


 彼はまだ私のことを忘れられないでいるのだ。


 あぁ……本当に愛おしい。




「――マチルダ、今のお前ならどこまでも高みを目指せる。いつまでも過去の恩に囚われるな」


「……それは侮辱よ。私にとってあなたは過去なんかじゃない。あなたのいない未来なんて到底受け入れられないし、無くてはいけない存在なの。あなたという存在を過去だなんて侮辱するのは、例えあなた自身であっても許さないわ」


「だが、賽は投げられた。俺は"あいつ"を妻にし、もうお前の気持ちに応えることができない男なんだ」

 


 ユーリーは女好きの遊び人だったが、いつだって自分の女に対して誠実だった。

 軽薄に女を褒めたたえる癖があるが、彼から何かを求めてくることも無い。

 軽々しく愛を囁かず、かわりに行動でそれを示していた。


 彼はまるで無欲な釣り人だ。

 釣り針を垂らしておきながら、その針に餌をつけない。

 それでも釣れてしまった無知で愚かな魚を大事に育て上げ、そして海に戻す。

 

 その魚が、それを望んでいないことも知らずに。


 

 だけどね、ユーリー。魚はやがて龍へ変貌していくという逸話があるの。

 きっとその龍は釣り人を捕まえて誰も手の届かないところへ連れて行ってしまうでしょうね。


 その釣り人が、それを望んでいないことを知っていたとしても。

 


「私はそれでも構わない。どんなあなたでも、私はあなたが欲しい。どんな経緯で"あの女"と夫婦になったのかは分からないけど、興味も無い」



 私は椅子から立ち上がり、服を脱ぎ始める。



「さぁ、もう言葉は十分に出尽くしたわ。あとは行動で示すことにする。あなたが今までにしてきたように、誠実な愛は言葉を持たない。それは言葉にならないものだから」



 一糸纏わない姿で座っている彼にしな垂れかかる。

 彼の匂いを堪能するために顔を擦りつけ、大きく息を吸う。



「……っこれは、誠実な愛と言えるのか? 妻帯者に迫るのは不貞行為だ」


「フフ、略奪愛も立派な愛だわ。抵抗してもいいけど早めに諦めることね。だってこれは、私が決めた"運命"だから」



 私は大きく反応している彼のを、自分の体に受け入れた。

 今までにないほど大きく、そして快感を感じているようだ。



「っく、こんなことをして俺が靡くと思っているのか」


「っん、はぁ……えぇ、思っているわ。だって、この味を知ったら抜け出せなくなるでしょ?」



 他の女のものだった彼を奪うという達成感、背徳心、不貞の味。


 ――凄く、イイ。あなたもそうでしょう?


 とても苦しくて、悦んでいる顔をしているもの。


 あなたも嵌まりなさい。私の体に、私の愛に。


 もう抜け出せない。抜け出させない。



「ぁん……ふっ……。人生の味は涙の味だとしても、運命の味は禁断の果実のように甘いのね」



 互いの息が艶めかしく、激しくなっていく。


 それだけで体の火照りが収まりそうにない。


 朦朧とする意識の中なんとか言葉を囁く。




「もう一度だけ言うわ。私のものになりなさい、ユーリー。これは"お願い"でも"命令"でもない、"運命"なのよ」




 返事は必要ない。求めてもいない。


 だから、その口を私の唇で塞いであげる。


 今この瞬間、私に映るものはあたなだけ。


 今この瞬間、あなたに映るものは私だけ。


 ――私の望む未来は、これだ

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