2. ライブハウスの閉塞感

 煙草の煙が充満する薄暗いフロア。点滅する照明が人工的な暗闇を切り裂いていく。アルコールと煙草の臭いで、鼻が曲がりそうだった。


「次だ、次! お前そんなん持ってないで、こっち来い!」


 先輩が大きな声で僕を呼ぶが、あんな前線に行く勇気など僕にはこれっぽっちもない。


「恥ずかしいからやめてくださいよ」


 どうせ届かないが言わずにはいられない。見たことも聞いたこともないマイナーバンドのライブで、どう騒げというのか。行くなら行くで一言教えてくれたなら、一曲でも二曲でも調べておけたのに。


「おい、ライブ行くぞ」


 そう電話がかかってきたのは、僕がちょうどバイトを終えた時だった。まるで僕の行動を見張っていたみたいに、ベストなタイミングでの呼び出しに思わず辺りを見渡したほどだ。一旦チャリで家に帰って、それから車で先輩を迎えに行き、ごみごみした道をなんとか抜けて……。


「なんのライブですか」


「そりゃお前、行ってからのお楽しみだよ」


 それしか教えてくれなかった。運転してるために、スマホで調べる訳にも行かない。仕方なく、先輩の指し示す道を言われるままに進んできた。


 地下へと続くライブハウスの入口にはカラフルな立て看板が立っていた。


『ファイアーフラワー 結成5周年スペシャルライブ!』


「FFの武藤さんから連絡あってさ、ぜひ来てくれって言われたら来るしかないじゃん!」


 先輩は目を輝かせて、少年のようにキラキラと自慢気に言った。


 普段、テレビやラジオで流れる流行りの歌にこれでもかと文句をつける先輩が傾倒している数少ないバンド。正直、僕はこのバンドが好きじゃなかった。先輩が好きだから付き合いで音源を聞いたことはあったが、どうにも好きになれなかった。


 でも、この表情の先輩を前にすると「好きじゃない」なんて、口が裂けても言えない。曖昧に相槌を打ちつつ、その場をやり過ごすのが常だった。


「あ、俺金ないからチケット代は別な」


 チケットカウンターを前にして、唐突に先輩が言った。おいおい、まじかよ。たいした金額じゃないにせよ、給料日前の出費にしては痛い。というか、そういうことは先に言って欲しい。この人はベラベラおしゃべりのクセに、こういうところが全然言葉が足りない。


「甲斐性なしめ」


 憎々し気に呟くが、先輩はどこ吹く風でフラフラとフロアに吸い込まれていった。スモークを焚いているわけでもないのに、うっすらと霞むその空間は、換気の悪さが一目瞭然だった。すでにあったまっているフロアの熱気に押され、意味もなく僕もつられて浮足立ってしまう。


 そして、今。


 先輩は最前列で、楽しそうにステージを見ている……わけではなく、僕の隣に来て、ビールをちびちびやっている。


「前、行かないんすか」


「いやホラ、最前列はちゃんとFFのファンに譲ってやらないと、さ」


 ごにょごにょとバツの悪そうに先輩はビールを口にする。チケットについているワンドリンクだけで過ごすつもりの先輩は、舐めるようにしてビールを味わっていた。


 先輩だってファンでしょうがと思ったが、言葉にしないであげた僕は優しいと思う。


「じゃあせめてこっち側で見たらいいじゃないですか。僕がそっち側に行きますから」


 ステージがよく見えるように場所を譲ると、「わりぃ」と手を上げて先輩はステージを凝視し始めた。ほら、やっぱり見たかったんじゃん。


 SEが流れると観客のボルテージは一気に上がった。さっきまでとは比べ物にならない熱量にクラクラする。


「みんな今日は来てくれてありがとう!!!」


 黒髪の綺麗な女性ボーカルが観客に一声かけて、それからメンバーがそれぞれセッティングに入る。ギター二人、ベース一人、ドラム一人。マイクはそれぞれの前にセットされているから、全員がコーラスかMCをするのだろう。ずいぶんとおしゃべりなバンドだ。


 SEが消えて、照明がスポットライトに切り替わる。ディストーションが激しいギターが開始の合図を告げ、ステージは白から赤に切り替わり目まぐるしく色が動き出す。


 鮮やかな歌声と掻き鳴らされるギター、それを支えるどっしりとしたベースに、正確なドラム。やっぱり、キレイすぎる。歌詞だって陳腐な愛の歌だ。かと思えば、難解な言葉遊びに切り替わり、それが世界観につながっていくのだが。


 でも、僕は好きになれない。


 先輩に目をやると、憧れや羨望の眼差しで自然とリズムをとりながら歌詞を口パクしている。本当に好きなんだなと思って、そっとしておいた。


 動き続ける観客と、変わり続けるステージのうねりから、僕は一人切り離されたような気になって、ひどく居心地が悪かった。


―――――


「いやぁ、すごかったなぁ……!」


 陶酔しきった様子で先輩が感想をこぼす。すっかり炭酸が抜けてしまったビールを、さも美味そうに飲みながら。


 ライブ直後の興奮冷めやらぬ様子がフロア全体に広がって、誰も彼もが先ほどまでのステージを褒め称えている。僕は爆音の渦と、崇拝にも似たこの場の雰囲気に当てられて何も言えなかった。


 だが、先輩は僕の様子を見て満足げに一人頷いている。思いっきり間違って取られているが、面倒くさいので放っておくことにした。


「俺、ちょっと挨拶してくるわ!」


 カラになったコップを僕に押し付けて、楽屋の方へとウキウキで歩いて行ってしまった。


 手持ち無沙汰になった僕は、カウンターにコップを返し、邪魔にならないよう壁にもたれて、先輩が消えた方向を眺めた。


 ほどなくしてだるそうに手を上げながら、楽屋から出てくるファイアーフラワーのメンバー。そのままファンらしき観客と会話を交わしている。一体何様気取りだ。その背中にコバンザメの如くついて回る小柄な男。マネージャーか専属スタッフにでもなったつもりなのだろうか。そんな先輩の姿を、僕は見たくなかった。


「だっせぇ」


 僕の姿に気がつくと、先輩は小走りで駆け寄ってきた。


「お前、このあと暇だろ?」


「なんですか」


「武藤さんに打ち上げ誘われたんだよ! お前も行くだろ!」


 盛大にため息をついてやった。


「行かないっすよ。だいたい金ないっす」


「俺ばっかりじゃなくて、お前も顔売って気に入られないと、上にあがれないだろ!」


 この人は何を言っているんだろう。自分たちの音楽で、言葉で、それが観客に届いて、それで売れたいって言ってなかったっけ。それ以外で売れたって、なんの意味もないのに。


「先輩、何言ってんすか。自分たちの腕で売れたいんじゃなかったんすか」


「バカお前。これは投資だよ、投資。今ここでゴマすっておけば、メジャーになった時の対バン相手としては申し分ねーだろ!」


 自分たちの曲作りもままならないのに、一体この人は何を言っているんだろう。目指すべき場所へ向かうための階段を、何段も飛び越えて行動する意味が分からない。ただの逃げじゃないか。


「なんすか、それ。流行ってる曲のアーティストよりだっせえですよ、そんなん」


「これはチャンスだぞ。なんで分かんねーんだよ」


「分かりたくもないですね。僕は帰ります。帰りは自力でどうにかしてください」


 先輩の言葉も待たずに、踵を返してフロアを出た。


 後ろの方で何やらごちゃごちゃと言っていたようだが、それもどんどん遠ざかり、他の話し声に飲まれていった。


 フロアから出ると、冬の冷気が僕を待ち構えていた。一瞬で肌から染み入る寒さに思わず身震いする。


 地下から上がる階段のところで後ろを振り返ってみたが、先輩の姿はなかった。


 ドア一枚を隔てた向こう側はあたたかく、まだワイワイガヤガヤと称賛の声が漏れ聞こえる。全員が全く同じ方向を向き、同じ言葉を口にするその光景が、まるで宗教のようでうすら寒かった。そのドアが開かないかとしばし、見つめていたが開く気配は一向にない。


 追っても来ないのかよ。バンドメンバーより優先する寄生先があるなら、そっちに吸収されちまえ。


 誰かにヘコヘコと頭を下げている先輩は、ただのみっともない男だった。


 こんなに先輩に幻滅したのは初めてだった。

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