敬空領バイコヌール
第9話 天文と旅の準備
第二章
「レーグルさんは、どんなやつが良いの」
「ええと、これに似たタイプは地域の祭りのときに乗ったことがあるので、これにします」
「流石、
俺とヘンダーソンは壁に背中を預け、部屋の中央に立つレーグルとシルダリアを眺めていた。二人は気が合っているようで、五倍を超える体格差をものともせず、並べられた神具を前に仲良く話している。
黒髪の少女レーグルは、およそ六○○年前に起こった激甚災害を宇宙空間で逃れ、薬剤による疑似冬眠のあと、再び地上に降りてきた旧人類だ。地上に残され、空が飛べるように大きく進化した俺たち現人類とは違う。
避難用の宇宙機に乗れなかったなかに、レーグルにとって大切な人がいた。
もう亡くなっているはずの、その人の墓に向かいたい。
黒髪に冷え固まった水のような瞳をした彼女の願いを聞き届け、『
ことを始めるに際して、いま俺たちがこの州都庁舎の頂上階で神具職人の手による作品を眺めている理由は簡単だ。法律上、
スペースシャトルとして知られる宇宙機に似せたものや、ピラミッドと名が付く上古の遺構の形をしたものがあるなか、レーグルが選んだのは、ゆるやかな屋根を被った箱の下に二本の巨大な枕木が備え付けられた、旧アジア地域圏の『神輿』という神具を模したものだった。
生物に由来する光源しか認識できないレーグルの視界確保の関係で、休暇期間中、
「どうですか、レーグル様。お気に召したものはございましたか」
「これです。これがいいです! 昔巫女のバイトしてた友達に頼んでこっそり乗せてもらったら、おもっくそ神主さんにバレてこってり絞られたこれ!」
「そうですか、それでは、これになさるということですね」
「はい!」
担当者はレーグルの早口な返答を聞くと、大きく表情には出さなかったが少し曖昧に頷いた。俺も思わず似たような心持ちになる。旧人類のレーグルが話せるのは古語だけ、しかも東アジア語古タネガシマ方言といって、ほとんど日本という一国家でしか用いられていなかったものが主だ。現代の四言語――東アジア語、西欧州語、パルマヒム語、バイコヌール語――はそれぞれ古代の言語群が画一的に再構成されたもので、文字や文法や品詞が似通っているが、レーグルの時代のそれは話が別だ。州都庁舎の
当たり前に全てを理解した様子で
自然の重力に従って庁舎が根を張る
休養室で整体を受け、暖かい浴場で身体を休め、自室に戻り、全く眠れずに中庭に出る。
人工の小川と波紋を描く砂地。所々に穏やかに灯った自然の明かりに目を奪われる。この宿は
「こんばんは。アコウギさん。隣、いいですか」
「あぁ」
中庭の縁側に腰かけていると、板張りの床を踏んでレーグルが歩いてきた。彼女も眠れなかった様子で、俺の傍に座る。上バイコヌールは遥か後方に浮いていて、二人して見上げる空には輝かしい星々の光が満ちていた。
数分沈黙が続いて、小さな
「昨日はありがとうございました。わたし、あなたには感謝してもしきれません」
思い返す。昨日。風の撫でる草原。
死んでしまった方がいい。そんないつかの自分と似た絶望に満ちた目を見て、俺の身体は跳び上がった。動き出しが早かったので全速力を出すまでもなかった。すっとレーグルの前に出て、軽くぶつかるようにせき止める。しりもちをついた彼女に俺は叫んだ。まだ本調子でなく、脳が働いてなかったから、詳しく何を言ったかは覚えていない。けれども、そのあとレーグルは思いとどまってくれたし、元気を取り戻してくれたようにさえ見える。
「『なぁ、頼むから、そうは死んでくれるな』。アコウギさんが言ってくれた言葉は、深く心に残っています」
「え、何それ……恥ずかしい……」
俺は色を変えて、考えていたより数段感情的にものを言っていたらしい。もっと理論的に説得したものだと思っていたので、少しばかり情けない気持ちだ。項垂れると眠たくなってきた。首を振って空を見上げる。
嫌いだ。やっぱり空は嫌いだ。燦然と輝く恒星も、幽玄と揺らめく月も、伝統によって形作られる星座も、風に流れるまばらの雲も、みんな嫌いだ。いま見ているこの星の光は、ずっと遠い昔のものだという。熱に浮かされるまま空の輝きを今夜全て砕いてしまったとしても、死に損なって煌めく明かりは、これからも俺を照らし、もっと浅ましい男の影をまざまざと地に縫い付け続けるだろう。
「古代の哲学者アリストテレスによれば、月から下は万物が変転する世界、月から上は完全無欠の不変な世界らしいです」
レーグルが俺でも辛うじて知っている第一文明期以前の偉人の名前を口に出し、夜空を指さす。そのまま彼女は憶えている限りの
ただ、人は病や戦争の代わりに自殺や太りすぎでたくさん死んでいったし、地球温暖化などによって環境が大きく汚染され、複雑な政治状況がいたるところで不和を呼んでいたから、
黒髪の少女は続ける。何もかもが手に届くようになったとさえ思える世界のなかで、旧人類たちは月から上の世界に向かう意思を強めた。完全無欠と、不変。不老不死の研究がそうだ。当然ながらそんな神様と人間の境を本当に飛び超えてしまおうという試みが早々に実を結ぶはずもなく、レーグルが地球から逃げ出した際の大災害によってすべてお流れになってしまった。
「偉大な天文学者であり、音楽家でもあったウィリアム・ハーシェルは、太陽のなかにさえ人がいるだろうと思っていたらしいです。
「あ、いや、別に……」
熱を上げて喋り続けるレーグルが正気に戻ったのを見て、思わず声を出す。言われなくても分かる。
続きを促すと、彼女は多くの
科学と芸術はしばしば対立する概念だったが、空の鮮やかな情景はそんな諍いをものともしなかった。夜闇に浮くアンドロメダは、それが月下世界の天体現象であろうと、実は離れた別の銀河であろうと、その美しさで以て見る者を刺激した。原初から人類を惚れこませ、世界各地に様々な物語を形作り、科学的にも芸術的にも重要な位置を占め続け、時間と空間、そして神様のような人知を超えたあらゆるものの源である空は、一生かかっても讃えきれないほど素晴らしいものだ。
レーグルは、さらに多くの遠古の偉人の名前を出しながら解説してくれた。
「アコウギさん、望遠鏡って知っていますか」
「空を観測する科学用具だろう、どこの州の研究施設にもあると思う」
機会があれば触ってみたいですね。レーグルはそう加えて、ゆっくりと倒れるように俺に身体を預けた。気付けば夜は明け、地平の果てからのぞく朝日が淡く中庭を照らし始める。
太陽は、かつて永遠、死と再生の象徴だったという。あの輝きのなかに人を夢見たとは、超科学と合理の権化であるはずの神に似た偉大な祖先たちも人間らしいところがある。見下ろすと、眠たそうにレーグルが目を擦る。
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