敬空領バイコヌール

第9話 天文と旅の準備

 第二章 敬空領けいくうりょうバイコヌール


「レーグルさんは、どんなやつが良いの」

「ええと、これに似たタイプは地域の祭りのときに乗ったことがあるので、これにします」

「流石、空神様そらがみさま、素晴らしい美的感覚ね」


 敬空領けいくうりょうバイコヌール州都庁舎最上階、神具展示場しんぐてんじじょう。石張りの床に、荘厳な図画が刻まれた天井。吊り下げ式の照明が、八角形の部屋を神秘的に照らし出す。七面の壁は透明な材質でできており、部屋奥に見える最後の一面は外に開かれて床が迫り出した高玄関たかげんかんになっている。


 俺とヘンダーソンは壁に背中を預け、部屋の中央に立つレーグルとシルダリアを眺めていた。二人は気が合っているようで、五倍を超える体格差をものともせず、並べられた神具を前に仲良く話している。


 黒髪の少女レーグルは、およそ六○○年前に起こった激甚災害を宇宙空間で逃れ、薬剤による疑似冬眠のあと、再び地上に降りてきた旧人類だ。地上に残され、空が飛べるように大きく進化した俺たち現人類とは違う。


 避難用の宇宙機に乗れなかったなかに、レーグルにとって大切な人がいた。

 もう亡くなっているはずの、その人の墓に向かいたい。


 黒髪に冷え固まった水のような瞳をした彼女の願いを聞き届け、『冥空領めいくうりょうパルマヒム』北部の第一禁足地にある、旧人類の墓まで連れていく。それが当面の俺たちの目的であり、シルダリアとヘンダーソンが付き合ってくれることになった。


 ことを始めるに際して、いま俺たちがこの州都庁舎の頂上階で神具職人の手による作品を眺めている理由は簡単だ。法律上、空神様そらがみさまを運ぶには気圧や気温を調節する機能などが備えられた安全な乗り物が必要となるため、それを借りにきた。


 スペースシャトルとして知られる宇宙機に似せたものや、ピラミッドと名が付く上古の遺構の形をしたものがあるなか、レーグルが選んだのは、ゆるやかな屋根を被った箱の下に二本の巨大な枕木が備え付けられた、旧アジア地域圏の『神輿』という神具を模したものだった。


 生物に由来する光源しか認識できないレーグルの視界確保の関係で、休暇期間中、交通整理員こうつうせいりいんの俺には数本の『蛍光薬けいこうやく』が支給されている。蛍光薬けいこうやくは目の前の神輿と同じく旧人類の遺構から見つかった希少なものらしい。身体が光るこの薬も、その昔何かの祭事に用いられたものなのだろうか。そんな下らないことを考えていると、州都庁舎の中空を旋回していた担当者の男性が高玄関たかげんかんからゆっくりと飛び入ってきた。


「どうですか、レーグル様。お気に召したものはございましたか」

「これです。これがいいです! 昔巫女のバイトしてた友達に頼んでこっそり乗せてもらったら、おもっくそ神主さんにバレてこってり絞られたこれ!」

「そうですか、それでは、これになさるということですね」

「はい!」 


 担当者はレーグルの早口な返答を聞くと、大きく表情には出さなかったが少し曖昧に頷いた。俺も思わず似たような心持ちになる。旧人類のレーグルが話せるのは古語だけ、しかも東アジア語古タネガシマ方言といって、ほとんど日本という一国家でしか用いられていなかったものが主だ。現代の四言語――東アジア語、西欧州語、パルマヒム語、バイコヌール語――はそれぞれ古代の言語群が画一的に再構成されたもので、文字や文法や品詞が似通っているが、レーグルの時代のそれは話が別だ。州都庁舎の空神様そらがみさま担当である彼も、古典言語を世界で最も権威ある学都で専攻した俺も、複雑な口語表現が含まれていると思わしき『日本語』を完全には聞き取れなかった。


 当たり前に全てを理解した様子で空神様そらがみさまと会話を続けるシルダリアに灰色の劣等感を味わいながら、何一つ分からねえといった顔をしてこちらに目配せする黒い小馬鹿に雑な笑顔を送って、透明な壁面を覗く。


 標準塔ひょうじゅんとう一〇基分くらいの高度から辺りを見下ろせば、州都庁舎を中心として十字に拡がる目抜き通りに沿って、森にも似た建造物群が整然と立ち並んでいる。あまりの高さに足元がふらつく。思わず顔を上げると、新たな目線の先にある州都庁舎上空には、第二文明末期だいにぶんめいまっきに作られて起動したままの巨大な円盤状の重力制御装置が浮いている。その下面にヴラジオストクという古都の残骸が張り付き、もう一つの街を成しているのが見える。


 自然の重力に従って庁舎が根を張るしもバイコヌールが主に『敬空領けいくうりょうバイコヌール』の中核を成す都市で、その三割くらいの規模で逆さに浮くかみバイコヌールは、食糧や資材の備蓄、軍事を含めた州政府の古典科学研究施設などが置かれているという。


 空神様そらがみさま関連の手続きがあって、その夜。俺、レーグル、ヘンダーソンの三人は、この州が誇る一流の滞在施設で過ごすことになった。それもこれも敬空領けいくうりょうを代表する名家の出身であるシルダリアの力業によるもので、彼女はと言えば明日の準備をしてくると告げて実家に飛び帰ってしまった。


 休養室で整体を受け、暖かい浴場で身体を休め、自室に戻り、全く眠れずに中庭に出る。


 人工の小川と波紋を描く砂地。所々に穏やかに灯った自然の明かりに目を奪われる。この宿は空神様そらがみさまを宿泊させる許可を得ていて、二棟ある宿泊棟の一方が空神様そらがみさま用、もう一方が一般客用だ。前者には『生きているものしか見えない』旧人類の視界確保のため、廊下や各部屋に小さな水槽が置かれており、そのなかに発光する水生生物が飼われている。目の前の中庭にも備え付けられたこの明かりが、レーグルたちには灯篭に見えるらしい。


「こんばんは。アコウギさん。隣、いいですか」

「あぁ」


 中庭の縁側に腰かけていると、板張りの床を踏んでレーグルが歩いてきた。彼女も眠れなかった様子で、俺の傍に座る。上バイコヌールは遥か後方に浮いていて、二人して見上げる空には輝かしい星々の光が満ちていた。


 数分沈黙が続いて、小さな空神様そらがみさまが声をかけてくる。


「昨日はありがとうございました。わたし、あなたには感謝してもしきれません」


 思い返す。昨日。風の撫でる草原。地上圏ちじょうけんに開いた大穴の端に降り立ち、だんだんと現実を認識し始めたレーグルの心は限界に差し掛かっていた。地界ちかいを潰滅させ、多くの人を死に至らしめる原因になったかも知れないこと、そして俺に、彼女からしてみればかなりの怪我を負わせたこと。これはほとんどが古傷だから気にする必要なんかない。そんなことを言うより早く、彼女は巨大な崖に向けて走り出していた。


 死んでしまった方がいい。そんないつかの自分と似た絶望に満ちた目を見て、俺の身体は跳び上がった。動き出しが早かったので全速力を出すまでもなかった。すっとレーグルの前に出て、軽くぶつかるようにせき止める。しりもちをついた彼女に俺は叫んだ。まだ本調子でなく、脳が働いてなかったから、詳しく何を言ったかは覚えていない。けれども、そのあとレーグルは思いとどまってくれたし、元気を取り戻してくれたようにさえ見える。


「『なぁ、頼むから、そうは死んでくれるな』。アコウギさんが言ってくれた言葉は、深く心に残っています」

「え、何それ……恥ずかしい……」


 俺は色を変えて、考えていたより数段感情的にものを言っていたらしい。もっと理論的に説得したものだと思っていたので、少しばかり情けない気持ちだ。項垂れると眠たくなってきた。首を振って空を見上げる。


 嫌いだ。やっぱり空は嫌いだ。燦然と輝く恒星も、幽玄と揺らめく月も、伝統によって形作られる星座も、風に流れるまばらの雲も、みんな嫌いだ。いま見ているこの星の光は、ずっと遠い昔のものだという。熱に浮かされるまま空の輝きを今夜全て砕いてしまったとしても、死に損なって煌めく明かりは、これからも俺を照らし、もっと浅ましい男の影をまざまざと地に縫い付け続けるだろう。


「古代の哲学者アリストテレスによれば、月から下は万物が変転する世界、月から上は完全無欠の不変な世界らしいです」


 レーグルが俺でも辛うじて知っている第一文明期以前の偉人の名前を口に出し、夜空を指さす。そのまま彼女は憶えている限りの第二文明期だいにぶんめいきのことを説明してくれた。


 第二文明期だいにぶんめいき、特にその末期。グレゴリウス暦の二○○○年以降は、人類がもはや神にも近いような威信を獲得した時代だった。医療技術の拡充によって、全世界の人口は八○億人を超え、現在の一○○倍近い数に上った。地球上の大型生物の九割は家畜であり、海にも空にも大地にも人為が及ばない場所はなかった。もっと個別の分野、例えば学問の進歩に目を向ければ、クォークやレプトンというらしい物質の最も基礎的な構造を解明したことにより、地球上のほとんど全てのことがらを解き明かすための研究活動が開始されることになった。


 ただ、人は病や戦争の代わりに自殺や太りすぎでたくさん死んでいったし、地球温暖化などによって環境が大きく汚染され、複雑な政治状況がいたるところで不和を呼んでいたから、第二文明末期だいにぶんめいまっきが人類史上特別幸せだった時代だとはいえない。未だにしばしば飢饉に襲われる地上圏ちじょうけんの最も恵まれた地域も、そのうちそんな風になるだろうか、俺はレーグルがゆっくり話すのを黙って耳に入れていた。


 黒髪の少女は続ける。何もかもが手に届くようになったとさえ思える世界のなかで、旧人類たちは月から上の世界に向かう意思を強めた。完全無欠と、不変。不老不死の研究がそうだ。当然ながらそんな神様と人間の境を本当に飛び超えてしまおうという試みが早々に実を結ぶはずもなく、レーグルが地球から逃げ出した際の大災害によってすべてお流れになってしまった。 


 空神様そらがみさまと呼ばれた旧人類のレーグルたちも、地上に残った俺たち現人類も、天寿を全うしても平均して八○年ちょっとで死んでしまうことは、第一文明期から何も変わらない。


「偉大な天文学者であり、音楽家でもあったウィリアム・ハーシェルは、太陽のなかにさえ人がいるだろうと思っていたらしいです。晦日みそかの月もブルームーンもいまやそれほどありえないことではないと分かって久しいので、わたしがいなかった六○○年間でこの夜空の星たちにも何か……って、ごめんなさい、語りすぎました。空、嫌いなんでしたよね」

「あ、いや、別に……」


 熱を上げて喋り続けるレーグルが正気に戻ったのを見て、思わず声を出す。言われなくても分かる。空神様そらがみさまのレーグルはこれ以上ないくらい空が好きなようだった。そして驚いたことに、彼女が興味のあることについて生き生きと語る様子は、どういうわけか不思議と空が嫌いな俺を不快にさせなかった。むしろ地界ちかいで立て続けに恐ろしい目に遭った黒髪の少女がいま元気に口を開いていることは、とても喜ばしく、嬉しいとすら思えた。


 続きを促すと、彼女は多くの第二文明期だいにぶんめいき以前の人名を出しながら、俺が学んだ天文学や史学などについて語ってくれた。やはり天文学――第二文明末期だいにぶんめいまっきには宇宙物理学といった――が彼女のお気に入りのようだった。レーグルが身振りまで交えて伝えてくれたことには、こうだ。


 第一文明期だいいちぶんめいき以前に生きた始祖の人々にとって、太陽や星々の運航はとりわけ重要なものだった。太陽は世界の全てに色を与える不滅の象徴であったし、星々の運航は人々に作物の収穫や大川の氾濫の時期を教えた。過去、あらゆる文明には空を観測するための遺跡が存在した。人は空を敬い、また学ぶことを続けた。第一文明期以降、重力に関しての研究や分光学などを用いて、未知の頭上の世界について多くのことが解き明かされていった。

 

 科学と芸術はしばしば対立する概念だったが、空の鮮やかな情景はそんな諍いをものともしなかった。夜闇に浮くアンドロメダは、それが月下世界の天体現象であろうと、実は離れた別の銀河であろうと、その美しさで以て見る者を刺激した。原初から人類を惚れこませ、世界各地に様々な物語を形作り、科学的にも芸術的にも重要な位置を占め続け、時間と空間、そして神様のような人知を超えたあらゆるものの源である空は、一生かかっても讃えきれないほど素晴らしいものだ。


 レーグルは、さらに多くの遠古の偉人の名前を出しながら解説してくれた。統合専門学校とうごうせんもんがっこうで聞いた名前もいくつかあったが、ほとんどは現代では忘れ去られたらしい、俺の知らない人たちだった。黒い髪の空神様そらがみさまの話は、神気を伴ったように滑らかで、想像力を掻き立て、飽きさせなかった。はじめて聞く古代の科学用語さえ、すっと頭に入ってきたほどだ。彼女が六○○年を過ごした宇宙機は、永遠の月より遠いところにあったのだろうか。そんなことを思っていると、黒髪の小さな少女はすっと身体を伸ばす。


「アコウギさん、望遠鏡って知っていますか」

「空を観測する科学用具だろう、どこの州の研究施設にもあると思う」


 機会があれば触ってみたいですね。レーグルはそう加えて、ゆっくりと倒れるように俺に身体を預けた。気付けば夜は明け、地平の果てからのぞく朝日が淡く中庭を照らし始める。  


 太陽は、かつて永遠、死と再生の象徴だったという。あの輝きのなかに人を夢見たとは、超科学と合理の権化であるはずの神に似た偉大な祖先たちも人間らしいところがある。見下ろすと、眠たそうにレーグルが目を擦る。空神様そらがみさまは毎日一定時間寝ないと体調に影響があるらしい。話を区切ってでも部屋に戻ることを促せばよかった。悪いことをした。そう謝って彼女を旧人類の棟の前まで運び、俺も自室に戻った。

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