第42話 激闘 雪之丞VS佑月

たっぷりと湯の張ったジャグジーに身体を沈めながら、雪之丞は小窓に映るお月様を眺めて、ぼんやりと考え事をしていました。

あれだけ怖かったぶくぶくの泡も、水の中に身体を浸す行為も、今ではとても気持ちが良くて、湯上りののぼせた顔でリビングに向かうと、マルグリーデはいつも怒っていました。


「人間の身体は意外と繊細なのよ、2時間も入っていたらふにゃふにゃになっちゃいますよ、これからは1時間で上がりましょうね」


ネコ時代に興味津々で覗き込んでいたバスルーム。

水滴に身体を強張らせて、翔也がふざけながら上げる水飛沫に尻尾を巻いて逃げた記憶。そんな些細なエピソードはどうにも幸福で、わき腹がこそばゆくなるのもジャグジーの泡の中だけの出来事でした。

ぷかぷか浮かんでいると想い出にも浸れて、ついつい長湯になってしまうのも無理はありません。

雪之丞は、思い描いていた世界が、理想と極端に解離している現実を認めたくはありませんでした。

人間同士になれたというのに、羞恥心が邪魔をして不自由になった暮らし。

そこまで必要ですか? というくらいまで肥大化した人間の脳。

ネコの時は考えもしなかった「どうして生きているのだろう」といった素朴な疑問。

生命を純粋に楽しめなくなったのは、私が私でなくなったからかしら?


「衣を纏い、食に溺れ、住に喫す。人間とはそういうものだから」


神ねこ主様の言葉が、ようやく理解出来た気がしました。

とりわけ、衣を纏う行為は雪之丞を混乱させました。

ブラとショーツだけでも息苦しいというのに、さらに衣を纏い身体を隠す。

かと思えば、ほぼ下着といった出で立ちで街を歩く若い女の子達を見て、いっそのこと裸で歩けばいいのにと思いつつも、羞恥心が邪魔をして出来っこない現実には振り回されてしまう。

そうして暮らしていく中で、衣は盾であり食は虚栄で、住は力の誇示だと判りました。

人間は脆弱さを隠しながら、食物連鎖の長の如く振る舞いつつ、見てくれを気にする可哀想な生き物。

他の動物とは違う面倒くさい生涯には、いったいどんな喜怒哀楽があって云々と、思考を張り巡らせる自分もまた、ヒトに近付いているのだと思うと雪之丞は恐ろしくなって。


「結構毛だらけ猫灰だらけ・・・」


そう呟きながら湯の中に潜ろうとした時、クンクンと鼻腔が反応しました。あの時と同じです。

翔也と佑月が初めてこの家を訪れた日の、異質で気味の悪い生臭い感覚。

雪之丞はタオルを身体に纏うと、抜き足差し足忍び足でバスルームを後にしました。

ナニかが侵入している。

それはネコジンの直感でもありました。

長くて薄暗い廊下の先、1階へと通じるらせん階段の手すり。

此処に染みついた匂いは、紛れもない恋敵・江国佑月のものでした。

それもほんの少し前に出来た、生暖かい感覚です。

晩餐会の時には気が付かなかった、獣臭もしっかり残っていて、江国佑月はウサギビトだと雪之丞は確信すると、勝手口から小庭へと回り込みました。


「バニーガールには気を付けるべし」


またしても、神ねこ主様の言葉が頭をよぎりました。

ネコジンとウサギビトは分かり合えない生き物なのです。

遠い昔から、両者の争いは絶えませんでした。

キューバ危機も、実のところアメリカネコとロシアウサギの争いで、それに巻き込まれたのがキューバマングースという史実は、永遠に闇に葬り去られました。

人間が知る余地もありません。

当時のKGBには、バニーガールと恐れられた女性だけの諜報部隊が存在して、ソビエト連邦が崩壊した後、彼女たちは日本や中国やインドで工作活動を行っていたのでした。

雪之丞はごくりと唾を飲み込みこんで、雪見障子越しに茶室の中をそっと覗き込みました。

身体にぴったりとフィットした、上下黒のボディースーツを身に纏い、大きなヒップをぷりんと動かしながら、江戸長火鉢の引き出しを漁る泥棒ネコならぬ泥棒うさぎ。一心不乱に部屋中を物色している佑月は、時折地団駄を踏みながら、棚の中やポットの中を覗き込んだり、掛け軸を捲ってタタン、タンタンと足を踏み鳴らしていました。

うさぎの宿命、仲間達に危険を知らせるスタンピングは、人間界では時として安眠妨害であり、ご近所トラブルの元であり、そのせいで、肉離れやアキレス腱断裂といった怪我に悩まされるのも、ウサギビトの宿命であり弱点でもありました。

雪之丞は、目の前の獲物を捕獲すべく、タオルを小庭に脱ぎ棄てて素っ裸になると、世間体やしがらみや、恥や嫉妬、煩わしい距離感から解放された気分になりました。

身軽になれた身体は湯冷めも何のその、脳内から大量に放出されたネコアドレナリンの作用もあってか、全身は血が沸いて肉が躍っていたのです。


「服なんて、結構毛だらけ猫灰だらけ・・・」


佑月の、ぷりぷり揺れる大きなお尻は、ガシャガシャブンブンと同じ効果をもたらしていました。

雪之丞は、障子をそろりと開けて、忍び足のまま四つん這いで獲物に近付くと、背筋を丸めて攻撃態勢に入りました。

生きている喜びを嚙み締めたのもつかの間、佑月が大きな地団駄を踏むと、予想もしていなかった音に、雪之丞は跳んで跳ねてスッテンコロリンとひっくり返って固まってしまいました。

これまでに数々の特命任務を任され、幾度も修羅場をくぐり抜けて来た佑月が、そんな間抜けな敵の失態を見過ごすわけがありません。

目をまんまるにしながら、膝をついて素っ裸で自分を見上げている雪之丞の髪の毛をむんずと引っ張り上げると、顔を近付けて。


「飛んで火にいる馬鹿な猫・・・」


「初めから怪しいと思ってたわ、この泥棒うさぎ!」


「泥棒は猫の得意分野でしょ?」


「・・・口だけは達者なうさぎね」


「そうかしら、口だけじゃなくてよ」


佑月は雪之丞を立たせると、腕を思い切りねじ上げて言いました。


「探す手間が省けたわ。さあ、家系図の在処を教えなさい!」


雪之丞は短い悲鳴をあげました。

ところが、ぎりぎりと締め上げられる痛みに身体を仰け反らせると、佑月の力が弱まってわずかな隙間が出来ました。

雪之丞はくるりと回転して逆立ちになって、佑月の首を足で挟みました。

しかし、元KGB・バニーガールの血を受け継ぐ佑月も負けてはいません。

その足を掴んでおっ広げると、雪之丞の身体を逆さ大の字にして「これでもか!」と言わんばかりの恥辱を与えたのでした。


「やめて!」


そう叫んだ雪之丞は、上体をグッと引き上げて佑月にしがみ付いて、ゴロゴロどたばたジタバタともがき苦しみました。

雪之丞の露わになった胸の谷間に顔を挟まれた佑月も大パニックです。

息が出来ない苦しさに七転八倒大暴れ。

ふたりの身体は江戸長火鉢をひっくり返し、スタンドライトをなぎ倒して雪見障子を突き破り、池の中へ落っこちてしまいました。

















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