第35話 屋根の上のライアをなでなでするむらさきさん

年々遠ざかる秋の夜更け。

水気を含んだ重たい風は、銭湯の屋根瓦を舐めながら地面に落下していきます。ここ数年、百日紅も金木犀も目覚めは遅く、暦では秋だというのに、肌に纏わりつく猫っ毛は邪魔くさくて。


「どうしたの? お腹空いているの?」


と、やさしい言葉をかけてくれるむらさきさんの気持ちを、ライアは無視したまんま、ちぎれ雲に見え隠れするお月様に向かって泣き続けておりました。

こうして屋根の上で、むらさきさんの膝の上に乗っかっていると素直になれました。

言葉が通じないのも幸いしてか、意地を張る必要もなくなったライアの瞳からは、涙がぽろぽろと零れ落ちていました。

都合良く脚色された記録のフォルムは陽炎のようです。

真実を煙に巻きながら記憶として蓄積されていきます。

それは猫も人間も同じだと、ライアはずっと昔から思っていました。

むらさきさんの太ももは、綿菓子みたいにやわらかくて甘い匂いがしました。

クンクン鼻先を動かしながら泣いて、狭すぎる額と両耳をぺっちゃんこに潰されながら撫でられていると、この世から消えてしまいたい願望は、不思議と薄れていきました。

苦しみの元凶は、美しすぎる想いでだったのです。

ひょいと身体が軽くなったかと思うと、目の前にむらさきさんの笑顔がありました。

ライアは、尻尾をぶらんぶらんさせながら、心地のいい人間の言葉を聞いていました。

いたわりとやさしさに溢れた声は、見知らぬママのおっぱいみたいで、両の手をもみもみしていると悲しみはどこかに飛んでいってしまいました。


「私もね。遠い昔に散々泣いたの。これでもかってくらい泣いたの。全てが嫌になったわ。起きるのも睡りにつくのも。ご飯を食べるのもシャワーを浴びるのも辛くてね。それでもお日様は昇るから、部屋のカーテンはいつも閉めっぱなし。ゴミも出さない。外に出たくないから。そうして夜になって、近所の公園で猫たちが集会してる声を聞きながら、毎日さよならすることばかりを考えていたの。だけどね、笑っちゃうんだけど、お腹も空くし喉も渇くの。深夜にコンビニに行って、買い物するでしょう。死にたいのに、なんでお腹を満たしているんだろうって・・・それでまた泣いちゃってさ。無限のループ。答えがないの。生きているってこういうことなのって思った。涙ってね、枯渇しないんだからさ、たくさん流せばいいのよ」


むらさきさんは、鳴き晴らしたライアの目やにを、そっと拭ってあげました。


「人ってさ、自ら生命を終わらせちゃうの。それについて、君達猫ちゃんはどうお考えですか? もったいないですか? それとも羨ましいですか? 選択肢が増えたのって、大きすぎる頭のせいなんだよ。忘れたくても忘れられないの。知らないふりをしていても、悲しいことをふと思い出しちゃうんだよ。信号待ち、電車の中、換気扇の音を聞いている時、ハイヒールを履いた瞬間、スニーカーは平気、なんでかな。眠る前、夢の中、起きた時、自分の影に驚いた時、削除したはずのSNSが気になった時、誰かと話したくなった時とかさ。メンドクサイ生き物だね、人間様って・・・それでも私は死ねなかったの。心の正常バイアスが、かろうじて保たれていただけ。お薬とは、うまく付き合っているの。心の病だからね。私のライフイベントはいっつも傷だらけなんだよぉ~!」


むらさきさんはライアをたかいたかいして、まんまるの、とても青いお月様の灯りを遮りました。

忘れられない人との思い出が蘇るからそうしたのです。

わざと遠回りして帰ったあの日の夜以来、綺麗すぎた想いでは心の奥底に閉じ込めていました。

ライアはすっかり泣き疲れて、持ち上げられながら目をしばしばさせていました。

土管公園から飛び出して、むらさきさんに拾われて数日。

失恋の傷は癒えなくても、プライドという張りぼての城壁は徐々に崩れ去っていました。


「やっと鳴き病んだね、さ、一緒に寝よ」


むらさきさんの言葉に、ライアはゆっくりと瞼を下ろして応えました。


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