第34話 宣戦布告
東京都・北区の外れの会員制クラブ・美遊兎で、江国直樹と米倉英雄は、大城美波の接待を受けておりました。
政界にも顔が利く美波を頼る者は多く、都心から離れた田端という地理的要因も、情報収集の場としては好都合でした。
戦後の文豪・京極実千佳の「貪り尽くした大腸の躯」の舞台、料亭「響」のモデルはこのクラブで、それに登場する若女将・初枝は、美波の実母でした。
江国は、ハイウエストミラーマンを設立した当時の、美波の母親からの多額の支援金と言葉を忘れてはいませんでした。
「人生、裏切られてなんぼよ!」
それが成功者たる真実。
この場所は、ヒトとして生きて行く学びの場でもあったのです。
一番奥のボックス席に通されると言うことは、このクラブの特別会員の証しであり、それに気を良くした米倉は満足げな表情を浮かべていました。
「どうですか先生、また研究を始めたらしいと噂されてますよ」
不躾な米倉の物言いに、江国は一瞬膝を浮かせてはみたものの、頬の青々とした髭の剃り残しと、薄い頭頂部を見て怒りは静まりました。
替えが利く人物だと、認識できただけで良しとしたのです。
「いやいや、もともと大それた功績も何にもないんだからね。気楽なもんだよ。研究と言ってみたところで、所詮はビックデータの解析をAIがやるだけなんだから、そりゃあ、昔と比べたらね、かなり手間も省けるけれどもだ。研究なんて噂。あまり鵜呑みにしない方が身の為だよ。これからだってあるのだから」
嫌味な言い方に。
「ああ、そういう訳でしたか。こりゃどうも早合点でした」
と、米倉は顔を掻きました。
ふたりの掛け合いを眺めていた美波は。
「ふうん。学者さんも政治屋さんも大変ね」
と、言うと、スリットから覗く白い足を組み替えて、米倉のグラスにブランデーをつぎ足しました。
そして、端の席にちょこんと座る若いホステスに目配せをして。
「江国先生は?」
「ああ、私はもう結構だよ。何せ客人を待たせてあるから」
「それでもまだ時間はあるんじゃなくて? この子にね、先生のことをもっと知ってもらいたいのよ」
「ほう、見ない顔だが・・・いつ入ってきたのかな? ママはね、こう見えて人情にあつくてね、困ったことがあったら何でも相談するといいよ。君、名前は?」
「はい。久保ミキです。よろしくお願いします」
引き攣り笑顔でお辞儀するミキは、小柄でエクボが似合っていました。
それを、品定めするような目つきで眺める米倉は、一気にブランデーを流し込むと立ち上がって、トイレへ向かうために席を外しました。
江国はにこやかに。
「久保ミキさんか。本名かな。いやいや参ったよ。自己紹介で本名を名乗られるなんてね。しかもこのクラブで」
「あ・・・店では夏鈴って言います。夏の鈴で夏鈴です。ごめんなさい」
ミキは困った顔で美波を見ました。
けれど、ふふと笑うだけで何も言葉は発してくれませんでした。
「夏の鈴でかりんか。とても素敵な響きだね。それとね、若いんだから、そんなうちから謝り癖が付いたら良くないよ。楽しくないだろう? それに首が疲れちゃう。今後、私の前では、一切合切謝ってはいけないからね。わかったかい?」
「はい。ごめんなさい!」
「ほら!?」
江国と美波は笑い合いながら、目の前の無垢な女の子の未来を、少しだけ案じていました。
ボックス席から出て、程よく混み合ったラウンジを眺めながら米倉は、ききすぎる冷房の中を足早に通り過ぎて行きました。若手の起業家や証券マンは、悪ふざけを覚えたばかりの子供みたいにはしゃいで、それをかわすホステス達はまるで母親の様に寛容でした。
米倉は、聞こえない程度の舌打ちをすると、自分の優位性に満足しきって。
「陳腐な席で、一生女のケツでも追い駆けてやがれ」
と、ほくそ笑みました。
誰も居ないトイレの鏡に映る自分の姿が、昔よりも逞しく思えたのもつかの間。
さっきまでいたボックス席で、身体を強張らせていたホステスの匂いを思い返すと、途端にに不愉快になってしまいました。
その原因も解らないまま高まる動悸は何とも厄介で、流し込んだブランデーは、妙薬には成り得ないと気が付かされました。
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