第3話


「はぁー、やっぱ美味い。仕事終わりの一杯っつーのは格別だよなァ。このために生きてるって言っても過言じゃねぇわ」


 一杯目のそれに口をつけて、係長は大袈裟に言った。

 よく晴れた秋の夜空。少し冷たい風が吹いているけれど、それでも心地良い気温。

 今日は日中、秋とは思えない陽気だった。だからこの風はとても気持ちがいい。

 その風を受けながら、私と係長は対面してそこに座っていた。控えめな間接照明と月明かりが美しい、夜風が吹くこのテラス席で。


「ええと、係長」


「ソーヘーも遠慮しねぇで飲め、美味いぞ」


「飲みに行くって、これですか?」


「当たり前だろ。オレが飲みに行くって言ったら、コレに決まってる」


 手に持ったカップを掲げる係長。黒い水面に、ちらりと満月が映るそれ。


 ──湯気立ち昇る、コーヒーだ。



「私、てっきりお酒かと……」


「オレぁ酒が飲めねぇんだよ。マズいし苦いし頭痛くなるし、飲んだ後まともに活動できねぇだろ。酔っ払いは腹立つしよ。この世から酒がなくなればどれだけいいことか。もっと増税してくれてもいいとさえ思うな」


「でも普通、飲みに行くっていったらお酒ですよね?」


「今の状態で酒なんか飲んだら、お前すげぇことになりそうだけど」


 ……確かに。今日の状態で深酒なんてしてしまったら、とんでもないことになりそうなのは間違いない。そういう意味では、よかったのかも知れない。


「ここはよ、コーヒー通には名の知れたカフェなんだ。それにホットサンドもまた美味いんだよなぁ。ソーヘー、ビーフパストラミとツナメルト、どっちがいい? 半分に切ってあるからシェアするって手もあるぜ。よし、そうしよう」


 言うが早いか係長は、並べられていたホットサンドに手を伸ばした。ツナメルトをひと嚙りして、また呟く。あぁ、やっぱり美味いなぁ、と。


「ソーへー、遠慮すんなよ。足りなかったらホットサンド、追加注文するぜ。女の子に人気のエビアボカドとか、ふわとろタマゴサンドとかあるけど、もう注文しとくか?」


「あ、いえ。結構大きいので、大丈夫そうです」


「なんだよ、少食だなぁ。もっと食え、お前は体の線が細すぎる」


「係長、それセクハラですよ」


「いや違う。これはだ」


「それ、係長の存在自体がハラスメントみたいですけど」


「ま、当たらずとも遠からずってとこだな」


 ニヤリと笑って、コーヒーを啜る係長。湯気でまたメガネが曇っている。でもそれは秋の夜風にあおられて、すぐに消えてしまっていた。

 私も倣って口をつけてみる。それはとても香ばしくて。口の中まで軽くなってしまうような、軽快で鮮やかな味がした。


「美味いか?」


「……はい、とても。すごく軽くて香ばしいです」


「それ、ガテマラ・カシ・シエロっていう豆なんだ。カシ・シエロってのは、スペイン語で『Almost Heaven』って意味だってよ。ほとんど天国って、洒落てるよな」


「係長、コーヒーに詳しいんですか?」


「まぁ、趣味のひとつではあるな。そこまで入れ込んでるワケじゃねぇが」


 今まで、豆の銘柄なんて気にしたことがなかった。カシ・シエロ。ほとんど天国。意訳すれば、天国にいるみたい、だろうか。どちらにせよ確かに洒落ている。

 私はそれをもう一口飲む。天国の味かどうかはわからないけれど、美味しいのは間違いない。会社で飲んでいるいつものコーヒーとは、全く違う味だ。


「ここの店主はコーヒー好きが高じたらしくてよ、脱サラしてこの店を立ち上げたんだと。最初は苦労したらしいが、今やこの客入りだ。すげぇよな。オレも趣味が高じて、なんか別の仕事をしてみたいもんだぜ」


「係長も、今の仕事に不満が?」


「あるに決まってんだろ。むしろないヤツの方が珍しいんじゃねぇの?」


「係長は、どんなところが不満なんですか?」


「いろいろあり過ぎて挙げだしたらキリがねぇよ。だいたいオレらの部署は明らかにおかしいよな。ウチの主業はチーズの生産販売業だぜ? なのによ、海外プレミアムチョコレートの輸入販売ってなんだよ。で、なんでそこに新規参入すんのにメンバがオレとお前の二人だけなんだよ。ほんとおかしいよな。あ、お菓子だけにってかァ?」


「それ、笑えないです」


「笑えよ、オッサンになるとこういうの好きになってくんだよ!」


 そう笑う係長は、とても楽しげだった。愚痴を言っているようには思えないくらいの爽やかな笑み。係長はこんな風に、いつも笑っている気がする。


「でもま、愚痴を言ったって何も変わらねぇ。だからオレら組織人は、上が言うことをヘイヘイ言って素直にやりゃいいんだ。もちろん給料分だけな」


「お給料分だけ?」


「当たり前だろ。それ以上求めるなら、まずは給料上げろってハナシだ」


「与えられているお給料以上の仕事をしてこそ、出来る人間ってヤツなんじゃないですか? もちろん私は、そんな人間じゃないですけど……。それにあのチョコレートに、プライドをもって作ってる人たちもいるんですよ。だからやっぱり、真剣に仕事しないと」


 そう発言すると、係長は途端に怪訝な顔になった。怪訝と言うか、それは初めて見る生き物に出会ったような顔だ。


「お前、すごいヤツだな。自社ウチで作った商品ならまだしも、扱ってんのは海外メーカが作った商品だぞ。そこまで真剣になれるのは一種の才能だが、でもアレだ。あんまり仕事に入れ込むなよ。これは忠告だ」


「上司がそんな発言してもいいんですか?」


「いいんだよ。これはオレの持論だが、人生が仕事だけの人間になるのはよくねぇぞ。そういうヤツは、仕事がダメになった時に脆いんだ。自分の居場所が会社にしかないヤツはなおさらな」


 自分の居場所……。そう言われても、私なんか家と職場の往復だけの生活だ。居場所はどこかと問われれば、一人暮らしの寂しい部屋か、それとも職場か。その二択となるのは仕方がないような気がする。

 私は手元のカップに視線を落とした。揺れるコーヒーの水面に映る、秋の月。それはわずかに震えて歪んでいた。まるで私の心を映し出しているみたい。


「ソーヘー、話を戻すけどよ。お前がどんな風に、仕事のなにを悩んでんのかは知らねぇ。それに興味もねぇ」


「興味も、ないですか」


「あるワケねぇだろ。おおかた『仕事ができない自分』ってのに悩んでんだろうが、そんな悩みは捨てちまえ」


「でも……!」


「でも?」


「……私は、私が許せないんです。みんなに迷惑かけて、係長にだって迷惑かけて。なのにお給料もらって、今日も生きている。もっと真剣にならないと、って思うんです。それに自分なりに頑張ってるんです。でも社会は結果が全てだから。結果が出せてない私に価値なんてない。そう、思うんです」


「自分なりに頑張ってんならそれでいいじゃねーか。お前はよくやってる、ってさっきも言っただろ? たとえ他部署のヤツがお前の仕事ぶりに低評価を下したとしてもだ。そんなもん関係ねぇよ、お前を評価できるのは直上のオレだけだ。そのオレがお前を良いって言ってんだ、自信持てよ」


「でも……」


「あー! もう面倒臭えな! お前さっきからデモデモばっかじゃねぇか。活動家かよ?」


 係長はテラス席に備えられたベルを鳴らした。綺麗な鈴の音が響いて、店の中にいた店長さんらしき、顎髭の似合う恰幅のいいおじさまが近づいてくる。


「店主、カシシエロをもうふたつお代わりで! あとツナメルトとタマゴサンドもお願いします!」


「係長、私そんなに食べられません……」


「お前の話聞いてると、腹が立つってより腹が減るんだよ。それに秋の夜は長い。腹ごしらえしとかないと、だろ?」


 係長はまた、ニヤリと笑ってみせた。

 人を食ったような笑み。それでもどこか、温かさを感じる笑顔で。



 

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