第2話
「
耳をつんざくバカでかい声。それが秋の社内、小さな係室に響いた。穏やかな秋風が吹く、気持ちのいい午後五時半。終業時間まであと少しとなった頃合い。
出先から帰ってくるなり係室のドアを開け放ち、自席にどかりと腰を下ろしたその人は、ぞんざいに湯飲みを私に翳してきた。そして再び発言する。
「
「
「まぁどっちでもいいけど、コーヒー淹れてくれよ」
「どっちでもよくない! コーヒーはご自分でどうぞ!」
言いながら私は、さっき買って来た一杯用のドリップバッグを係長に投げつけてやる。ぺちりと軽い音を立てて係長にぶつかる、コロンビアブレンドと書かれたそれ。拾い上げて封を切りながら、係長は言った。
「なんだよ、珍しく感情むき出しじゃねーか。オレがいない間になんかあったのか?」
「別に何もありませんけど」
「そしたらなんか悩んでんのか」
「そりゃあ悩みくらいありますよ。この会社に入ってもう三年。なのに直属の上司にちゃんと名前も憶えられてない。仕事だって全然ダメ、その他も全然ダメ。悩んでます、悲しいです。ねぇ係長、どうやったらもっと仕事ができるようになりますか。教えて下さい」
「知らん」
……まさかの返答。それも即答。それはさすがに、上司としてちょっとどうなんだろうと思う。
「お前、まだこの会社に入って三年半くらいだろ。で、ウチの係ができてからは一年ちょい。それならよくやってる方だと思うけどな」
「でも、自分ではぜんぜん仕事ができてないって思うんです。係長の足引っ張ってばかりで。何にもできなくて……」
「仕事できねぇ自分ってのに悩んでるなら安心しろ。お前はよくやってる。直上のオレが言うんだから間違いねぇ。つーわけで、コーヒー頼むわ」
ドリップバッグを湯呑みにセットし、ずずいと私に渡そうとする係長。何故か満面の笑顔で。
でも電気ポットは係長の真後ろだから、どう考えても係長の方が近い。だから私は無言でポットを指差した。
係長は大袈裟に肩を竦めると、振り返ってお湯を注ぎ始めた。ぽとぽとと水音がして、係室の中にコーヒーの香りが漂う。
「……オレぁ、ソーヘーが入れてくれるコーヒーが好きなんだけどなぁ」
「お湯注ぐだけですから、それ。誰が淹れても味は一緒ですし」
「いや何つうんだ? ソーヘーの愛情がこもってそうじゃねーか」
「それはないです。でもなんで、湯呑みにコーヒーなんて入れてるんです?」
「これは湯呑みじゃねぇ。取手が折れちまったマグカップだ」
「捨てましょうよそんなの……」
コレ気に入ってんだよ。係長はその湯呑みに口をつけて、ほうと息をついた。その所作はまるでお年寄りみたいだけど、係長はまだ三十代前半だ。
コーヒーの湯気で、係長のメガネがうっすらと曇る。ちょっと間抜けにも見える顔で、係長は続けた。
「あー、やっぱり味気ねぇな。ソーヘーが淹れてくれたコーヒーのが百倍美味いわ」
「だから誰が淹れても同じ味ですって」
「女の子が淹れてくれるコーヒーってのはよ、やっぱり格別な味がすんだよ。だからソーヘーに淹れて欲しいんだよなァ、叶うのなら毎回な」
「それセクハラかパワハラのどっちかです」
「ふん、そんなことはわかってるさ。オレぁハラスメント普及委員会の会長だぜ?」
「それ時代に完全逆行してません?」
「セクハラ、パワハラ、
春原係長の下について早一年。私は一度も、係長が悩む姿を見たことがない。
「……係長はいいですよね。悩みがなさそうで」
「おうおうどうした、ソーヘー。そんなに褒めても何も出ねぇぜ?」
「いや褒めてません。羨ましいなって、そう思っただけです」
皮肉とも言うけれど、それは黙っておくことにする。きっとそれを言っても係長には通じないだろうし。だって、こんなに朗らかに笑う人なのだから。
「オレを羨ましいと思うのなら、ソーヘーもそうすりゃいいじゃねーか」
「そうすればいいって、どういうことです?」
「悩むのをやめろってことさ。お前が何に悩んでんのか知らねぇが、仕事で悩んでるならやめとけ。悩む時間がもったいねぇよ。そんな時間があんなら自分の趣味に使うね、オレは」
「趣味、ですか」
「おう、趣味だ。そこに時間を使った方が、確実に人生が豊かになるだろ」
「でも、仕事あってこその趣味じゃないですか。ワークライフバランスって、聞いたことくらいあるでしょう」
「オレに言わせりゃライフワークバランスだ。なんで
人生がうまく行かなくなる……。行かなくなるというより、行ってない。現在進行形で。
私は係長と違って、会社になんの貢献もできていない。入社して以来ずっと、私は誰かに迷惑を掛けながら生きている。社会人として自立できていない。それだけは確かなことだった。
係長のその言葉を受けて、少し詰まってしまった。喉なのか胸なのか、そのどちらかはわからないけれど。
「……人生、うまく行ってないです。仕事が本当にダメで。私は、なんの価値も出せてなくて。前、人事部にいた時は今よりも酷くて。ミスばっかで、みんなに迷惑かけて……」
ぽつぽつと語り始めると、止まらなくなる。うっかり涙なんて出してしまったら、それこそ歯止めが効かなくなりそうだった。だからそれだけは、せめてそれだけは我慢する。なけなしのプライドで。
「……使えないから一年半で人事部から出されて。係長と二人だけの、この新部署に来ることになって。これって私のせいですよね? 私があまりにもダメだから、こんなカタチの異動になってしまったんじゃないかって、ずっと思ってるんです。だから、私は係長にも申し訳が立たない。係長は、この部署の前は営業部だったでしょう。なのに、私のせいで……」
「お前のせい? まさかだろ。たとえお前が人事部に向いてねぇからって、新しい部署を作ってくれると思うか? このセコい会社がよ」
「でも……」
「お前、ほんとに何かあったのか?」
何かあったかと問われて。はいありました、なんて言える訳がなかった。係長が社外に出ている間、たまたま擦れ違った同期に嫌味を言われただけ。
──すみれのポジションっていいよね。お茶汲みだけで給料貰えるなんて、ほんと羨ましいよ。
同期にぶつけられたその言葉。それが思いの外、堪えてしまった。それだけだ。
「……別に、なにもありません。本当です」
「信じられねぇセリフだな。明らかにいつものソーへーと違うぞ」
いつもの私、ってどんなのだろう。係長にとって、私は普段どういう風に見えているのだろう。足手まといの部下だろうか。それとも部下にもなりきれず、係室に置いてある邪魔な荷物くらいの認識だろうか。
もしそうだったら。そうだったとしたら。私はもう──、
「よし。飲みに行くか」
「え?」
「もうちょいで終業時間、おまけに今日は金曜の夜だぜ? こんな日に飲みに行かずしてどうするってんだ」
「でも……」
「ほれ、出る準備しろ。ぼさっとしてると置いてくぞ」
鼻歌でも歌いそうな雰囲気で、係長はさっさと準備をし始める。そして終業時刻ぴったりに、係長は颯爽と部屋を出た。
続いて外に出ると、あたりはもう暗い。少し肌寒い、秋の風が吹いている。
「ソーへー、オレの行きつけの店でいいよな?」
振り返った係長の頭上に浮かぶ、まんまるな月。不思議と絵になる係長の後を、私は追いかけた。
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