先輩

 次の日、私は何事もなかったかのように、日常を過ごしていました。

 稽古の時間、先輩は相変わらずサボっていて、道場には私と師匠の2人だけでした。

 昨日の出来事について、師匠に言った方がいいことは、百も承知でした。

 この日ばかりは、先輩のサボりに感謝し、私は師匠に昨日のことを話そうとしました。

 まずは、花鳥というあの男について、聞いてみることにしましょう。


「師匠、お話があります」

「ん? なんだ、尚草?」

「えっと、その、花……」

「花?」

「に、庭の花がきれいですね」

「は?」


 師匠は庭の方へ眼を向けます。

 当然、花など咲いてはいませんでした。

 私は何を言っているのでしょう……

 師匠は本気で心配するように、私の肩に手を置いてくれました。


「尚草。疲れたのなら、少し休むか?」


 師匠の口から休むかなんて言葉を聞くことになるなんて、夢にも想いませんでした。

 師匠にいらぬ心配をかけてしまい、その心遣いが私にはとてつもなく痛く感じられました。

 肉体的に心配されるならともかく、精神的にやばい人だと思われるわけにはいかないと、私は次の質問に移ることにしました。

 次は、球のことについて聞くことにしましょう。


「師匠、お話と言うのはですね。その、た……」

「た?」

「みゃ……のことについてなんですが」

「たみゃ?」


 かんでしまった……

 たった2文字の言葉をかむなんて、穴があったら入りたいくらいに恥ずかしい。

 と思ったとき、いきなり道場の板張りの床が抜け、それによりできた穴に師匠が落下してしましました!


「師匠!!」


 私はあわてて、師匠を引き上げました。


「大丈夫ですか、師匠?」

「ああ。怪我はないが、いきなり床が抜けるから、かなり驚いた。この道場もいよいよやばいな」

「その……すみません」

「なんでお前が謝るんだ?」

「えっと……なんとなく」


 確かに、どうして今私は謝ったのでしょう。

 しかも、その前に昨日のことを話そうとしても、うまくいかないのはなぜ?

 その理由は、少し考えたらすぐに理解しました。

 私は師匠を信じなかったことを、信じられていないと思っていたことを、後ろめたく思っていた。

 それで、本能的に話そうとしていないんだと。

 その後、2人で床を直し、その日の稽古は休むように師匠に言われ、私はただすることもなく、廊下を歩いていました。


「うおっ! やべっ!!」


 すると、上の方から声がして、続けて、かわらが落下してきました。

 私は、はあとため息をついて、その瓦を拾いに、庭へ出ました。


「尚草。ちょうどいいところに。その瓦投げてくれよ」


 屋根の上から、先輩は私に手を振っていました。

 私は言われた通り、その瓦を先輩の顔面目がけ投げつけました。


「うわっ……と。危ねえな! 何すんだ!?」


 先輩はその瓦をなんとか受け止められたようでした。

 私は黙って、庭の木を伝い、屋根に上りました。

 先輩はものすごく警戒した様子で、私を見ました。


「な、なんだ?」

「先輩。少し、話したいことがあるんですが」


 先輩は一瞬、私を疑っていたようですが、私の顔を見て真剣さが伝わったのか、その後の先輩の口調も、真剣なものでした。


「いいぜ。なんでも話せよ」

「どうして……先輩は生きてるんですかね?」

「俺の生存に疑問を持つな!!」

「今のは、冗談です」

「じゃなきゃ、まじでキレるからな」


 私はここで一拍おいて、本当に話したかったことを口にしました。


「もしもの話ですけど、自分の大好きな人が、自分のことを信じてないと、そう思ってしまったら、先輩はどうしますか?」


 先輩は私の質問の意味が分からないようで、しばらく悩んでいましたが、やがて口を開きました。


「そうだな。信じてない……というか、自分がその人を慕ってるのに、その人にとって自分がどうでもいい存在なんだと、そう思ったときならあるけどな」


 先輩が言っているのは、師範のことなんだと、すぐに分かりました。

 しかし、先輩が自分から師範の話をするなんて珍しい。

 私はそう思い、黙って先輩の次の言葉を待ちました。


「だけどさ、それって随分身勝手な気持ちだと思うぜ」

「身勝手……というと?」

「自分の大好きな人にとって、自分は大切な存在であってほしいと、誰でも思うだろ? でも、そうでなかったとき、嫌な気持ちになるのはさ、結局自分のことしか考えてないってことだと思う」

「自分のことしか考えてない……」

「ああ。だって、本当に相手のことを思うなら、相手の気持ちをありのまま受け止めるのが、一番なんだよ。兄貴が俺を思ってないなら、そういうもんだってな。いや、別に今の俺は兄貴なんざどうでもいいと、こっちから思ってるくらいだけどな」


 最後に照れ隠しのようにそう付け加えて、先輩は笑いました。

 私は先輩の言うことが分かるようで、けれど、納得できない部分もありました。


「先輩。でも、大好きな人に思ってもらうことを、あきらめる必要はないと思いますよ」

「あきらめる……いやいや、だからあきらめるも何も、もうどうでもいいんだよ。兄貴のことなんて」

「誰も師範のことだとは言ってませんよ」

「うっ……でもまあ、お前の言う通りかもな。

 後1つ、さっきの質問に対して答えるとすると、相手が自分を信じてないと思ったら、それを相手に言うべきだと思うぜ」

「言うべきですか?」

「ああ。それはつまり、自分も相手を信じてないってことだからな。その気持ちを言えてこそ、本当の絆ってもんだろ。メロスとセリヌンティウスみたいにな」


 あの名作に関しては、王様の変わり身の早さに突っ込みたいと思うんですが。

 いえ、メロスの話は置いておくとして、私は話を聞き終え、先輩と話せてよかったと、そう思いました。

 まあ、それをありのままいうのは癪なので


「先輩に生まれて初めて感心しましたよ。反面教師の資格しか持っていないと思っていたのに」

「反面教師の資格ってなんだ!? そんなもん持ってねえし、俺はいつでもよき教師となっていただろ」


 先輩の軽口を軽く聞き流し、私は屋根の上から降りて、師匠を探すことにしました。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る