木の章 君が秘し隠す夢想世界 🌲

散歩

 ある夜のこと、暑さのため中々寝付けなかった私は、軽く夜の散歩をすることにしました。

 布団から出て着替え、道場の外へ。

 隣では、能天気に先輩が寝ていましたが、気付く気配は全くありません。

 本当に隙が多すぎますね。

 さて、外に出たはいいものの外は外で、盆地特有の嫌な暑さが感じられます。

 どこへ行きましょうか?

 離れの方には師匠がいますし、かといって、このまま道場内にいたのでは大した散歩にもなりません。

 そう思い、私は道場から出ることにしました。


 相変わらず、田圃たんぼだらけで民家はまばら。

 最初ここに来たときは、そのあまりの田舎ぶりに驚いたものでした。

 けれども、今となっては慣れたもの。

 住めば都とまではいきませんが、ここでの生活に不満を持つことは、もうありません。

 いや、先輩の存在がありましたか。

 しかし、あの人に関しては、何を言っても仕方ないでしょうし。

 師範がいたころは、真面目に稽古をしていましたが、今の先輩に真面目ほど似合わない言葉はないでしょう。

 正直、先輩に同情していなくもないのですが、だからと言って、師範がいなくなった途端に態度を変えるのは、いくらなんでも子供過ぎです。

 さみしいならさみしいと言えばいいのに、ただただ師範への恨み言を口にするだけになって……

 しかし師匠は師匠で、そんな先輩を見捨てることもなく、何度も説得しています。

 さすがに師匠ともなると、先輩のような矮小わいしょうな存在など、そのおおらかな心で包み込んでしまうということでしょうか。

 それとも、師範が何も言わずに出て行ってしまった。

 その事実を、先輩に黙っていたことに対し、負い目のようなものを感じているのかもしれません。

 いや、さらに言うならそれとは別に、先輩を説得する師匠には、妙な必死さが感じられます。

 なんだか、かつての自分への苛立ち……ですか。

 そういう類の感情が、読み取れることもあります。

 私はそのときのこと、師範が出て行ったときのことを思い出していました。


            ◆


 午前6時30分、私は起床しました。

 稽古はいつも7時30分から始まり、その後朝食。

 それまでには、洗面や着替えを済ませないといけません。

 私が布団をたたみ、それを持ち上げようとしたとき。


「兄貴! お~い、兄貴ー!!」


 庭の方から、先輩の声が聞こえてきました。

 あの性格にしては意外なことに、先輩は常に私の30分前、午前6時に正確に起床しています。

 それは真面目だったころに限らず、今の不真面目状態でも起きる時間だけは早い人なのです。

 先刻から言っているように、このころの先輩は至極真面目な人でした。

 ですから、今のように私との仲が険悪なわけでもありません。

 私が毒舌を言う相手は、気にくわない人と初対面の人だけですから。

 まあ、それはほとんどの人間に当てはまりますが。


 というわけで、今の私なら


「朝からやかましいですよ、先輩。鶏でさえ、もう少し気を遣うというのに。先輩の頭の悪さは、鳥以下ということですね」


 とでも言うのでしょうが、このときは何の面白味もない普通のセリフを言いました。


「どうしたんですか、先輩?」

「ああ、尚草しょうそう。おはよう」

「おはようございます」


 こんな風に挨拶あいさつを交わすなんてことも、今では考えられません。

 私からも、先輩からも言うことはありませんからね。

 続けて、先輩は腕を組み、思案顔でたずねてきました。


「なあ、尚草。兄貴を知らないか?」

「師範ですか? さあ……離れの方にいらっしゃるんでは?」

「う~ん。そうなのかなあ。いや、お前はいつも寝てるから知らないと思うんだけど、兄貴は6時からの30分間、この屋根の上に寝っ転がって、日向ぼっこしてるんだよ。今日みたいな天気のいい日にはな」


 その事実は、確かに私の耳には新鮮な話でした。


「それで、俺はいつもその隣で一緒に寝てるんだ」


 うれしそうに言う先輩。

 仲が良すぎて気持ち悪い、と私は思いましたが、そんなことはおくびにも出さず、先輩のマネをして腕を組んでみました。


「そうですね。じゃあ、今日はたまたま違ったのでは?」

「でもな、こんな天気の日に兄貴がここにいなかったことなんて、あってないようなもん、いや、ないようなもんなんだよ」


 口癖というよりは、1日1回このセリフを言うことを自分に強いているような、いや、誰かに強いられているような、耳にたこができるほど聞いたお決まりのセリフ。

 実は、私はこのセリフを1度言ってみたいと、ひそかに思っていました。

 そんなことはここでは置いておくとして、先輩はその後、腕組みを解き、私に質問してきました。


「お前が起きてきてるってことは、今は6時30分くらいか?」

「ええ。そうです」

「ん~。じゃあ、どっちにしろ今日の日向ぼっこはなしか。はあ……」


 がっくりと肩を落とす先輩。

 先輩はよく、私の師匠への依存が強いと言いますが、先輩の師範への依存は、明らかにそれ以上です。


「まあ、時間はまだあるし、離れの方に行ってみるか。じゃあ、ありがとな、尚草。お前も早く準備しとけよ」


 そう言って、離れの方へと走っていく先輩。

 まだ師範に会うことをあきらめていなかったようです。

 どうせ稽古のときには会えるというのに。

 私は肩をすくめ、再び布団を持ち上げ、それを片付けました。

 さて、それでは顔を洗いに井戸へでも行きますか。

 と、思っていると……


「ちょっと待てよ、師匠! それはどういうことだよ!?」


 またしても、先輩の大声に遮られました。

 その声音から何か尋常でないものを感じ取り、私は急いで、離れの方へ行きました。

 そこにいたのは、怒りで肩をふるわせている先輩と平然とした顔で立っている師匠でした。

 師範の姿はどこにもありません。

 先輩は師匠に飛びかからんばかりに、怒りの感情をあらわにしていました。


「兄貴が……兄貴が道場を出て行った!? 意味分かんねえよ! なんで兄貴が!?」

「落ち着け、龍水。龍炎は……」

「落ち着いていられるか!! 俺は何も聞いてないんだぞ。昨日まで普通に一緒にいたのに……俺は!! 俺のことなんか、どうでもよかったっていうのか!!?」

「そんなわけないだろ。龍炎がお前のことをどうでもいいなんて、そんなこと思っているはずがない」

「じゃあ、なんで何も言わずに出て行ったんだよ!?」

「それは……」

「もういい!!」


 先輩は師匠に背を向け、そのまま離れを出て行こうとします。

 私は先輩の剣幕に押され、何も言えませんでした。


「待て、龍水!! どこに行く気だ!?」

「決まってんだろ。兄貴を探しに行くんだよ」


 それから、先輩は何度も道場から出ていこうとしました。

 当時、11歳だったわけですから、1人旅などさせられるわけもなく、師匠と私は何度も脱走する先輩を引き戻しました。

 そして、しばらくして脱走をあきらめたかと思うと、今度は稽古をさぼるようになりました。

 天気のいい日には、決まって屋根の上で日向ぼっこをしています。隣に誰がいるわけでもないのに。

 6年経った今でも、それは変わっていません。

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