6.待ちぼうけをくらいまして。


 その日以来、エリアスの店通いはぱったりと途絶えた。


 何か前触れはあっただろうか。思い返してみたが、考えれば考えるほどそれらしきものは見つからない。いつものようによく食べ、いつものようにマイペースで、いつものようにちょっぴり気持ち悪い。最後の夜も、彼はそんな調子だった。


 いなくなってみれば、元の日常に戻るのはあっという間だった。はじめは気にしていた常連たちも、そのうちエリアスの名を出さなくなった。エリアス狙いと思われたご婦人方も、いつの間にか店に姿を見せなくなった。


 フィアナは変わらず、来てくれる客人たちの間を元気に駆け巡り、時折なじみの客の前に立ち止まって楽しく話し、笑った。


 けれども、ふとした瞬間――そう。常連たちがなんとなく、ここにいない誰かのために残しているかのように空いたカウンターの左端の席を見たとき。


 フィアナの心は、一抹のものたりなさを覚えるのだった。





「ありがとうございましたー!」


 最後のお客を見送り、フィアナは扉の横で元気に頭を下げた。すっかり酔って気持ちよくなった二人連れの客たちは、ひらひらと手を振りながら夜の町へと消えていく。完全に見えなくなったとき、フィアナは鼻をかすめた香りにあっと息を呑んだ。


(春のにおいだ)


 ほんのりと香る、春の訪れを告げる花のにおい。今日は日中あたたかかったから、どこかで蕾がほころびたのだろう。肌にあたる夜風の冷たさあって、ひと月ほど前に比べれば少しも気にならない。


 もう少し暖かくなってくれば、一晩そとで過ごしたとしても風邪をひく心配もないだろう。そんな夜であったなら、わざわざ『彼』を拾って家にあげてやることもなかったかもしれない。


 なんとなくそんなことを思って、その『彼』が誰であったかに思い当たり、動きを止めた。


〝はいはーい。つらいのはわかりますけどー。ここ外。こんなところで寝ていたら、寒くて凍えちゃうか、誰かに身ぐるみひっぺがされちゃいますよー?〟


〝……わたしは、わたしはっ〟


〝あー、もう、だめだコレ。おにいさーん? ちょっと失礼しますよー。支えますから、立ってくださいね。せーの!〟


 店の壁の、ちょうどエリアスが行き倒れていたあたりを見つめ、フィアナはぼんやりとあの日のことを思い出す。


 そうだった。あの夜はまだ冬の余韻が色濃くのこって、よくもこんな寒空の下で酔い潰れていられるものだと呆れたものだ。


(あれからもう、そんなに経ったんだ)


 懐かしいような――冷静に考えれば、別にそこまで懐かしくもないような、相反する感情が胸の内を満たし、フィアナはむつかしい顔をした。


 エリアスが姿を見せなくなったことで、フィアナの日常は平穏を取り戻した。冗談とも本気ともつかない突っ込みだらけの発言にいちいち反応してやる必要もなくなったし、面白がって冷かしてくるほかの客をあしらう手間もなくなった。


 これは喜ばしいことだ。仕事の効率もあがって、せいせいするくらいだ。


 だというのに。


(エリアスさん、どうして来なくなったんだろう)


 考えても仕方のないことを、ときどきこうして考えてしまう。


 忙しくなったのかもしれない。体調を崩したのかもしれない。店の味に飽きたのかもしれない。ほかにお気に入りの店ができたのかもしれない。


 あるいは、フィオナにかまうのに飽きたのかもしれない。


 空に浮かぶ月を見上げて、フィアナはほうと息を吐いた。


 マルスの言う通りだ。エリアスがどんなひとで、どんな考えのもと店に通っていたのか、本当のところはこれっぽっちも分かりようがないのだ。


 フィアナに目を付けたのは気まぐれで、からかって面白がるために店に通って、それらに飽きたから店に通うのもやめた。そういう可能性だって、十分あり得る。


(…………本当にそうだとしたら、ものすっっっごく腹立たしいな)


 テヘっと舌を出すエリアスの顔が自然に浮かび、フィアナは看板を片付ける手にぎりぎりと力を込めた。いつか機会があったら殴ってやろう。


 そんな機会、二度と来ないかもしれないが。


 そこに思い至った途端、ちくりと胸が痛んだ。


 エリアスは一国の宰相で、自分は街の酒場の娘。普通に考えれば、関わるはずのないふたりだ。エリアスがふたたび店に通うことでもない限り、この先出会うことすらないだろう。


 なぜ胸が痛むのか。胸を締めるこの気持ちはなんだろうか。そこからは敢えて目を逸らしたまま、フィアナは八つ当たりのように小石を蹴る。


 天使だ女神だなんだ、適当なことを言って。散々マイペースにひとのことを振り回しておいて。


「……最後はお別れもなしにさよならなんて。おにーさん、ちょっと勝手すぎるんじゃないですか」




 答えのない月に、そう、ひとり呟いた時だった。




 通りの角から、馬車がものすごい勢いで曲がり、小径に飛び込んできた。思わずぎょっとしたフィアナがその場に固まるなか、馬車は店の前に止まる。


 御者が開けてやる間もなく扉が跳ね開けられ、中から泡食った顔でエリアスが転がり出てきた。


「あ、ああああああ!! フィアナさん!!!!?」


「エリアスさん!?」


 ぱああと顔を輝かせるエリアスと、仰天するフィオナ。だが、店の戸に掛けられた札が「閉店」になっているのを見とめると、エリアスはその場に崩れ落ちた。


「あ、あああぁぁぁあ!! 閉、店!!!! あと一歩、及びませんでしたぁぁぁぁああ!!!!」


「ちょ、こら、エリアスさん! いま、夜!! 夜だから! シャラップ!!」


 夜の町に響き渡る慟哭に、フィアナは驚きも忘れてエリアスを叱り付けたのだった。

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