58.美麗が隣にいないとだめなんだ


階段を駆け降りていると、下に母さんがいた。

転げ落ちる勢いで階段を降りたせいで足音も大きかったからか、驚いた顔をしている。

買い物帰りのようで手にはスーパーの袋とケーキの箱を持っている。


「響、どこへ———」


そう言いかけて、俺の目を見た母さんはフッっと表情を崩し、そのまま笑顔で送り出してくれた。


玄関を出て駆け出す。

辺りはすでに薄暗くなってきている。


右?左?分からない。


ただ兎に角、我武者羅に走った。


走って

走って

走って


景色が後ろへと流れる。


肺がもう限界だと、身体から息を大きく吐き出して咳き込み、そのまま足がもつれて転んだ。ずっと全速力だったからか震える足を、まだ走れるだろと殴りつける。


いいから走れ

どこへ?

分からない


分からないけど、俺には今、行かなければいけない場所がある。

今いかなければ、絶対に後悔する事になる。

だから、足を前に出せッ!


立ち上がり、また走り出す。




『‥青羽君、ありがとう』


憶えていないはずの光景が、頭の中でフラッシュバックのように浮かびあがった。

校舎裏の風景。



『‥いいよ、出掛けるの。本当に頑張ったみたいだから』


俺は、何のために頑張った?

誰のために頑張った?



『‥私といて、楽しい?』


嬉しかった。

そう、嬉しかったんだ。



『‥っ‥‥っ‥‥もっと‥‥言って‥』


俺は何を伝えたかった?

俺の中では‥‥世界で一番‥‥



『青羽君の事が‥‥‥好き‥‥です』


俺は‥‥俺はっ‥‥‥




霞がかっていた俺の記憶の中の女の子の顔が、夢で見た女の子の顔が、少しづつ見えてくる。



『あのね‥‥青羽君に、お弁当‥作ってきた』

『‥今は、これが精一杯』

『響君、格好いいです。大好き』

『私は‥私が響君の彼女だって胸を張って言える私になりたい』

『‥オシャレしてみた私とデートがプレゼント‥‥なんちゃって‥‥』




もう、どれくらい走っただろうか。

1時間?2時間?

流れる汗が地面を濡らす。


「っ‥‥はぁ、はぁ‥‥はぁ」


気が付いたら自然公園のような場所にいた。

ただ俺には、ここだという確信があった。


「はぁ、はぁ、この‥‥丘の、上だ」


倒れそうな身体を気合いで捩じ伏せて、足を踏み出す。



『‥響君。もし私を見失う事があっても、また私をちゃんと見つけてね』



丘を走り登り、星が散りばめられた白い雪原に一人佇む女の子の姿が目に入った。




「美麗っ!!!」




力の限りに、相沢‥‥いや、美麗の名前を呼ぶと美麗が振り向いた。


その時、俺の中で、夢の中で泣いていた女の子と、目の前の‥‥美麗が、一つに重なった。


まるで呪いのように霞がかっていた頭の中の霧が全て晴れた。



「ひ‥‥びき‥‥くん‥?」



美麗は‥‥泣いていた。

大好きな女の子が、泣いていた。

世界で一番可愛い女の子が、泣いていた。



泣かせてしまったのは‥‥俺だ。



自分が情けなくて涙が滲んだ。


俺は優子さんと約束した。

美麗を大切にするって。


俺は美麗と約束した。

見失ったりしないって。見失ってもすぐに見つけるって。


何にも‥‥守れてないじゃないかッ‥‥!



「美麗‥‥ごめん‥‥ごめんっ、俺、俺ぇ‥‥美麗を、見失って‥‥ごめん‥‥約束したのに」


美麗の前まで駆け寄ってそう言うと、美麗は涙を浮かべていた目を大きく見開いた。


「‥ぇ‥響君‥‥もしかして‥」


「記憶、戻った。‥‥本当に‥っ‥‥ごめん、ごめんな、美麗‥‥忘れて‥‥なんて‥っ‥そんな事言わせて‥‥ごめん‥」


美麗は、口をギュッと結び何かが決壊したかのように涙を流した。


「‥‥ひび‥ぎ‥‥っ‥ぐんっ‥‥」


俺は涙を流す美麗を腕の中に包み込んだ。


美麗の匂いがする。

昨日美麗から抱きしめられたけど、今感じる美麗の匂いは何だか酷く懐かしく感じる。

もっと美麗を感じたくて腕に力が入ってしまい、少し苦しそうに漏れ出た声に慌てて腕の力を緩めた。


「‥本当は‥‥っ‥‥忘れてほしくなんて‥‥無かった」


美麗が俺のシャツの胸のあたりを掴む。


「でもっ‥‥避けられて、目が合っても辛そうな顔をされて‥‥響君には、そんな顔してほしくなくてっ‥‥」


胸にかかる息遣いは温かいのに、その言葉は胸を締めつけた。俺の独りよがりで、美麗を傷つけていたんだ。


「ごめんな‥‥その時は、記憶のない今の俺だと近くにいるだけで美麗を傷つけると思って‥‥それで避けてた」


「‥そう‥‥だったんだ‥‥」


「でも俺、やっぱりそれでも美麗の事が好きで、諦めたくなくて、明日告白するつもりだったんだ。美麗に」


「‥‥ぇ?」


「記憶が無くても、俺が好きになるのは‥‥やっぱり美麗だった」


シャツを掴んだ手に力が入ったのが分かった。


「あのさ‥‥美麗」


一度、腕を解いて美麗を正面から見つめる。


目に映るのは白く揺れる花々を背後に、涙の跡が残る美麗の顔で。

その美麗の顔を見て俺の心臓は大きく跳ねた。


今、こんな事を考えるのは不謹慎かもしれないけど、美麗の泣き顔がとても綺麗だったから。


「これ‥‥本当は美麗の誕生日に渡すつもりだったんだけど」


無意識に掴んで持ってきていたネックレスの入った包みを手渡す。


「綺麗にラッピングされてたんだけど‥‥転んで少し破けちゃって‥‥でも、中は大丈夫だと思うから、開けてみてくれないか」


美麗は包みをゆっくりと開いて、長方形のケースに入ったネックレスを手に取る。


「‥綺麗」


ハートの窪みで2つ並んだ青と緑が輝いて、笑顔を見せてくれた美麗に愛しさが込み上げる。


「そのネックレスの宝石、美麗と俺の誕生石でさ。ずっと一緒にいようって意味があって‥‥俺、美麗が隣にいないとだめなんだ!美麗が傍にいてくれないと‥‥だめなんだよ。‥‥会えないと、話せないと、‥‥夢に見るくらいに。それで‥」


一度深呼吸をして、改めて美麗の目を見る。


「今日、俺、18歳になったんだ。結婚できる年齢‥‥だから、指輪じゃないから締まらないかもしれないけど———」


もう一度大きく息を吸い込んだ。




「———俺と、結婚を前提に付き合って下さい」




美麗は、ぽたぽたと涙を流していた。

最初は驚いた表情で、それでも少しづつそれは嬉しそうな表情に変わって


「はいっ」


と、初めて恋人になった時と同じように笑顔で応えてくれた。


「‥響君。これ、つけて?」


差し出されたネックレスを受け取って、美麗の首に手を回してネックレスをつける。

美麗の首元で輝くネックレスは、思った通りに、思った以上に、美麗に似合っていた。


「よく、似合ってる。可愛いよ」


美麗はネックレスのトップにあるハートに触れて嬉しそうに笑う。


「‥ありがとう。‥‥私も、隣にいるのは響君がいい。傍にいるのは‥‥響君がいい」


その笑顔に、言葉に、溢れる気持ちが我慢出来なくて、また美麗を抱きしめた。


鼻を擽る美麗の匂いが、腕から伝わる美麗の温もりが、胸から感じる美麗の鼓動が、美麗の全てがただ愛おしかった。


「‥響君。誕生日おめでとう。ごめんね、プレゼント用意してなかった」


「美麗が俺の腕の中にいる。他に何もいらない。美麗がいれば‥‥それだけでいい」


「‥もう、‥‥離さないでね」


もう二度と見失わないように、離さないように強く美麗を抱きしめた。


「もう離さない。絶対に離さない。辛い思いさせて‥‥ごめんな」


美麗に辛い思いをさせてしまった。それが本当に情けなくて、自分が許せなくて、また視界が滲んだ。






◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆






「美麗、本当に‥‥ごめんな」


「‥響君、もう謝らなくていいよ」


私を抱きしめたまま、ずっと謝り続ける響君にそう言っても、見上げると響君は落ち込んだ表情で泣いていて‥‥


ねえ、響君。

私は、響君の笑顔が見たい。



「‥響君、次謝ったら‥‥」


「‥‥え?‥謝ったら?」


「‥口を塞ぐ」


「それ‥‥って‥‥」


響君は涙でくしゃくしゃになった顔に、少しだけ笑みを浮かべてくれた。


「‥‥‥美麗、ごめ———」


私は響君が言い終わる前に、響君の首に腕を回して、少し背伸びをしてキスをする。

触れた唇は目からこぼれた雫が伝って、涙の味がした。


「美麗、ごめ———」


腕を回したまま鼻と鼻がくっつきそうな距離で、熱っぽい視線を絡ませながら響君の言葉を塞ぐ。

響君の瞳に映る自分の顔は、やっぱりブスだったけど、響君にはどう見えていますか?

可愛いく‥‥見えていますか?


「美麗、ごま」


また、言わせる前にキスをした。

‥‥‥‥あれ?


「‥今、ごまって言った?」


至近距離で見つめ合う響君は笑っていた。

私の大好きな、響君の優しい笑顔。


「ああ、美麗のお手つきだから俺から——」


「んっ」


響君にキスをされた。


最初に口を塞ぐと言った時のように、次は響君は私を何度も可愛いと言ってくれて、それを私は唇で塞ぐ。


そこからは、何を言ってもキスをして、キスをされて、もう訳がわからないくらいにキスをした。


何回も、何回も、何回も。


唇の感覚が無くなるくらいに、溶け合うように、



今までの時間を埋めるように。


視界の端で薄雪草が優しく揺れた。




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