47.別離


早苗さんから響君の目が覚めたという連絡を受けて、私はすぐに神社から病院へと向かって駆ける。


身体が軽い。

良かった。本当に良かった。

嬉しくて、嬉しくて、涙が溢れる。


途中でお母さんから電話がきて、響君の目が覚めたので病院に向かっている事を伝えた。




病院へと辿り着くと、入り口が閉まっていた。


「‥はぁ‥はぁ‥はぁ‥そう‥‥だよね」


立ち止まると、さっきまで忘れていた痛みを訴えるように足がガクガクと震える。


「痛っ‥‥ぅぅ‥」


歩く度に走る足の痛みにふらつきながら、何とか電信柱に寄りかかってこの後の事を考える。


待合室の開放が9時で、お見舞いに行けるのは10時からなのをすっかり忘れていた。


今の時間は7時で、あと3時間ある。

どこかで時間をつぶそうか‥‥そう考えたけど、自分の姿を見て思い直す。

コートはまだ濡れているけど、一応大丈夫。だけど、コートの下は泥だらけで、髪だって雨が張り付いて邪魔だった髪を無造作に括っていたゴムを外してボサボサになっている。靴下は真っ赤かもしれないけど足首までは血が滲んでないから見えないと思う。だけど‥


こんな姿を響君に見せたら心配をかけてしまうかもしれない。‥‥一回家に帰ってシャワーを浴びて着替えてこようか。

濡れているままなので衣服が体温を奪って、足だけではなく身体も震えている。


だけど、目が覚めた響君が今病院にいる。

その事を考えると、病院から離れる事なんてできなかった。




病院の前で2時間待って、入り口が開放されたところで、早苗さんにメッセージを送っておいた。


相沢美麗:10時になるまで待合室で待ってます。


待合室で待っている間、気を抜くと寝不足と足の痛みで気を失いそうになるので、楽しくなる事を考える事にした。


響君、ずっと寝てたからお腹空いてるよね?

一目会って安心できたら家に帰ってお弁当を‥‥って、入院中だからダメだ。


頭を横に振る。


それじゃあ、少し恥ずかしいけど、守ってくれてありがとうって頭をギュッと胸に抱きしめてみようかな。これは禁じ手になっていたんだけど‥‥



私が好きな体勢で2人でいる時のこと。


背中に感じる響君の心臓の鼓動が早くなっているのが嬉しくて

『‥響君、ドキドキしてる』

そんな事を言ってみた。

『美麗だって‥‥』

『‥聞こえる?』

『いや、実は自分の心臓の音が酷すぎて全然聞こえない』

そう言って笑う響君の方に私は身体の向きを変えて、膝立ちで響君の顔を胸に当てて抱きしめた。

『‥私もドキドキしてるんだよ』

響君は微動だにしなくて、あれ?私の鼓動聞こえないかな?って、疑問に思って身体を離してみると、

『美麗‥‥次これをやったら、俺はどうなるか分からない』

何かを葛藤しているような表情で真っ赤な顔をして響君はそう言った。



思い出して顔が綻ぶ。

今日はしてもいいよね?‥‥って響君、頭怪我してるんだから、これもダメだった。

それに、今泥だらけだし‥‥


「‥うーん」


響君に何をしてあげられるかと頭を悩ませていると、10時前くらいになっていて、早苗さんがやってきた。

私の姿を見て驚いている。


「美麗ちゃん、その格好‥‥どうしたの?」


「‥ちょっと、お参りしてました。あの、それで響君は‥?」


私がそう言うと、早苗さんは暗い表情になって


「響は———」



そうして聞いた響君の事に、私は声を失った。


系統的な解離性健忘。

簡単に言えば記憶喪失。

頭を打つ直前に何かの事、誰かの事を強く想っていたから、頭を強く打った拍子にそれが抜け落ちてしまった。


つまりは何で階段から落ちたのか覚えてなくて、


私の事も憶えていない。



何も言えずにいた私に、早苗さんは問いかける。


「それでも、響に会いたい?」






病室のドアの前で深呼吸を繰り返す。

響君は私の事を憶えていない。

そんな響君にどんな顔をして会えばいいのか分からない。


でも、


会わないという選択肢なんてない。


一度自分の頬をペシっと叩いて、意を決してノックをすると、


「どうぞー」


という声が聞こえた。響君の声。

私の大好きな人の声。

私はもう一度深呼吸をしてドアを開いた。




響君はベッドから上半身を起こしていて、私を見る。そこには、『美麗』と口角をあげて微笑む優しい顔は無かった。


無表情。あまり見た事がない表情。


それはきっと、自分に向けられる事なんてないと思っていた、知らない他人に向ける表情。



何て声をかければいいのかと、服の裾をギュッと掴んで言い淀んでいると、


「えっと、怪我は無かったのか?」


響君から声を掛けてくれた。


「‥うん。守ってもらったから」


「そっか。それなら良かった」


「‥‥‥」


「‥‥‥」


話したい事はたくさんあったはずなのに、喉に詰まった言葉は出てこない。

私が会いたいと言ったのに、このままでは響君を困らせてしまう。


何でもいいから、何か‥‥

と考えていると、また響君から口を開いてくれた。



「‥‥あの‥さ、ごめん。頭を打って微妙に記憶が飛んでるらしくてさ。憶えてなくて悪いんだが、俺の‥‥知り合い?」



私と響君との関係に関する質問。

私は響君の恋人。響君の恋人は私。

記憶が無いならこの質問は仕方がない。


だけど、そう理解してても、大好きな人からあなたは誰かと聞かれるのは、悲しかった。


それでも、私は響君の彼女でありたい。




「‥私は‥‥‥私は‥響君の、彼女———」



私が彼女だと、そう言った瞬間、響君が一瞬見せた落胆の表情に‥‥


心が凍りついた。


そう‥‥‥私は響君と過ごす日々の中で、自惚れていたんだ。

自分の容姿の事なんて、自分が一番理解していたはずなのに。


記憶にないという事は初対面みたいなもので、今響君の目の前にいるのは面識のない、

可愛くもないブスな女の子。


そんな子に急に彼女だって言われても、嫌だよね。


私は、世界中の人から指をさされてブスだと笑われたっていい。貶されたっていい。

響君が可愛いと言ってくれるなら、それだけでいい。


本当に、そう思っている。


だけど、


その響君に


記憶が無かったとしても


他の誰でもなく、響君に


ブスと言われたら




私は、耐えられない。




「———なんて‥‥冗談です」


凍った心にヒビが入ってゆく。

深く底の見えない闇の中に沈んでいくような感覚を手を強く握って耐えて、震える声を必死に絞り出した。


「私みたいな子に、彼氏なんて‥‥いるわけ‥ないじゃ‥ないですか」


言葉とは裏腹に、頭に浮かぶのは響君との幸せな恋人として過ごした日々で。


「私は、ただのクラスメイト‥‥です」


その頭に浮かぶ響君の笑顔が、心のヒビが広がる度に少しずつ、色を失ってゆく。




「そっ‥‥か。クラスメイト。名前は母さんから聞いたんだけど、苗字を聞いてもいい?」


「‥相沢です」


「相沢‥‥か。相沢は俺と、教室とかで話した事とかあったりするのか?」


「‥はい、‥あります」


響君との距離がどんどんと離れて、他人になってゆく。


これ以上、ここにいると泣いてしまう。


響君だって、急にこんなブスが泣き出したら、

嫌だよね。

困るよね。


‥‥私の顔なんて‥‥見たく、ないよね。



「‥そろそろ帰ります。庇ってくれて、本当にありがとうございました」


そう言って、頭を深く下げた。




「‥さようなら、青羽君」






◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆






その女の子を見た時、この子を悲しませてはいけない。安心させてあげたい。何か喋らないと、という変な焦燥感に襲われた。


喋ってみるとその女の子は、鈴を転がすような綺麗な声の持ち主で、それは懐かしいような、それでいて慣れ親しんだような、ずっと聞いていたくなる声で。


ただ、彼女だと名乗られた時、少しだけ落胆もした。俺が彼女を作ってたとか冗談かと思ったが、何故かその女の子の言う事は全て受け入れてしまう自分がいたから信じられた。


ただ、その女の子は泥だらけで、髪の毛だってボサボサで、目も泣き腫らしたように赤く、目の下には隈もある。顔色だって悪い。

何でこんな子を俺は彼女に?と疑問に思った。


彼女というのは冗談で、ただのクラスメイトと言われて納得もした。



なのに




「‥さようなら、青羽君」




そう言って、背を向けて病室を出ていくクラスメイトの小さな後ろ姿を見て




‥‥あ‥‥れ?




手の甲にポタりポタりと、水滴が落ちてきた。



「涙‥‥?」



あの子の事は思い出せない。


なのに‥‥まるであの子の事を

知っていると、

憶えていると、

心と身体が必死に叫ぶかのように、張り裂けるように胸が苦しくなって‥‥



涙が止まらなかった。




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