45.祈願
夜の病院は物音一つしなくて、窓から月を見ていると空が白んで朝陽が顔を出し始めた。
響君の病室から私の病室へ、どうやって戻ったのかあんまり覚えていない。
ただ、病室に戻る前に早苗さんから、精密検査の結果は出ていないけど頭の傷は頭皮を切っただけで、それと恐らく背中を打撲しているけど命に関わるような怪我はしていないとお医者さんから言われたと聞いて、枯れたと思っていた私の目に涙があふれた。
愛ちゃんと静香ちゃんが来てくれたけど、私の顔を見ると口を噤んで、ただ手を握って面会時間が終わるまでずっと傍にいてくれた。
その日、響君が目を開く事は無かった。
私は一睡もできずに朝から響君の病室へと向かった。響君はまだ目を覚まさない。
途中でお母さんが来て、退院の手続きをやってくれていた。担任の先生も来て、今学期の授業は後1週間くらいあったけど、休学扱いにしてくれると聞いた。
昼過ぎに早苗さんがお医者さんに呼ばれて、病室を出て響君と2人きりになった。
頭に包帯が巻かれて、目を閉じたままで、ベッドに寝かされている響君。
まるで時が止まってしまっているように見えて、不安感が押し寄せる。
「‥響君」
声をかけても返事は返ってこない。
響君の手を握る。
温かい手。何度手を繋いでも慣れる事なんてなくて、私はいつもドキドキしていた。
手を繋ぐたびに、頭を撫でてくれるたびに、私はどんどん、終わりなんてないと思う程に響君を好きになってゆく。
「‥響君。‥‥頭を撫でて?」
やっぱり返事は返ってこなくて、私はそっと響君の手を自分の頭に乗せた。
「‥っ‥‥‥声が‥っ‥聞きたいよ‥‥」
私は、響君に名前を呼んでもらうのが好き。
最後に『い』で終わるから、響君の口元が笑ったような形になって、その時の表情がとても優しくて胸の奥が温かくなる。
『美麗。大丈夫だったか?どこか怪我したりしなかったか?』
いつもの優しい笑顔でそう言ってくれる気がして響君を見ても、響君は目を覚ましていなくて、
私の縋る声は、病室に静かに響いて、何が起こるでもなく消えた。
面会時間が終わる頃、病室に入ってきた看護婦さんが
「大丈夫?」
と声をかけてくれた。
そういえば昨日から何も口にしていない。眠ってもいないから酷い顔をしているのかもしれない。
「‥はい。‥‥あの、こういう時って‥‥何かできる事って‥‥ないですか?」
このまま目を覚まさないのではないか‥‥そんな事を考えてしまう。
そんな嫌な考えを払拭したくて、響君のために今の私に何かできる事はないか。
そう思って、私は看護婦さんに問いかけた。
お母さんと同い年くらいで、優しそうな顔をした人だったから聞いてみたのかもしれない。
「え?そうねぇ。昔はお百度参りをしたなんて話を聞いた事もあったけど‥‥うん、お守りを買ってくるなんてどう?」
「‥そうですね。ありがとうございます」
お百度参り。その言葉は知識としては知っていた。
神様に祈願する目的で、同じ神社仏閣に百度参拝すること。
何度も繰り返しお参りする事によって、心願が成就すると言われている。
どうしても叶えたい願いを神様に届けるための儀式。
「‥響君。また明日も来るね」
響君にそう声をかけて、私は病室を出た。
病院の前で面会時間が終わる頃に来ると言っていたお母さんが待っていてくれて、一緒に帰る。
家に着いて、出掛ける準備をしながらベッドに横になると、日付が変わる頃に私の部屋のドアが静かに開いて、寝ているように見える私に
「美麗、おやすみ」
と、声をかけるお父さんとお母さんの声が聞こえた。
2人の寝室はリビングの奥にあって、玄関のドアを開けても気付かれる事は無い。
お父さんとお母さんに心配をかけないように、音を立てないように気をつけながら家を出て神社へと向かった。
皆んなで初詣に訪れた神社は、大晦日が嘘だったかのように静まりかえっていて、人一人見当たらずに、曇り空の隙間から覗く月明かりに照らされた階段を登る私の足音と、風で木々の葉が揺れる音だけが鳴り響く。
何だか別世界のように感じられた。
階段を登り終えて、鳥居に着くと雨が降り始めた。雨に濡れて顔に張り付く髪をゴムで括る。
「‥ここからでいいんだよね」
鳥居の前にある石のところの脇に100枚の小銭を置いて、靴を脱いで裸足になった。
もうすぐ春だけど、雨夜の石畳は氷のように冷たい。
「‥よし」
やろう。
本殿を見る。ここから本殿までの距離は50メートルも無いくらい。
小銭を1枚拾い、本殿へ向けて駆け出した。
「‥じゅうに‥」
寒さで指先と足先の感覚が無くなってきた。
身体も服が雨を吸って寒かったけど、走っているからか少しずつ暖かくなってきたように感じる。
「‥‥にじゅう‥なな‥」
響君、明日‥‥というか、もう今日だね。
私の誕生日にお出掛けする事は出来そうにないけど、退院したらお花見に行こうよ。
お弁当作るね。
沢渡君や愛ちゃん、静香ちゃんも誘ったらきっと楽しいけど、最初は‥‥2人で行きたいな。
「‥‥さんじゅう‥‥ろく‥」
そうだ。
お魚が好きな響君が聞いた事はあるけど、食べた事は無いから食べてみたいって言ってた鰤大根、作れるようになったんだよ。
響君は私の作ったものは何でも美味しいって言っちゃうから‥‥それはとっても嬉しいんだけど、やっぱり本当に美味しい物を食べてほしいから、お母さんに味を見てもらって、この間お墨付きをもらったばかりなんだ。
ちゃんと美味しく作るから、喜んでくれると嬉しいな。
「‥‥よん‥じゅう‥は‥‥痛っ」
石が足の裏の皮膚を突き破った。
神社の石畳に血が滲んでいる。
雨が降っていて良かった。きっと雨が洗い流してくれる。
足がジクジクと痛む。
だけど、響君はもっと痛かったはずだ。
歩けない程じゃない。後52回。大丈夫。頑張れる。
「‥‥なな‥‥じゅ‥う‥‥よん‥」
足が思うように動かない。
何度も転んで、服も泥だらけになってしまった。
私は、物語の主人公のように、本当は魔法が使えて響君を治してあげられるわけではない。
神様はいると信じていて、こうする事で響君が治るんだと信じているわけでもない。
ただ‥‥守られるだけで祈る事しかできない私は、とにかく何かをしたかった。
免罪符のようなものを求めていたのかもしれない。
「‥‥きゅ‥う‥‥じゅ‥‥う‥いち」
でも、もし神様が本当にいるならお願いします。
響君の目が覚めて、
後遺症なんかもなくて、
ただ2人で笑え合える、
そんな未来を下さい。
「‥‥ひゃ‥‥‥‥く‥‥‥」
〜♪〜♪〜♪〜♪〜♪
‥‥‥‥‥‥スマートフォンの着信の音がする。
あれ?
ハッっとして目を開けると、そこには鳥居があって、鳥居の間から日が登り始めているのが見える。
ぼんやりと、ちゃんと百度のお参りはできた事は覚えている。
早く家に帰らないと、心配をかけてしまう。
そう思って立ち上がろうとしたけど
「痛いっ!」
転んでしまった。酷く足が痛む。
視線の先には鳴り続けるスマートフォン。
あ‥‥電話、出ないと。
画面を見ると『青羽早苗』と表示されていた。
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