乱反射
「イッセーくん! 周りを見すぎないで!」
泣きそうな顔で二階の応援席に目を向ける。向井さんとつばさがいる。それだけじゃない。競技の終わった一〇〇メートルに出場した選手たちも集まってきていた。
「前だけ見て! 走って、跳べ!」
向井さん、アドバイスになってないです。ファウルして、決勝に出れるかどうかもアヤシイのに。なんで、どうして、四本目の話をしているんですか。
歩頼が応援席の手すりから、身を乗り出すように言う。
「一成、お前、瞬介の記録聞いてビビってんじゃねーだろーなぁ!? 一年生の後輩見てるぞ」
「そうだよ! 一本目からだんだん調子悪くしてさ。私と向井さんと三人で、イッセーは何を毎日練習してたのさ!?」
つばさはビシッと人差し指を向けた。めずらしく荒ぶっていらっしゃる。
「イッセーくん、四本目は心配させないでよね」
向井さんもつばさにならって、人差し指でビシッ。
「イッセー、オレらだってグラウンドのスタート位置から、幅跳びやってるところ、ずっとずーっと見てたんだからね!」
大翔がぷんすかしながら笑っている。
四本目、あるだろうか。跳びたい。早く跳ばなければ。
思っていたより、ひとりぼっちじゃないのかもしれない。種目が違っても見ていてくれる人はずっといた。
「俺、次は誰よりも跳びますから!」
向う側にだって今なら行ける気がする。
「なかなか言うねぇ〜。いっせーはそうでなくっちゃ!」
背後から肩を組まれる。利久だ。
隣に居たい、は生ぬるい。利久は負けたくない相手だよ。
「これからオレの三本目。よぉ〜く見とけよ?」
ついでに大翔も見ててよ、と言い残し、ふらりと助走位置に行った。
「久しぶりにリクのこと見たけど、イッセーより跳べんの? 春ヶ丘でイッセーより強くなったの?」
真っ黒な瞳で大翔が俺をのぞく。俺はゆっくりとうなづいて言った。
「利久はずっと強いよ。でもそれは三回目までのはなし」
応援席の下で、利久の三回目の試技を見る。
スタートの白い旗の合図を見て、顔をこちらに向けてほほ笑んだ。目が細められて、言葉では言わないけど「見てて」って言われた気がした。
「いきまぁす!」
利久の声が、今日一番高らかにひびく。
伸ばされた右手ゆっくり下りて、いつも通り、軽やかな助走が始まる。足音もどこぞの上級生のように力強いわけじゃない。長い手足で、あくまでも風に乗るように。踏切板をけって、空を高く飛ぶため。空を舞うために。
カンッ、白い踏切板を右足でとらえらば、もう空の中にいるんだ。
「……飛んだ」
春ヶ丘の赤が空に咲く。
雨降り空の下、赤いかさがパッと開くように。利久の跳躍はきれいで、あざやかだ。
「イッセー、リクってあんなに飛べるようになったんだ?」
大翔の問いかけに、静かにコクリとうなづく。
遠くにいて、高くにいる。誰よりもきれいで、ほれぼれする。だから、あの赤い背中に手を伸ばしてしまう。
「カッコイイだろ? 俺の目標でアコガレ」
利久みたいに目を細めて笑ってみる。
追いつきたい背中。手を伸ばして、きっと今日もこれからも、ずっと走るんだ。
「大翔、小学生のころ、雨が降ると通学路に、でっかい水たまりができたじゃん。ガラガラの駐車場のところ。利久はすぐに向う側まで飛びこえてたけどさ、俺は」
「イッセーも向う側まですぐ跳んだよ。おれ、見てたから」
応援席から大翔がほほ笑む。
「ねぇ、向う側の景色はどんなだった?」
ザッ
足のうらで俺はコンクリートを感じる。長ぐつのゴムがぬれた地面をこするように、俺は向う側にいたんだ。
ジャンプの着地で曲げたひざを、ゆっくりと伸ばす。背中にランドセルの重さを感じるけれど、あっち側にいた時より、ずっと軽く感じたんだ。
雨上がりは町がきらきらしていた。雲の間から細く光が差して、コンクリートの地面も、グラウンドの土も、雨に洗われたもの全てにスポットライトを当てているみたいだった。いつも見ていたのは大きな水たまりだけ。でも、その外にはずっとキレイなことであふれてるんだ、って見えてなかったんだ。
「大翔、水たまりの向こうって、広いんよ」
「どうゆこと?」
ポカンとしている大翔に、俺はイタズラっぽく言った。
「もっと、誰よりも跳べるってこと!」
「訳わかんねよぉ」
大翔は顔をクシャクシャにして、隣にいた歩頼にブツブツ言ってるけど、他に言いようがないんだ。
俺はくるりと振り返り、長身のライバルに問うのだ。
「ねぇ、利久。水たまりの向う側、お前はどこまで跳べる?」
ニヤリと笑う。
「どこまでも。いっせーより遠く」
「そう言うと思った」
ああ、負けてなんていられない。俺だって向う側、もっともっと遠くまで行けるんだ。
「四回目、いっせーのこと、一番期待してるから。オレ以外に負けないでよ」
「え?」
「今、三回目の最後の人が跳び終わった。だけど、一回目のいっせーの記録、そのまま残ってるんよ」
と、いうことはつまり……
「もう一度がまたできるね」
キラリ
競技場のトラックが雨上がりのようにかがやいた。
トラックの赤色がハッキリした。砂場の向こう、応援席の向う側に見える空は青々としている。太陽はジリジリと肌を焼くが、俺の小麦色の肌には鳥肌が立った。
ゆらゆらゆれる、かげろうの中に誰を見るんだろう?
雨上がりのランドセル姿か。
ライトブルーの薄い背中か。
えんじ色に身を包む、この砂まみれのライバルか。
「もう一度。今日は俺がいちばんだから」
いつの間にか大きくなった利久の背中に、右手のひらを置く。利久は覚えているかな。
「タッチ。俺の勝ち」
四回目の試技をしよう。決勝だ。加賀一成がよばれているんだ。
教室から真っ直ぐグラウンドに出るまで、オニごっこ、水たまりの向う側に行けるかの競走。初めてこの
「負けねよ。俺は向う側を知っている」
目を閉じて、空気を肺に送る。身体中に夏の暑い空気を回ったことを感じて、目を開け、右手を空に向けて挙げる。
「いきます!」
スパイクのピンがタータンの地面をゆっくりと押す。ゴムの感触が足裏から感じる。助走のスピードをあげると、はずむように前に進む。足の回転も、歩幅も速く、広くなる。
あの場所まであと少し。踏切板まであと少し。
俺の前を小さな利久は走ってないし、臙脂色のユニフォームもいないよ。俺は俺として、向う側に向かって跳ぶんだ。
スピードにのって、大きく踏み切れ、いっせーの!!
カンッ! いい音がした。
空中に投げ出された身体は、そのままどこにだって行けそうだ。手のひらに感じる夏の空気も、宙ぶらりんの足の感覚も、応援席の向こうに見えた空の青さも。視界全てがキラリとかがやいていた。空を飛んだ一瞬は永遠だった。
ザッ
砂が大きくまき散る。身体中に砂を浴びた。
もう俺は水たまりの中に着地をしていない。俺はもっともっと遠く、水たまりの向う側のもっと遠くまで行ける。
バッと勢いよく白旗が上がり、高らかに記録が読み上げられる。
記録の更新。利久とは数センチの差。ああ! これだからやめられないんだ!!
泥だらけのままで、軽く身体を動かして順番を待つ利久にかけ寄る。
「利久! 俺以外に負けてんじゃねーぞ! 誰よりも遠くまで跳べ。俺が次、利久の記録こえるから」
「ああ、そうだな。そろっと一番になってくる。いっせー、オレ待ってるから」
目を細めて「行ってくる」と、利久は助走レーンにゆっくりと向かった。あと少しでその背中をこえられる。俺は追いかけてばかりかもしれない。それでも、同じ場所から踏み切って、次に着く足は俺の方が遠くにあればいい。
負けんな。俺以外に。俺も利久に負けないから。
上から声が降ってきて、見上げると大翔が手を振っていた。のんびりと手すりに身体をあずけて幅跳びのピットを眺めている。
「イッセー、お前が跳んだ時さ、リクが言ってたんよ」
「何を?」
「さすがオレのいっせーだ、って」
クスクスと俺と大翔は顔を見合わせて笑った。
「リクがね、イッセーはオレの一番の友だちで、ライバルで、相棒で、アコガレなんだってよ。びっくりするほどベタぼれ」
ヤレヤレと首を左右に大翔は振る。二人してニヤニヤは止まらない。
「追っかけてるのはいつも俺の方だと思ってた。余計にがんばらないといけない理由ができたわ」
「なんだよもー。ソウシソウアイか! お互いに大好きかよ!! お前ら二人で表彰台のればいいよ……」
「もちろんその予定」
フッと鼻で笑って、助走を初めた利久を見る。
ずっと俺ばかりが見てるんだと思ってた。違ってた。
なぁ、利久。まだお前の隣に俺が立ってもいいんだな?
だんだんとスピードが上がって、歩幅が伸びて足が長く見える。相変わらず鼻歌がきこえそうなほど軽やかに走る。誰よりものびのびと、自由に利久は走る。一人で走る幅跳びの助走も、オニごっこで逃げるあの日みたいに、心から楽しそうに走る。ああ、いいなぁ! だからまた走りたい、跳びたい、隣に立ちたい、こえたい、って俺は思うんだ。
踏切板で「いっせーのーで!」
雨上がり。声変わりも終わらない、いつかの声を聞いた。
大きく飛んで向う側。
泥だらけの長ぐつも、キズだらけのランドセルも、小さな身体も全部全部空を飛んだ。水たまりだけが、飛びこえた時の俺らの高さを知っている。
ザッ
乱反射するコンクリートも、土の匂いも、雨に洗われた町もここには無いけど。
バッと上がるのは白旗。
「期待させてくれるじゃん、相棒」
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