雨粒
二本目の
胸元のナンバーカードの番号、学校名、名前で呼ばれる。
「……路風中、
路風中。結局自分も路風中の名前を背負っている。強豪校のはしくれの平部員だ。
幅跳びは、華やかなトラック競技の横でひっそりと行われる。それは高跳び、棒高跳び、砲丸投げをふくめたフィールド競技全部に言えることだ、と俺は思ってる。
二階の応援席を見るも、路風のジャージ姿は二人だ。同じ幅跳びをしている向井先輩と同級生のつばさ。女子の競技は朝一番に終わってしまったから来てくれている。
もしも。もしも自分がもっと強かったら? 全中レベルの選手だったら? 部長みたいに上位大会に行けるくらいの力があったら、フィールド種目でもたくさんの応援があるだろうか。期待をしてもらえるだろうか。
「いきます」
深く一度深呼吸。空気と一緒にモヤモヤした感情を外に出す。
思い出せ。さっき、一回目の試技で跳んだ利久の後ろ姿。ゆったり、鼻歌でも歌うように軽やかに赤色ユニフォームが空を飛んでいただろう。誰よりも高くて、遠くまで跳んでいた。
今日は手を伸ばして届くだろうか。利久の背中はライトブルーではないし、あの夏よりも身長差は広がるばかり。どんどん遠く、どれだけ走っても近付かないなんて、そんな悲しいことがあってたまるか。
コツコツと助走を進め、利久の背中を追いかける。真っ直ぐ前だけを見て走る。
だんだんと加速して、踏切板まで、いち、にの、さん。
カッと甲高い音はいつもより小さい。しまった、と思いながら身体は空に放り投げられた後だった。必死にもがいて転がるように着地。砂が舞う。
「四メートル……」
審判の声を聞いて、やっぱりな、とへこむ。今の踏み切りはつま先しか踏切板に乗っていなかった。
半身についた砂を払いながら待機場所に向かって歩き出す。
全体の八番以内に名前が残れば、勝負は三回勝負で終わらない。ベストエイトは六本勝負。せめてその舞台でも戦いたい。直ぐに終わらせたくないんだ。次、また頑張ろう。
砂で汚れた紺地の路風中のユニフォーム。ライトブルーの『みちかぜ』のユニフォームよりずっとかっこいい。利久とはおそろいじゃなくなったけど、堂々と戦える理由にはなったんだよ。
「イッセーくん! 踏み切り見てたよー!!」
応援席からブンブンと手を振るのは向井先輩。
「ありがとーございまーす」
今日こそは、って思っていたのに。もう一度、なんていつでもできるわけじゃないってわかっていたのに。情けなくて鼻の奥がツンとする。
「え、いっせー、先輩めちゃ美人じゃん」
気付いたら後ろにいた利久は、相変わらずのんきにボケッとしたことを言っている。
向井さんは聞こえたのか、ショートカットの髪を左右に揺らしながら少し顔を赤らめた。
「こら! 先輩はわざわざ見に来てくれたんだぞ」
ごめんね、と耳としっぽが下がる勢いで利久がしゅんとした。気持ちはわかる。俺も向井さんは世界一美人な先輩だと思ってる。
「いっせーの学校って、やっぱり幅跳びに男子部員いないの?」
おそるおそる利久は聞いてくるけど、そんなに人気ある競技じゃないだろ。そもそも幅跳びなんて。
「男子は俺以外いない。後輩も来なかった。女子は先輩と同級生が一人ずつだな」
向井さんの後ろからひょっこり同級生のつばさが顔をのぞかせた。二階から手を振る二人に、胸の前でひかえめに手を振り返す。利久はぺこりとお辞儀をしてそっか、と寂しそうに笑った。
「リクー!」
春ヶ丘のジャージを着た、確か同級生の子とたぶん先輩が利久を手招いてる。
「先輩たち呼んでるからオレ行くね。いっせー、次もがんばろ」
軽やかな足取りで、利久は奥のベンチの方に消えていった。もう彼の隣に俺の居場所はないのかもしれない。相棒、と言えるような関係だったのは小学生だった二年前までなのだろうか。
「イッセーくん! 足なんだけどこのままでいいよ。つま先しか踏切板に乗らなかったのは、加速しきれてなかったんだと思う。いつもと違かった気がする!」
「向井さん! 助走距離ちぢめなくてもOKですか」
「次が赤なら考えよう」
「ありがとうございます! 次も見ててください」
今度は気持ちを切りかえなきゃ。踏切板から足がはみ出る判定、ファウルの赤旗は嫌だ。審判にバツと言われるとちょっと落ち込む。白旗が上がって記録を読まれたい。三回目の試技は四回目につながりますように。
「イッセーくん、がんばれ!」
うん、がんばろう。向井さんもつばさも応援してくれている。見ててくれる人がいる。それだけで独りぼっちじゃない、って思える。
それでも、利久みたいに仲間が欲しい、なんて願わなかったことも無いわけじゃない。『みちかぜ』にいた時みたいに、あーでもない、こーでもないって言いながら競争できる相手が、やっぱり欲しいんだよなぁ。離れたところで仲間同士話している利久を見る。
俺だって。一緒に練習できる仲間はいるんだ。幅跳びなら向井さんもつばさもいる。リレーのメンバーだっている。男子短距離のメンバーに混じって、一〇〇メートルの練習だってしている。四×一〇〇メートルリレー、通称は
「オンユアマーク」で横に並んで、指は地面に。白線にピッタリと付ける。
「セット」で腰を上げて、静かに止まる。グラウンドの声に耳をすます。
パンッ、と手のひらを叩く音。上半身はそのままに、加速しながら起き上がらせる。スパイクのピンが勢いよく地面をけって、えぐって、タイムの差が出てくる。
「俺の勝ち」と、
深い赤。
「いきまーす」
伸びやかな声は、競技場のざわめきの中にうもれる。
二回目の利久の試技。
臙脂色の春ヶ丘のユニフォームから伸びる手足は、ひょろりと長い。コツコツ、と右足のつま先でタータンの地面をノックする。真上にのぼった太陽がジリジリと痛いほどの暑さで、真っ白な利久の肌はほのかに赤く色付いている。
歩くような助走から加速して、スピードに乗る。踏切板まで、いち、にの、さん!
高い。ずっと誰よりも高い場所にいた。
赤い背中も、白い手足も、揺れる黒髪も。利久だけはきっと、空を飛んで遠く向こう側に行ってしまうんだ。
まって、まだ行かないで。俺をここに置いていかないで。
手を伸ばしても、待機場所のベンチから砂場の利久まで手は届かない。こんなに暑いはずの競技場で、どうして指先は冷えているのだろうか。くちびるをギュッと結び、軽く手のひらを開いて、閉じるをくり返す。
「……利久」
舌の根っこから水分が乾いているみたいで、出る声はか細い。目線の先にいる利久と視線がぶつかる。ニヤリと何度も見た笑みだ。目を細めて「もう一度」のジェスチャーをしている。
「……もう一度」
きっと俺の声は、離れた場所にいる利久には聞こえないだろう。
あと一度。もう一度だけ。
走幅跳の試技は三回だ。予選は出場者全員で、三回の跳躍。決勝は予選で結果の良かった上位八名のみが、三回の跳躍を。決勝に行く選手は合計で六回の跳躍となる。
もう一度だけ。予選で跳べるのはあと一度、このまま一回目の記録が残ったままかどうかは怪しい。やっぱり、三度目の試技でもっと上を目指さないと。
いつの間にか利久の周りには、春ヶ丘の仲間たちが囲んでいた。先輩から髪をかきなでられ、同級生と肩を組んでいる。
バシャン
俺は水たまりの中にいる。飛びこえた向こう側に、利久は相変わらずいて、俺のいるはずの場所、着地点はそこにはないのかもしれない。
離れていても一番の友だちでいてくれ、なんてワガママは言えない。俺が隣に並ぶ場所くらいは無いのかな。もう「みちかぜ」にいた日のように、俺は利久の一番の親友で、ライバルで、相棒にはなれないのかな。
届かない背中に、記録に、声をかけられない俺自身が嫌いになりそうだ。胸の奥がぐるぐると、降り始めの雨空の黒い雲が、心の中にムクムクとわいてくる。
「隣にくらい、居させてくれよ」
三回目の試技がまた始まる。隣のトラック種目は男子の一〇〇メートルになった。バックストレート、一五〇〇メートルのスタート位置正面にテントを構える路風中の部員たちがわらわら前方に出てくる。
「みちかぜー!」
「「「がんばー!!」」」
声がよく聞こえる。小学生の時初めて来てから、何度目になるだろうか。
息を吸って吐いて。大きく伸びをして、足ぶみをする。歓声と手拍子がだんだんと遠くなっていく感覚に集中する。陸上競技は個人の戦いだ。仲間に助けられることも、ましてや仲間を助けることも出来ない。勝つも負けるも、全部全部、自分のせい。もしかしたらラストチャンス。これが最後の「もう一度」なら? もしも、これで利久との勝負が着いてしまったら?
負けていられないんだ。あの背中に届くまでは。飛んだ先に居場所は無いかもしれない。利久はもう、俺をライバルだなんて思ってないかもしれない。
「いっせーがんば!」
風に乗って一人の声が届く。手拍子と声援と足音と。たくさんの音に飲み込まれたって。何でか聞こえるのはいつも利久の声。
右手を挙げてするどく「いきます」と叫ぶ。
真っ直ぐに走って跳べ。
誰もこの高みに来るんじゃねぇ。何も知らないくせに、競う仲間がいるくせに。
転がるように着地して砂を浴びる。前を向け、まだだ。
「…バツ」
後ろを振り向くと赤旗が振られていた。
ぐっとくちびるをかみしめる。先ほどの「いっせーがんば!」の声が何度も何度も頭の中にリピート。わんわんと鳴る。がんばれ、って。利久の声がずっとくり返される。
砂場から出て、歓声が上がるトラックに目を向ける。
自分と同じ紺色のユニフォーム、路風中が一番にゴールする瞬間だった。
ワッと声が上がり、競技場全体がどよめく。フィニッシュタイムの横には「GR」の文字だ。
「ただいま一着でゴールしたのは
ヒュっと息が止まる。呼吸が一瞬浅くなる。競技場の酸素が一気に減った気がした。
バシャン
砂場に着いた手のひらは、ザラザラとしていた。水たまりの中でおしりから転んで、手のひらに着いたアスファルトの砂利を思い出した。水たまりの中で転んだあの日は、まだ雨が上がっていなかった。ザアザアと身体をぬらして、冷たい雨粒が全身をさすようだったんだっけ。
うでや足に付いた砂をはらって、視線をトラックに向ける。実況の声も、歓声も全部全部遠いところにあるみたいだ。
真木瞬介。天才、なんだと思う。同じ二年生の短距離選手だ。一緒に練習してても、中学に入学してから一度だって勝てたことがない。一〇〇メートルも、二〇〇メートルも、この学年ではぶっちぎりだった。それがとうとうGR。ゲームレコード、大会記録だ。過去の誰よりも速く走るようになってしまった。
なぁ、何でだ? どうしてだ? 俺と瞬介、俺と利久。何が俺と違うんだよ。お前らは、今、どこを見て、何を目指して走っているんだ? 俺だって早く「向こう側」に行きたいんだよ。なんで、なんで!
割れんばかりの瞬介への拍手が、どしゃ降りの雨音に聞こえる。俺の目の前を走る人たちは、雨上がりの「向う側」にいて、俺のいる「こちら側」は雨降りの中なのかもしれない。
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