約束

 スパイクのピンが踏切板ふみきりばんをとらえる、あの感覚が好きだ。

 カンッ、と高い音をひびかせて、足の裏が地面をけり上げるあの瞬間が心地良い。

 手のひらで空をつかむ。着地までのゼロコンマ数秒で空をも走る。競技場の赤いタータン、踏切板、ううん、もっと広くさっきまで自分が足を付けていた場所から。


 パッと走って跳ぶ。どこまでも遠く、高く。

 空をける時間、俺は世界の誰よりも自由だ。

 どこまでだって俺は跳べる。一番遠く、いつまでも足は地面に着かなければいいんだ。


 重力には勝てない。

 いつかのように足も身体も落ちていく。

 背中から砂を浴び、転がるように着地する。


 バシャン


 着地場所は砂場でも、空中から地面に戻される時、水たまりに足が着いたあの感覚がある。


 まだ、雨上がりのあの大きな水たまりは飛びこえていないんだ。そんな気分になる。


「いっせー、早くお前もこっち来いよ」


 黒いランドセルを背負ったアイツに言われた気がした。小学校を卒業して、私立中学に上がった、俺の一番の友だちでライバル。利久りくは手足が長くて、学校で一番身長が高かった。足も早くて、俺を陸上の世界に引っ張りこんで、走幅跳を教えてくれた。


「いっせー、早くそんな水たまりこえてこっち来いよ。お前ならすぐ来れるだろ?」


 生意気な利久の声が聞こえた気がした。


 もっと遠くに。追いつきたい背中があるから、俺は跳ぶ。自分の少し前を走っている「誰か」は少なからず誰にでもいて、きっとそんな背中をこえることが出来たなら、ヒーローにでも、主人公にでも、何にだってなれるんじゃないかな。


 いっせーのーで。


 次はもっと遠くに。利久がいるところよりも遠く、あの日に広がっていた水たまりよりもずっと遠くに。


 まだ。足を着く場所はここじゃない。


 五メートル、、、


 競技役員が記録を読み上げる。

 ほら、まだだった。前回の大会、昨日の練習、自己ベストを更新しても、満足出来ない。

 天才になりたい。追いつきたい。追いこしたい。

 胸の奥がぐるぐるして、ちょっとだけ息が苦しい。気持ち悪い汗のかきかたをしているみたいで、背中にツーっと冷たいものが伝う。


「いっせー?」


 バッと勢いよく振り返る。

 深い赤色に白のラインが入ったユニフォーム。春ヶ丘はるがおか中の学校名。ちょっとだけツリ目が印象的なのは、


「利久」


「調子はどう? 一番の予感?」


 あいかわらずネコのように飄々ひょうひょうとつかめないヤツだ。気付いたらふらっと隣にいる。


「一番になるんだよ。利久の記録こえてさ、誰も届かないとこまで跳ぶの」


「ふぅん。さすが路風みちかぜ中だこと」


 利久は目を細めて、またあとで、ってまたふらりと姿を消した。


 さすが路風中、か。俺にも当てはまればいいのに。

 路風は公立中学校だけど、陸上は代々強豪校だったりする。自慢じまんげに姉ちゃんが言ってた。確かにほとんど毎年、高跳びで全中出場だったり、県大会、北信越なら名前を見る。

 俺も今年はリレーで大きな大会に出るかもだけど。でも、結局自分だけの結果では無い。利久に幅跳びで勝たなきゃ、俺も「さすが路風中」にはなれない。陸上で有名な、私立の春ヶ丘に行った利久はずっと前を進んでいる。


「いきまーす」


 鼻から抜けるような声だった。

 深い赤色のユニフォームから白く長い手が伸びる。真っ直ぐに伸びた右手が降りて、後ろに引いた左のつま先を地面に二回、トントンとノックする。ゆっくりと歩くような速さからだんだんと助走のスピードが上がる。長い手足を人より曲げずに走るクセは治らないらしい。速い割にゆったりと見える助走。まるで鼻歌に合わせて走っているんじゃないだろうか。踊るように軽やかに。踏切板まで、いち、にの、さん。


 高く。軽く。飛んで、舞うように。

 若松わかまつ利久の跳躍はきれいだ。

 助走の背中、跳躍の背中。ながめるのは春ヶ丘の赤色の背中ばかり。いつかのように手を伸ばしても、つかむのは競技場の、夏の空気だけ。


 審判しんぱんの声は聞こえない。白旗が下がって、利久が砂場の向こうでガッツポーズをする。記録係が砂場の横の黒板の数字を書きかえた。やっぱり利久もベストエイトにはのこるよな。きっと、今日もお前は一番上に名前があるんだろう? なぁ、いつからそんなに遠くまで飛んでっちゃったんだよ?


 二年前は同じライトブルーのユニフォームで、胸には「みちかぜ」って書いてあった。「みちかぜかけっこクラブ」で一緒に走っていたじゃんか。

 小学校の休み時間も毎日かけ回って遊んでさ、放課後だって先生の「さようなら」をスタートの合図に、体育館にランドセル放り投げてグラウンドで日が暮れるまで遊んでただろ。ねぇ、いつからお前の背中に手が届かなくなっちゃったんだよ。階段をかけ降りて、グラウンドに向かう。いつから二番手で着くようになったんだっけ?


「今日もオレがいっちばーん!」


 あと一歩なんだ。あと一歩分で横に並んで、あと二歩あれば利久に勝てるんだ。負けてばっかだな、って気付いたのはいつだっけ。くちびるをギュッとかまなくなったのは、いつだっけ?


「オニごっこしよっせ」


「俺がオニな」


 よーいドン、オンユアマーク、いっせーの。

 何の合図で走り出して、俺は利久の背中を追いかけているんだろう。汗だくで、おでこに前髪が張り付いて、半そでのTシャツも背中にピッタリくっ付いてる。空気は上手く吸えないし、足も重たくなってきた。頭がぼうっとして、顔全体がのぼせたみたいに熱い。でも、目の前にいるから。追いつかなきゃ、手を伸ばさなきゃ。届くから!


「ターッチ!!」


 背中に手のひらが届く。あ、っと利久の声が聞こえて、目の前から消えた。気付くと俺も地面と友だちだった。利久が足をもつれさせて転んで、俺はそれにつまづいたらしい。


「イッてぇ! 利久、大丈夫かよぉ」


「なんとかー。いっせーまで転ぶ必要ないだろーよ」


 のそのそと起き上がって、俺に手をかそうと利久は右手を出した。俺は顔をしかめてて、差し出された手を払った。


「何が俺まで転ぶ必要ない、だ。目の前で転ばれたら普通よけきれないだろーがや」


「えへ、ごめん」


 全く反省した様子を見せず、利久は顔に付いた泥をはらってる。毎日外を走り回ってるはずなのに、色白の肌は所々茶色くなっているが、そんなことはどうでもいいとばかりに、利久は目を細めて言うのだ。


「いっせー、もう一度やろ」


 いいよ。やろう。もう一度を何度でも繰り返そう。

 ヘトヘトになるまで。みんなが帰ろう、って言うまで。日が暮れるまで。一緒に走る、その日が最期になるまで。


「もう一度をまたやろう」


 手を伸ばしているのは、放課後のオレンジ色の背中か。

 追いつきたいのは、ライトブルーの後ろ姿か。

 追い越したいのは、砂場の上の深い赤色か。


 二年前の夏もこの競技場で言ってたな。もう一度、って。ライトブルーのユニフォームに身を包んで、泥だらけの俺と利久。小学生選手権は今日みたいに暑い真昼だった。


「なぁ、いっせー。オレね、ここの、駈瀬辺かせべの競技場来るの初めてなんだ」


 そう言って、いつもの競技場の何倍も広い会場を不安がって、心臓がバクハツしそうだって言っていた。なのに、自分の順番が回ってくるとどうでも良くなるみたい。

『みちかぜかけっこクラブ』の先生が利久りくさん次だよ、と呼ぶ。

 真昼のバッグストレートは、かげがない。さんさんと光が注ぐその中で、りんと背筋を伸ばして踏切板をじっと見て立つアイツを俺もじっと見つめる。


「いきまぁす!!」


 最近声変わりしたせいで、大きい声は上ずっている。手を挙げるだけでもいいのに、利久はいつも叫ぶ。それでも、利久の掛け声で空気が変わる。最後の一本に込める思いはきっと誰よりも。

 新潟のタータンを踏みしめる。勢いよく加速する。

 大丈夫。一本目で自己ベスト出てたじゃんか。最後は思いっきり跳べばいい。好きなように飛べ。


「先生、この大会が県で戦うの最後だよね?」


「そうねぇ。だから君たち二人、一成いっせいさんと利久さんで一位、二位取って来なね」


 サブグラウンドの会話がよみがえる。利久は「楽しく跳ぶ」なんて目指していない。先生が言った一番が欲しいんだ。相棒の俺に負けるのは嫌。相棒以外に負けるのはもっと嫌。ああ馬鹿だ。利久も俺も、何のために跳んでいるかなんてわかりきっていたじゃないか。


 こちらに向かって近くなる相棒に祈る。知らないヤツに一番取らせたままにするかよ。だから。ねぇ、負けるな。勝てよ。


「……いけ」


 カンッ、と甲高い音がして細長い体が空を舞う。砂が大きく舞上がって、測定係の中学生がおどろいて身体にかかった砂をはらった。


「四メートル三十四」


 この記録は全体の二位だ。それでもがんばった。だけど。


「いっせー」


 かけ寄る相棒にはよくやった、がんばった。どうして俺はありきたりな言葉しかかけられないんだろう。興ふんと後悔で泣きそうなお前には何て声をかけるのが正解なんだろう。

 トントンと肩を叩いて、相棒の顔を真正面でとらえる。


「利久のカタキ、俺取ってくるよ」


 大きくうなづいて、利久は十センチ下の俺と目を合わせる。


「いっせー!! おまえがッ!! 一番にならないと許さないんだからな!!」


 利久は泥だらけの腕で、力強く俺を抱きしめて送り出した。


「……中学生になってもさ、オレ、いっせーと勝負できると思う?」


 はらはらと涙を流しながら相棒は俺を見守ってくれている。日向をまっすぐ走って、小さな手足で空をかける。追いつきたい。こえたい。もっと遠く。太陽に身を焦がすように、勝ちたい気持ちが心をジリジリしていく。


 四メートル──


 読み上げられる記録。キュッとこぶしをにぎって、待機場所にもどる。キラリと光った相棒の瞳をのぞき込む。くちびるは二人してギュッとかんだままだけど。


「勝負はまだ終わらない! 秋の大会、二人で強くなって、一番、二番取るんだ。学校は別になるけど、中学生、高校生、それからも、きっとまだまだ」


 くやしいがある。勝ちたいがある。負けたくない。まだ跳びたい。走り続けたい。だから。


「もう一度をまたやろう!」

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