第17話 十字架

 アリーは暗闇の中にいた。何も見えず、音も聞こえない無の世界だった。

 「私は、どうなったの?栄気を吸われて死んだ?」アリーがそう心の中で唱えていると、突然老人の声が聞こえてきた。

 「いや、君は死んでいない。だが、魂が体から離れかかっているようだ。」

 「誰?」アリーは聞き覚えのある声だったが、はっきりと誰かは分からなかった。

 「そうであったな。」そういうと、暗闇の中で老人の姿が見えてきた。そこにいたのは、よれよれの服を着た白髪頭の老人が現れた。

 「あなたは、確かトムじいさん?」アリーは、薄れかかった意識の中のかすかな記憶の中から特定した。

 「本名はトーマス・ヴァンシーだ。よろしく。」トーマスはそういうと、かすかにほほ笑んだ。

 「もしかして、あの写真はあなたの仕業ですか?」

 「ほう、なぜそう思う?」トーマスは、興味深そうに聞き返した。

 「だって、どれもあなたと奥様の写真だったんですもの。そのおかげで私はバチルダの化けの皮をはがすきっかけを作れたので。」

 「なるほど、確かに写真を置いたのは私だが、私の意志ではない。」トーマスはどこか楽しげであった。

 「では、誰ですか?」

 「妻だよ。」トーマスは妻という言葉を言ったことに、少し恥ずかしさを感じてはにかんだ。

 「ヴァンシー夫人が?」トーマスは黙ってうなずいた。

 「君はあの事件の真実を知るために来たと言っていたようだね。」

 「聞いていたのですか?」

 「妻がね。」トーマスはまたしても恥ずかしそうに微笑んでいた。

 「それで妻は、守ることよりも彼女と戦うことに決めたようでな。妻は君にとても感謝しているようだ。」

 「奥様は今どうなさっているのですか?」その言葉にトーマスは、ふと何かを思い出したような顔をした。

 「そうであったな。私がここに現れた理由は君にあの日の真実を知ってもらおうと思ってね。」

 「真実ですか?」するとトーマスの顔が少し険しくなった。

 「これから君が見る光景の中にはあまりにも残酷なものも見える。それでも見る覚悟はあるかね。」アリーの返事までは少し間が開いた。

 「はい」その返事にトーマスは笑顔になった。

 「よし、それじゃあずっとこんなに暗いんじゃ病んでしまうからな。早速、始めるとしよう。」トーマスは、さらに楽しそうに生き生きとし始めた。

 「ちょっと待ってください。何をするつもりですか?」

 「何をするって三十年前の光景を見せるんだよ。」トーマスはまるで誰もが日ごろからやっていることのように言った。

 「そんなことできるのですか?」

 「私を誰だと思っている。私は一代目のカルマだぞ。」トーマスがそういった途端、辺りに星空が広がった。 

 「ヴァンシーさん?」アリーが辺りを見回していると、人通りの少ない夜の通りに一人の黒いローブを着て、フードで顔を隠している人物がアリーの横を通り過ぎた。そのフードからはわずかにブロンド髪が見えていた。アリーは月光輝く少し肌寒い夜のグレーテンヒルの住宅街で、黒いローブを身にまとった人物を追いかけた。

 黒いローブの人物は何かを気にしている様子で、時々アリーとも目が合っていた。しかし、その人物にはアリーが見えていないようで、そのまま足早にどこかへと向かっていた。

 その人物はある屋敷の前で立ち止まると、くしゃくしゃになっているメモを開いた。アリーは、その屋敷をよく見ると、間違いなくヴァンシー邸の姿がアリーの目の前にあった。すると、ローブの人物は足早に屋敷の入口へと向かっていった。

 屋敷の入口には、黒いモーニングを身にまとった、白髪の老紳士が立っていた。女性が中に入ろうとすると、老紳士はローブの人物に手のひらを向け、低い声で告げた。

「招待状はお持ちでしょうか。」そう言われるとローブの人物は、フードを外すと、

「彼の古い友人です。」と言いながら、中にいる人間をみまわした。

「そうおっしゃられましても、招待状がなければお入れすることはできません。」老紳士はきっぱりとそういうと、右手を上げて応援を呼んだ。すると、奥から二、三人の同じように、モーニングを着た若い男性が集まってきた。

 入口での騒ぎは、だんだん中にいる人々の耳にも入り始め、皆入口の方へ視線を向け始めた。もちろん、主催者のヴァンシー夫妻も事態を収めるため、入口へ向かった。到着すると老紳士が事情を説明した。

「名前は?」トーマスは少し困惑しながら言うと、老紳士も

「それが、古い友人としかおっしゃらないのです。」とさらに眉間に深いしわを作って答えた。トーマスは、頭をかきながら自分の記憶をたどった。なにせ、古い友人は全員招待していたはずであった。すると老紳士が眉間のしわを緩めながら、

「差し支えなければ、ご確認を。」と少し声を落として頼んだ。

「わかった。」トーマスは、もしも招待漏れだった場合、どう謝罪しようかと考えながら、騒ぎを起こしている元凶の元へ向かった。近づいていくと、次第に彼女のブロンドの髪が見えてきた。そして何かを説明している、透き通った高い声がトーマスの耳に突き刺さり、遠い記憶を刺激していた。そして、彼女の顔を見たとき、トーマスの刺激されていた記憶が、はっきりと頭の中で浮かび上がった。

「バチルダ」トーマスは目玉が飛び出しそうなくらい目を見開くと、吐息のようにつぶやいた。するとバチルダは、トーマスの姿を見ると安心して力が抜けたような表情とともに、トーマスへ倒れこむように寄っていった。

「トーマス。よかったわ。」そういうとトーマスに抱きつき、頬でキスをした。その光景は、ほかの招待客の目にも入っていた。もちろん、ヴァンシー夫人もしっかりと一部始終を見ていた。抱きつかれたトーマスは、気まずそうな顔をしながら、目を泳がせていた。

 「心配いらない。私の古い友人だ。」トーマスは老紳士や、ほかの若いスタッフにそういうと、スタッフたちはそれぞれの持ち場へ戻った。ほかの招待客も何事もなかったかのように振る舞ったが、皆しばしばトーマスの方へと視線を送っていた。トーマスはその視線を感じ、バチルダの両肩をつかみ、顔を近づけ声を落として尋ねた。

「何があった。」トーマスの真剣なまなざしは、バチルダの目をとらえているようだった。

「大事な話があるの。」バチルダの目は安堵の涙で、輝いて見えた。トーマスはあたりを見回し、

「とりあえず、中で話そう。」と言うと、バチルダの腕をつかみ足早にホールを抜け、自分の書斎へと続く茶色い扉へ向かった。

「とりあえず座って。」書斎に入ると、トーマスは真っ先にバチルダを座らせた。

「それで、話って何?」トーマスは立ったまま、バチルダに尋ねた。

「ヴァネッサの事よ。魂の契約が今夜で終わるそうよ。」バチルダは、まだ涙が残っていた。

「ちょっと待ってくれ。なぜ君がそれを?」トーマスは少し声を荒げて尋ねたが、バチルダは何も言わずにうつむいた。

「まさか、またブードゥーの力か。あの宗教は危険だとあれほど言っているじゃないか。」

「違う。そうじゃなくて・・・・」バチルダは、必死で弁解しようとしたが、トーマスは聞く耳を持たなかった。

「君は死への恐怖から不老不死に執着しすぎだ。昔から言っているけど、いつか身を亡ぼすことになるぞ。」その言葉にバチルダの表情が変わった。

「でもそのおかげでヴァネッサに死期が近づいていることが分かったんだからいいじゃない。」

「それが彼女の運命なら仕方がないことだ。私は最期の時まで彼女と一緒にいるつもりだよ。だから、もう用がないのなら帰ってくれるかい?」トーマスはそう言うと、書斎の扉を開けようとした。

「もしかしてあなた、知っていたのね?」バチルダの言葉にトーマスは動きを止めた。

「あなたは本当に昔から隠すのが下手なようね。」

「何の話かさっぱりだ。」トーマスは、バチルダから目をそらしながら、ドアノブに手を伸ばした。

「お願い。あなたがブードゥーのことをどれだけ嫌っているかはわかっているけども、私はあなたが悲しんでいるところを見たくないの。」バチルダはトーマスの心に訴えかけるように、優しく諭した。

「それにヴァネッサはいろいろあったけど、私にとっても大切な友達なの。まだ彼女とお別れをしたくはないわ。」トーマスは、バチルダの言葉を受け、ドアノブから手を離した。

「わかった。続けてくれ。」そう言うと、トーマスは書斎の自分の机に腰を掛けた。

「契約が切れた魂は誰が回収する?」

「悪魔?」トーマスは首をかしげながら答えた。するとバチルダは、指をさしながら目で正解を告げた。

「まさか、悪魔を殺せとか言わないよね?」バチルダは、思いっきり首を横に振った。

「もっと簡単よ。騙せばいいの。」トーマスの目が点になった。

「ごめん、簡単の意味わかって言ってる?」

「大丈夫。魂を交換して悪魔に回収されたら元に戻せばいいだけの話だから。」バチルダは、まるで孫が祖父母にハイテク機器の使い方を教えているかのようなテンションだった。

「ちょっと待ってくれよ。そんなことしたら悪魔が怒って、この屋敷内の魂を回収するとか言い出したらどうするわけ?それに魂を交換ってどういうこと?」トーマスの頭の中は、ゲーム機の配線のように絡まっていた。

「だからヴァネッサの魂を私の体に移して、私がヴァネッサの体に移るわ。」バチルダは、トーマスから目をそらしながら、声をフェードアウトさせていった。トーマスは、目を見開いてバチルダを見た。それを察したバチルダは、座っていられず椅子から立ち上がり右往左往し始めた。

「どういうこと?」

「それにもし悪魔が屋敷内の魂をもらうってなっても、私たちにはこの十字架のアクセサリーがあるからそれで平気よ。」バチルダはあえてトーマスの話を無視していた。

「そうじゃなくて、今僕にはきみが犠牲になるように聞こえたが?」トーマスはバチルダを捕まえると、両肩を逃げられないようにしっかりとつかんでいた。

「君がヴァネッサの代わりに犠牲になるつもりってこと?」バチルダの目からは涙があふれ、それを手で拭うとトーマスの手を払った。

「もう耐えられない。」バチルダの怒鳴り声に、トーマスは困惑した表情で固まった。

「あなたが私を愛してくれない世界なんて耐えられないの。」バチルダの言葉にトーマスは何も言えなかった。バチルダは飛び切りの笑顔でトーマスの顔を見た。

 「だから、最後に・・・・」すると当然書斎の扉が開いた。トーマスとバチルダが、同時に扉の方を見ると、ヴァネッサとその後ろに背の高い黒人男性と対照的に背が低い赤毛の女性が立っていた。 

「ダンテ、クリスティン。」トーマスは久しぶりに現れた古い友人の名前をつぶやいた。

 「トーマス、奴の耳を貸すな。」

 「トーマス、行くわよ。」ダンテの低い声をかき消すように、バチルダは叫んだ。するとヴァネッサとダンテはとっさに、自分の首にかけていた金色の十字架のネックレスを掲げた。

 すると、ヴァネッサとダンテの周りに白い砂ぼこりのようなものが舞い上がった。

 「何をするの?あなたを助けるのよ。」バチルダは必死で訴えた。すると、少し後ろに後ずさりをしていたクリスティンが、一歩前に出てきた。

 「何を言っているの?あなたは・・・」クリスティンが何かを言いかけると、バチルダは不気味な微笑みを三人に向けた。

 「まずい、クリスティン!目をつぶれ。」しかし、クリスティンは、ダンテの急な呼びかけに反応することが出来なかった。クリスティンは急に足から崩れるように倒れた。

 「クリスティン。しっかりしてくれ。」完全に倒れこむ寸前で、ダンテがクリスティンの体をキャッチするように抱きかかえた。

 「どういうことだバチルダ。今日寿命を迎えるのはヴァネッサのはずだろ?」トーマスは訳もわからず、自分の得た情報を再確認するしかすることがなかった。

 「ダンテ、絶対に涙を流してはいけないわ。」

 「分かっている。」ダンテは、ヴァネッサの言葉をした唇をかみしめながら答えた。するとヴァネッサは、意識がないクリスティンの額に、金色の十字のアクセサリーをぴったりとくっつけ始めた。

 「さぁ出てきなさい。邪悪な悪魔め。」すると突然クリスティンが不気味に笑い始めた。

 「あら、ひどいじゃない。人の彼氏を奪っておいて何が悪魔よ。」

 「良いから出ていきなさい。」ヴァネッサは十字架をさらに押し付けた。クリスティンは、さらに苦しそうにもがき始めた。ダンテは自分の腕の中でもがき苦しむ妻から目を背けていた。

 「さて、気を失ってからあと三十秒でお向かいが来るわね。」

 「その前にあなたを引きずり出すだけよ。」クリスティンの呼吸がさらに荒くなった。すると、少し離れたところで倒れていたバチルダが、少し動き始めた。

 「ダンテ。」

 「クリスティンか。」ダンテは、クリスティンの体をそっと床に下すと、バチルダの方へ向かった。

 「ダンテ・・・」声も姿もバチルダではあったが、ダンテはしっかりクリスティンの言葉として反応した。

 「意識が戻ったならまだ時間はあるわね。」ヴァネッサがそうつぶやくと、クリスティンは不敵に笑いだした。

 「さぁ、それはどうかしらね。」その言葉にヴァネッサは時計に視線を向けた。

 「ダンテ・・・」ダンテは、必死で涙をこらえていた。

 「心配いらない。君を見殺しにはしない。」すると、バチルダは人差し指をダンテの口元に当てた。

 「お願い、彼女を止めて。」そう言うと、バチルダの体からクリスティンの魂は消えていった。ダンテは力の抜けたバチルダから目を背けた。

 その光景を見たクリスティンは高笑いを始めたかと思うと、意識を失い全身の力が抜けた。すると、クリスティンの体はみるみると砂のように粉々になり始めた。ヴァネッサはどうにか形をとどめよと試みたが、クリスティンの体は灰となってしまった。

 「自分の奥さんが死んで泣かない亭主がどこにいるのかしら。」力が抜けて意識がなかったバチルダが急にそう言うと、ダンテはバチルダを放り投げるかのように離れた。

 「まぁいいわ。ここからショータイムよ。」バチルダはそう言うと、書斎から飛び出した。

 「まさか。」ヴァネッサはそう言うと、バチルダの後を追って書斎を出た。するとトーマスは、床に光る何かを見つけた。近づいてみると、そこにあったのは、ヴァネッサの金色の十字架のアクセサーであった。トーマスは、それを拾い上げると、急いでヴァネッサの後を追った。

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