第2話 事故物件

ペンシルベニア州にある不動産会社、T&Jグッティング不動産のオフィスはいつも通り新居を求めた人々が物件情報とにらめっこをしていた。しかし、十月という月は物件の動きが少ないわけではないが、一番動きが激しい時期の直後でだんだんと価格が上がっていき、なおかつ、一般的に良いとされる物件はすでに埋まっていることが多いためか、なかなか納得のいく物件を見つけるのが困難な時期であった。そのためか訪れる人々の顔はみな険しい顔が多く見受けられた。

 それはもちろん、物件を探す不動産会社の社員たちも同じであり、お客のニーズに合った物件を探すのが仕事とはいえ、住めればなんでもいいなんて考える人などそういないどころか、無知さ故に無理難題を言ってくる客のニーズに、より近い物件を提案するのは特にこの時期はなかなか難しかった。しかも、客のこだわりが強ければなおさらである。しかし、それでも客を納得させ契約させるかどうかは、不動産業の手腕が問われると言われればそれまでではあるが、この時期の特にこの年のペンシルべニアは、なかなか手ごわかった。

 この会社で一番のやり手営業マンのアリー・ハーバートも今担当している客に手を焼いているようであった。彼女が担当する客は、少し年配の夫婦のようだった。新しい家を買いたいということで店に訪れたようであったが、奥さんの希望が多すぎるのとそれに見合う予算が少ないという問題を抱えていた。とりあえず彼女は希望をリストアップし、夫婦をパソコンが備え付けられている接客用のカウンターに座らせた。するとどこからともなく、コーヒーのいい匂いが漂い始めた。

「よろしかったらどうぞ。」アリーの同僚のサマンサが、白いコーヒーカップを銀のトレーに乗せて現れた。夫婦の奥さんが「いただくわ。」と優しそうな笑顔でカップを手に取ると、旦那も笑顔でカップに手を伸ばしながら、「ありがとう。」と一言添えた。するとすかさずサマンサは会話を続けた。

「新居ですか?」

「ええ、うちは五人家族なんだけど、みんな家を出てしまったから二人で住むには少し広すぎるし、ペンシルベニアの方が、子供たちが帰ってくるときに何かと便利でね。」という奥さんの説明に、旦那は笑顔でうなずいているだけだった。その後もサマンサは、話題を広げている間、アリーは物件探しに追われていた。いつもだと一つ二つの話題を話している最中に五件は見つかるはずだが、今回に関してはまだ三件しか見つかっておらず、しかも、少し希望から離れている。しかし、サマンサもそれに気が付いているのか、普段より話を掘り下げていた。彼女は毎回アリーの物件探しの進行に合わせてまるで心を読んでいるかのように、話題の調整をしてくれていた。アリーが客を気にせず物件探しに集中できるのは彼女のおかげでもあった。しかし、これ以上時間をかけるのは客にも不信感を与えかねないし、話下手なサマンサもそろそろ限界ではないかと思い、無理やりおすすめの物件を見繕って印刷をかけた。サマンサはまたしてもそれを見越したかのように、話題を終え奥の事務所へ入っていった。

アリーが印刷機から数枚の物件情報が記された紙に手を伸ばすと、夫婦もコーヒーカップを同じタイミングで口へと近づけ、同じタイミングでソーサーへカップを置いた。カップがソーサーに当たる無機質な高い音が、アリーにとってはゴングのように聞こえ、緊張感が増した。

「まずはこちらの物件です。」アリーが資料を夫婦へ向きを直すと、二人は鋭い剣で刺すように、資料を覗き込んだ。

アリーはいつも通り、物件のセールスポイントを、まるで自分が住んだことがあるかのように説明した。もちろん、下見や内見案内で何度も行ったことがあるため、住んだことがある人よりもこの物件の良さを知っていると自負をしていた。しかし、二人の鋭いまなざしは変わらなかった。アリーは二人の顔を覗き込むと、ある一点の部分を注視していることが分かった。

「この家の良さは十分伝わったわ。でも・・・」奥さんの方が少し引きつった笑顔で旦那の方を見た。

「ちょっと予算オーバーだな。」旦那の方も、一生懸命申し訳なさそうな顔を作った。確かに、彼らが提示してきた予算はオーバーしているものの、そこまでこだわるほどではなかった。しかし、アリーは少しこの二人への対応のコツをつかめた。彼らのこだわりが予算であることが分かったため、次の物件の資料はすぐに決めることができた。

「それでしたら、こちらの物件はどうでしょうか。」アリーの表情も少し柔らかくなった。しかし、夫婦は相変わらず、鋭いまなざしで資料をにらみつけた。アリーはさっきの物件と同じように、セールスを始めた。この物件はアリーでさえも、あまり訪れたことがなかった。というのもこの物件がある地域は、少しばかり治安が悪かった。もちろん、そこを突かれてしまった。しかし、予算の条件をクリアしていたのは、この物件だけであった。アリーはまた崖っぷちへ追い詰められたような気分になった。ふるまいは落ち着いていたものの、背中を一筋の汗が流れ落ちるのを感じ、口の中も乾ききってぱさぱさであった。アリーはそのあとも根気よく物件の資料を見せては、セールスした。しかし、ことごとく予算の面で、なかなか良い返事がもらえずにいた。アリーは、この予算額に何か意味があるのかと少々気味の悪さを感じるほどだった。

手玉をすべて出し切ったアリーは、不動産人生で初めてお手上げ状態となってしまった。悔しさもあったが、それ以上にお客が悪いと自分の中で責任転嫁し始めていた。すると旦那の方が少し渋い顔をして、「仕方がないから最初の場所にするしかないんじゃないか?」と奥さんの方を見た。アリーは逆転のチャンスに少し胸を躍らせた。「もしよろしければ、ご都合のよろしい時に内見されますか?」アリーは旦那をアシストした。すると奥さんの方はさらに鋭い目になった。「そしたらハワイ旅行はなしとか言うんでしょ?それはいやよ。」奥さんの守りは堅かった。アリーのアシストも虚しく、ゴール手前でボール止められた気分だった。しかも理由を聞いたアリーがもし立っていたら膝から崩れ落ちると思われるほど、全身の力が抜けた。アリーは奥さんの一言に、少しオーバー目のリアクションで笑ってごまかした。

アリーの中では、この二人に物件を売ることはできないと自分に言い聞かせた。

すると、アリーは別の資料の間にもう一枚の資料を見つけた。それは、アリーが最後の一軒を選ぶタイミングで、予算だけで出した資料であった。しかし、内見どころか下見にすら行ったことのない物件であったため、セールスポイントが分からなかった。アリーは、予算はクリアしてはいるが、あえて資料を提示するのをやめた。しかし、アリーにとって奥さんは最後まで手ごわい存在であった。アリーが手に取った資料を指さしながら、「その物件はどうなのかしら?」と尋ねてきた。

「ちょっと見せてもらえますか?」旦那の方も、興味津々でさっきまでの鋭いまなざしが消えていた。アリーは仕方なくその資料を二人に見せた。

「あらここってお屋敷ね。」

「でも予算は範囲内だな。」

「お庭もあるわよ。」二人が盛り上がっているところに、アリーが入れる余地がなかった。正直嘘のセールスポイントなどいくらでも思いついた。しかし、それはアリーのプライドが許せない一線であった。とはいえ、正直に言えない自分もいた。

「ここの特徴はどんなところかしら。」この奥さんは、つくづく自分を苦しめる存在だと痛感した。

「この物件はここ最近売りに出された物件なので、まだ私も把握しきれていなくて・・・」アリーは嘘と真実を混ぜた。そんなこと不動産の世界ではありえないような嘘であった。

「そうなのねぇ。」アリーは奥さんの残念そうな顔を放っておくことができなかった。

「ちょうど明日見に行く予定だったんですよ。」アリーの仕事がまた一つ増えた瞬間だった。

「じゃあ、また改めて来ますわ。」旦那が若干面倒くさそうに言った。

「そうね。そんなに急ぐことでもなしね。」アリーは、苦手な営業スマイルで「かしこまりました。ではまた後日お待ちしておりますね。」というと、ほかの物件の資料を封筒にまとめて、夫婦に持たせようとした。すると「あ、大丈夫よ。ほかは」と奥さんが突っぱねた。アリーは初めて客に対してもう来ないでほしいと感じてしまった。

アリーは先ほどの資料に目を通しながら、事務所へ入った。

「アリーさんがうまくいかないなんて珍しいですねぇ。」入って来て早々、サマンサがいつもの愛くるしい笑顔で現れた。

「あんた、聞いてたの?」

「私じゃなくて、フィリップですよ。」サマンサは慌てて弁解した。

「また、見えないお友達?」アリーが少しあきれたように尋ねた。

「守護霊です。」サマンサは、子供に言い聞かせるような口調で、アリーに訴えた。

「じゃあそのフィリップに言っておいて。そんなことないって。」

「でも、さすがのアリーさんでもあの二人は手ごわいって言ってましたよ。特に奥さんがって。」アリーは毎回サマンサから図星のフルコースを食らっていた。しかし、今回はそんなことを考えている暇がなかった。明日は明日で忙しく、外出している暇がなかった。つまり、行くなら今日しかないのであった。だが、急に行って大家が許すのであろうか。アリーの頭の中は、ごみ屋敷のようにぐちゃぐちゃしていた。すると、奥から茶髪できれいに七三分けされた男が、メモ紙のようなものを持って現れた。

「はい、これそこの物件の大家さんの番号。」

 「ありがとうアンディ。」急な出来事に困惑するアリーの隣で、サマンサが資料を受け取った。

「アンディさんな。あと、俺の守護霊使うのやめてもらえる。」アリーはこの物件のことに関しては、事務所の中では一言も話していないのになぜ、一番奥のデスクのアンディが、電話番号を持ってきたのかわからなかった。

「だってお宅のチャッピーが暇そうにしてるから。」

「そういうお宅のフィリップはふらふらしすぎだろ。」

「は?まじかっちーん。じゃあ言わせてもらいますけど、そのうちのフィリップがふらふらしてくれてるおかげで、あんたはおっきいミスをせずに済んだんじゃなかったんでしたっけ。」

「あんたとはなんだ?俺は先輩だぞ。」

もうアリーにはついていけない会話だった。とりあえず、アリーは静かな奥の部屋へ行きアンディが持っていたメモに書かれている電話番号に電話をかけた。アリーは自分の鼓動の音で、電話の呼び出し音が聞こえないくらい緊張していた。いつもは電話に緊張などしなかったが、これまでの負のスパイラルから楽観的に考える余地がアリーにはなかった。呼び出し音が鳴り終わるたびに鼓動が強くなっていく。とうとう呼び出し音が途切れ、電話の向こうの音声が聞こえてきた。

「はい?」女の人の少し高めの声だった。アリーは丁寧に自己紹介をした。

「私、T&Jグッティングカンパニーのアリー・ハーバートと申します。」電話口お相手は少し困惑したようであった。

「突然申し訳ございませんが、そちらの物件についてお電話させていただいたのですが。」やはり、アリーは電話での言葉選びが苦手であった。

「あっ、はい、何でしょう?」電話口の相手は状況の把握ができたようで、声から堅さが消えてとても穏やかな声に変わった。その声にアリーも安心した。

「そちらの物件の内見をご希望されているのお客様がいらっしゃるのですが、お恥ずかしながらうちの社員が誰もそちらの物件へお伺いしたことがないとのことで、もしよろしければ急で申し訳ないのですが、本日お伺いしたいのですがよろしいでしょうか?」落ち着いて考えたら、自分の言っていることはだいぶ非常識であるとアリーは感じていた。

「大丈夫ですよ。」相手の思いがけない返答に逆にアリーが戸惑ってしまった。

「ただし、あなた一人でお願いするわね。私ちょっと人見知りで。」

「かしこまりました。何時ごろ伺えばよろしいでしょうか。」アリーにとっては何も問題ない要求であった。

「今からでも大丈夫ですから、現地でお待ちしておりますね。」アリーは、電話口の相手をまだ会ってもいないのに、女神のような容姿を思い浮かべていた。

「ところで、」相手の声がまた少し変わったように感じ、アリーは少し緊張を感じていた。

「あなたのご年齢は?」アリーは少し困惑しながら答えた。

 「二十四です。」

 「ありがとうございます。では、お待ちしておりますね。」

 「ありがとうございます。失礼します。」なぜ年齢を聞いてきたのかアリーは聞くことができずに電話を切ると、胸の中をかき回されたような気分で自分のデスクへ向かった。

とりあえずアリーは、外出の支度を始めた。現場で必要になるであろう道具を、大学を卒業した時に両親に買ってもらった黒い光沢のある片手タイプのカバンへ詰め込んだ。このかばんは父親が、「できるセールスマンは見た目から」という理由で買い与えられたもので、収納もかなり分けられて非常に使い勝手がよくアリー自身も気に入っていた。このかばんのおかげでここまで来られたといっても過言ではなかった。アリーは支度が終わると「部長、物件の内見に行ってまいります。お昼もそのままとるので昼休み後には戻ってきます。」と事務所のドアへ向かいながら部長へ告げた。部長も、慣れないパソコン操作でそれどころではなく、画面を見ながら「気を付けて」と一言だけ添えた。アリーは、その言葉が聞こえる前にはすでに外へ出ていた。

その様子をアンディとサマンサは少し心配そうに見ていた。

「ねぇ、伝えなくてよかったわけ?」サマンサは、焦った口調で声を消して息だけでアンディに訴えかけた。

「最近何もかもうまくいってないようだし、あの調子じゃあ伝えたところで、結果は一緒だっただろ」アンディは、落ち着いた口調で、サマンサを諭した。

「それはそうだろうけど・・・」サマンサは、ジレンマと戦っていた。すると、再び、アリーが事務所に勢いよく入ってくると、真っ先に自分のデスクへと向かった。アリーは何かを探しているようで、デスクに散乱している資料の下を懸命に覗き込んでいた。しかし、お目当てのものは見つからないようで、今度はデスクの下を覗き込んだ。サマンサは、これはアリーに伝えるべきと神様が言っているのだと信じ、アリーのデスクへ向かった。

「あった!」アリーが勢いよく顔を上げた。アリーの手には、黄色い巾着のようなものを握っていた。その巾着には見慣れない言語の文字が書かれていた。

「何ですか?それは。」サマンサは、見つけたことへの喜びをアリーに感じさせたその巾着に興味がわいた。

「なんかお守りって言って、日本にいる祖母からもらったのよ。なんでもこれを持っていれば悪いことから守ってくれるらしいのよ。」アリーはまるでほしかったおもちゃを買ってもらったように、お守りをサマンサに見せた。しかし、サマンサの顔が少し曇った。

「アリーさん、そのお守りいつごろから持ち始めていますか?」

「そうだなぁ?この前祖母と会ったときにもらったから三か月前かな?」アリーは三か月前のことを思い出し、再び無邪気な笑顔になった。その顔を見たサマンサは、それ以上何も言えなかった。

「じゃあ、行ってくるね。」先ほどよりも元気になった様子のアリーを、サマンサは黙って見送ることにした。しかし、アンディがパソコンの画面を注視しながら、

「サマンサ、アリーになんか伝えるんじゃなかったのか?」と声をかけた。アリーは立ち止まると優しいまなざしでサマンサを見つめた。見つめられたサマンサはヘビに睨まれたカエルのように、体が硬直したようであった。

「あ、いやなんでもないです。」サマンサは全力の作り笑いを披露した。

「とりあえずお昼の後に聞くわね。」自分から遠ざかろうとするアリーを、サマンサは引き留めることができなかった。

するとしびれを切らしてアンディが、デスクから立ち上がった。

「お前が言わないなら俺が言うわ。」アリーは、アンディのその一言で再び足を止めた。

「アリー、そこの物件は事故物件として、州が閉鎖している。なんでかはよくわからんが。」アンディは淡泊に伝えた。

「なにそれ?なんかのドラマ?」アリーは思わず吹き出したように笑った。しかしアンディとサマンサは、顔色を変えず、アリーを見ていた。

「待って、どういうこと?じゃあ、大家って言っていた人は何なの?」アリーは、サマンサよりも下手くそな作り笑いを披露し始めた。

「だから、サマンサはフィリップに怪しいって言われてお前を引き留めようとしたんだよ。なぁ?サマンサ。」アンディは口調を変えず、つづけた。するとアリーの顔が曇った。

「もしかして、また守護霊とか何とかで私をからかっているわけ?」その一言にサマンサの目が見開いた。そして、必死に弁解しようとしたところを制止するようにアリーが続けた。

「ごめん、そんな話に付き合っている暇ないから。後でね。」言葉は優しく聞こえていても、顔と目線からは全く違うものをサマンサは感じ取った。アリーはそんなサマンサを見放すように事務所の戸を開けた。

「アリー。」アンディの呼び止めも聞かずにアリーは外へ出ていった。サマンサは、喪失感に打ちひしがれていた。

「まぁ、あいつのことだ。今ので多少は警戒するだろ。」事務所内の空気は最悪であった。

「大丈夫だって。あいつにだって守護霊はいるだろうからそいつが何とかしてくれるって。だから、お前も仕事に戻れ。な?」一方的に気休めを言っても意味がないことくらいアンディにもわかってはいた。しかし、この空気を少しでも変えたいという願望がアンディの口を動かしていた。

すると、サマンサが黙ったまま下を向き、首を横へ何度も振った。

「違うのか?」サマンサの無言の訴えを、アンディは察した。これがほかの誰かならそこまで気にはしなかった。しかし、サマンサなら話は違ってくる。サマンサはゆっくりと顔を上げた。その目には涙を浮かべ、心配と悔しさの念がひしひしと感じられた。

アリーはそんなことを意に介さず、社用の車に乗ると住所を備え付けのカーナビに入力した。

 「グレーテンヒル、十八番地。」アリーは入力した住所を読み上げながら、資料に書かれた住所と照らし合わせ、あっているのを確認すると、車のエンジンを始動させた。

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