新たな調査~2

 ここまで聞けば彼が抜き取った可能性は限りなく薄いと考えざるを得ない。隠す動機も無ければ、損をすることがあっても得をすることはなさそうだ。

 第一彼が本気で資料を隠し死刑執行の流れを止めようとしたのなら、再作成できないものを選べたはずだ。しかし無くなった資料は再作成できるものだった。そんな手間をかける意味など彼にはないだろう。

「こうなると残る疑わしい人物は加治田の父親らしき男ですが、書類を抜き取る方法が見つかりません。大飯も同様ですが、鍵の番号を知らない人物がスーツケースから取り出すことなど出来ませんからね。喜多原検事もそう思いませんか」

「しかし佐倉さん。GPSシールに関しては、無関係だと言い切れませんよ。理由は不明ですが、閲覧をした勅使川原弁護士が張り付け、それを元に追跡した加治田智彦がサービスエリアで声をかけた、とも考えられるでしょう」

「いえ、書類を地検から運び出す日時や方法は、ごく限られた人物にしか伝えられません。もし彼らがそうした方法を取ったとすれば、運び出す日時をいつ把握したのでしょうか。貼り付けてからずっと地検の近くに潜み、GPSが動く様子を探っていない限り無理でしょう。さすがにそれは現実的な方法ではありません。しかも何故そこまでする必要があるのかも不明です」

「だったらこのシールは、今回の書類紛失の件と関係がないのだろうか」

「何はともあれ声をかけた人物が加治田智彦なのか、もしそうならば何故声をかけたのかを確認する必要があると考えています。勅使川原弁護士の閲覧目的も知りたいですね。加治田と繋がっているのか。それとも別件なのか。加えて中之島の閲覧はどう関わってくるのか。ここまで来ても謎は深まるばかりで、全く見えてきません」

 とにかく波間口が書類紛失に関わっていることは無い。録音したこれまでの会話を木下が聞いてもそう結論付けるだろう。そこで最後の質問をした。

「ではもう一つだけ監理官にお伺いします。加治田の事件における資料一式を閲覧した三名が、ここに映っているGPSシールの貼られた裁判記録を見たかどうか判りますか」

「少し待ってくれ。閲覧記録を確認してくる」

 彼もそのことが気になっていたらしく、すぐに席を立って部屋の外へ出て行った。しばらくして大きなバインダーを持ってやってきた。席に座るとすぐに頁をめくり、該当箇所を探し当てた。三名がどの程度の資料まで閲覧したかも記録には残っているらしい。それらの資料と、GPSシールの貼られていた資料の名前が一致するかを確かめているようだ。

 すると峰島検事を除く二名が、その資料を閲覧していたことが分かったのだ。ちなみに紛失した裁判記録は閲覧制限がかかっていた為、三名とも見ていないことも判明した。

「これはつまり勅使川原弁護士と中之島早苗には、GPSシールを貼る機会があったことになるが、いや、そんなことはあり得ないはずだが」

 波間口がどうしても納得のいかない表情をし、何か言いたげな様子だった。しかし佐倉は気にせず畳みかけるように尋ねた。

「順番はどちらが先でしょうか。もちろん後に見た人間でも、一枚一枚めくってじっくり見ない限り、貼られているシールに気付かない場合もあるでしょう。ですから断言はできませんが、後に見た人間が張り付けたと考える方が自然でしょう。何故なら気付かれることもあり得た訳ですから」

「記録を見る限り勅使川原弁護士の方が先で、その後に中之島早苗の順になっている」

「これはまた悩ましいですね。今までの状況では、シールを貼ったのは勅使川原弁護士である可能性の方が高いかと思われます。しかし中之島さんが後に見たとなると、彼女が貼った場合もあり得ますね。もちろん彼女はシールに気付かなった、または気付いても無視した可能性もあるでしょう。とにかくこの後は資料紛失と関係ないかもしれませんが、シールを貼ったものが誰か、その目的は何かを調べるために二人を訪ねなければなりません」 

 その後しばらく会話は続いたが、時間のない佐倉はそこで頭を下げた。

「貴重なお時間をいただき、ありがとうございました。これで私は失礼します」

 すると喜多原検事が声をかけてきた。

「厄介な調査になりそうだね。だけど資料の紛失もそうだが、GPSシールに関しては、第三者が関わっているとなると私も他人事には思えない。もし何か進展があったら教えて貰えないか。真相がどこにあるのか知りたい。その代わりと言っては何だが、こちらで手を貸せることがあれば協力しよう」

「ありがとうございます。今のところは私だけで大丈夫ですが、もしこちらでの調査で行き詰まることがあれば、ご連絡するかもしれません。その時には宜しくお願いします。甲府での調査は明日の夜までしか許されていないので、時間がありませんから」

「そうなのか。それは大変だね。いつでも連絡して貰って構わないよ」

「ありがとうございます」

 検事と携帯の連絡先を交換した佐倉は、力強い支援者を得たと思いながら地検を後にした。そして駅前まで戻り、事前に予約していた軽自動車だがナビ付でハイブリッドのレンタカーを借りた。それに乗って最初の目的地であるサービスエリアへと向かった。

 まずは大飯達に声をかけた人物が本当に加治田智彦なのかを、確かめなければならない。本人なのか単に似た人物だったのか、それとも誰だか分からないのか。その答えによってその後の勅使川原弁護士や、加治田への調査が無駄に終わる可能性もあるだろう。

 もし加治田でないなら、どんな別の人物が関係しているのかを見極める必要も出てくる。時間が無い。高速に乗って運転に気を付けながらもスピードを上げ、大飯達が待ち合わせをした場所へと向かう。先方にはすでに連絡済で後は確認するだけだ。佐倉は強くアクセルを踏んだ。

 サービスエリアの守衛室で応対してくれたのは、桐谷きりたにという五十過ぎの管理責任者だった。電話で話した際にも丁寧な応対だったと木下から聞いていたが、会ってみてその人柄の良さは想像以上だった。

 ここでも会話を録音したいと申し出た所、快諾を得た。本来なら警察でもないし協力を強制する力のない佐倉だったが、法務省の女性官僚という珍しさも手伝ったのだろう。詳細は省いたが事情を説明すると、彼はすぐさま要望に応じてくれたのである。

 しかも会って挨拶するや否や、早速切り出されたのだ。

「お問い合わせのあった日時と時間を調べてこちらでも事前に確認しました。恐らくこれではないかという個所が発見出来ましたので、見ていただけますか」

 一人で複数の防犯カメラ映像を見て探すのは、相当時間がかかることを覚悟していた為驚いた。

「そこまでしていただいていたのですか?」

「ええ、まあ。でもそれほど時間はかかりませんでしたよ。時間も場所もほぼ特定されていましたので、そこを重点的に確認してみただけですから」

「それでは失礼して、早速拝見します」

 促された場所へと移動し、沢山あるモニター画面の一つを借り映像を流して貰った。画面の右側には日時と時間が記されている。大飯達から聴取した時間帯に含まれているかを確認したが、間違いなさそうだ。

 そこには大飯が、そして次に間中が隣り合った場所に車を停め、ドアを開けて外に出た様子が写っていた。二人が会話を交わしているらしき映像がしばらく流れた後、突然画面の右側から割って入って来た人物が現れた。そして大飯達に対し何か声をかけた後、驚く彼らが何か喋っている様子も確認できた。少し経つとその人物はその場から画面の右側へと消えていった。

「これですね。間違いないと思います。もう少し画像をアップにすることは出来ますか」

「このモニターではこれが限界ですね。もし大きく引きのばして見られるのなら、この部分の映像記録をUSBか何かに移すしかありません。画像のクリアなパソコンで拡大して見られた方がよろしいかと思います。申し訳ありませんが、この施設でそれが出来てお貸しできるパソコンは用意出来ませんでした」

「いえ、これで十分です。この部分の記録を頂いてよろしいですか」

 準備してきたUSBを取り出して見せると、彼はにこやかに笑った。

「構いませんよ。どうぞ。こちらに差し込んでください」

 指示された通りにして記録を取る。後は持ち帰って持参したパソコンで拡大すればいい。もうこれでここでの調査は終わったと言える。予想以上に早く済んだため、佐倉は追加でお願いをしてみた。

「この場面はこれで良いのですが、声をかけた人物に関しての映像は他に無いか、見せていただけますか」

「いいですよ。実は私も気になって少し遡って見ましたが、どうもここにいるお二人の内の一人の車の後を追いかけて、このサービスエリアに入って来たようです。そしてその後は直ぐに立ち去っていますね」

 桐谷はなんでもない事のように、それら部分が写った場面の映像を見せてくれた。先程とは別の防犯カメラが捉えたらしく、見える角度は全く違う。彼が言ったように、サービスエリアへ入ってきた大飯の車が写る。

 その後少しして話しかけた人物が乗ってきたと思われる白いセダンが現れた。駐車した大飯の車の近くにその車は停まり、しばらくしてそこから人物が一人出てくる様子が見えた。

 画面が変わって先程のシーンが流れ、また別のカメラでその人物が再び乗っていた車に乗り込み、サービスエリアから出て行くところまでが流れる。時間にして約三十分というところか。

「この部分の記録も頂いてよろしいですか」

「結構です。ただここに映っていた人物が、何かしたという訳ではなさそうですね」

 彼の言う通り、まさしく梶田らしき男はサービスエリアに入ってきて、そこから下車し他の車に乗っていた人物に話しかけただけだ。そして再び車に乗って高速の本線へと合流しただけに見える。しかしそれが問題なのだ。

 一体この男はサービスエリアに何故寄ったのか。トイレにも行かず、飲み物や食べ物を何も買わず、他人に声をかけたのみである。しかもその相手は、重要書類を秘密裏に運んでいた法務省の職員だ。そこで

「お前達の持っている荷物は、加治田を死刑にするためのものか」

とだけ言って、それを否定する大飯達の言葉を半ば無視するかのように去った。機密情報が洩れていたことはまず間違いない。しかしそんなことを桐谷に言っても始まらないし、言える訳が無かった。

「そうですね。ただ詳しくはお伝え出来ませんが、法務省としてとても看過できない出来事なのです。ご協力ありがとうございました」

「いえ、もし何か追加に必要なものがあればご連絡ください。録画は通常約二週間で破棄してしまいますが、この日の物だけは別にして、しばらく保管しておくようにしておきます。問題が解決して必要が無いようであれば、ご連絡いただけると助かります」

「ありがとうございます。そこまでご協力いただければ十分です。区切りがつきましたら、必ずご連絡するように致します」

 礼を言ってその場を後にした。車に乗り込み一番近い出口で高速を降り、再び逆の車線から高速に乗り換えて甲府市内へと向かった。まずは予約しているホテルにチェックインをして、記録した画像を確認しなければならない。この作業に時間がかかると考えていたので、勅使川原弁護士とのアポは明日のお昼前に設定していた。

 しかし今の時間なら今日中または明日の午前中の早めにでも、加治田本人に会って直接話を聞くことができる。いや、中之島早苗の方が先だろうか。

 そんなことを考えながら佐倉はホテルへと急いだ。

 予定より早くチェックインした佐倉は、部屋に入ると持参していたパソコンにUSBを挿入し、防犯カメラの映像記録を見た。今回は法務省から貸与されている旧型ではなく、自前のノートPCを用意していた。昨年購入したばかりの比較的新しいモデルで、画像や処理速度などが格段に違うためだ。

 省内で作成した文書等をUSBメモリなどに記録して外部へ持ち出すことは、もちろん禁止されている。その為自前のPCはもっぱらプライベート用で、ネット検索や動画を観たりする時等に使っていた。

 しかし今回防犯カメラの映像確認する際、画像が鮮明でないと人物を特定できないだろう。そう考えていた為、このPCを持ってきたのは正解だった。守衛室で見せて貰った時には、うっすらとしか映っていなかった映像を拡大してみた。すると大飯達に接近した人物の顔が、より鮮明になったのである。その結果写っている人物は、加治田智彦でほぼ間違いないことが判明した。

 さらにその人物が乗ってきた車の番号も確認出来た。警察ならすぐに照会して所有者を割り出すことができるだろう。しかし佐倉達にそんな権限は無い。それでもナンバーから、レンタカーではないことが分かっただけでも収穫だ。自家用車であれば、明日本人の自宅を訪れた際見比べれば明らかになる。

 佐倉はホテルのフロントに連絡し、カラーコピー機を借りて画像の印刷を行った。予約する時点で、そうしたサービスが受けられるかどうかを確認していたため、スムーズに処理を終えることが出来た。

 再び部屋に戻ると、既に職場へ戻っているはずの木下に連絡を入れた。

「もしもし、佐倉です。書類は無事届けられた?」

「はい。すでに課長を通じて峰島検事に見て貰っています。一応中身もざっと確認されていましたが、問題はなさそうだとのことでした。地検にもその旨連絡していると思います。ところで調査の方はどうでしたか」

「実は防犯カメラの映像が思ったよりも早く手に入ったの。今はホテルに戻って拡大したものをカラーコピーしたところだけど、やはり映っている人物は加治田智彦でほぼ間違いないと思う」

 事前に用意していた加治田智彦の顔写真と見比べながら、佐倉は地検でのやり取りについても報告をした。時々うんうんと頷いていた彼は、話を一通り聞き終わってから言った。

「一番最有力候補だった波間口監理官はシロらしいってことですか。そうなると、最初から考え直さないといけませんね」

「そうなのよ。だけど連絡を受けた地検が書類の捜索をした状況を聞いていた時、一つ気が付いたことがある」

「なんですか?」

「それは明後日、そっちへ帰った際にこちらで調査した事と合わせて報告する。明日勅使川原弁護士とのアポもあるし、加治田や中之島とも会って話をするつもりだから。そうするともう少し分かってくるかもしれない」

「どういうことですか。明日の調査はどちらかと言えば、書類の紛失とは別件の、GPSシールを貼りつけた犯人とその動機を探ることが目的でしたよね」

「もちろん。その二つが分かれば、書類を抜き取った犯人の動機が見えてくると思う」

「その二つが関係しているというのですか」

「恐らくそうだと思う。ただ明日、どこまで聴取できるかが問題だけどね。白を切られて何も聞き出せなかったら、動機に関しては闇の中になる。いいえ、この二つの事件自体が隠蔽されてしまうかもしれない」

「それだけは絶対避けたい、というのが佐倉さんの信念でしたね」

「そう。とりあえず今までの調査の簡単な途中報告とこちらで入力したメモ書き、地検での会話や防犯カメラのデータをメールで送るから。申し訳ないけどそっちで報告書の下書きを作ってまとめておいて欲しい。こっちでも明日の分を含めて整理しておくつもりだけど、すり合わせて最終的な報告書を作るにはその方が良いでしょう」

「分かりました。やっておきます。でも気を付けてくださいよ。今回の件、裏に何があるか分かりませんからね。身の危険は無いと思いますが、万が一ということがあります。それにお一人ですから尚更です」

「そうする。心配してくれてありがとう。また何かあったら連絡する。そっちでも動きがあったら知らせて欲しい」

「了解です。こちらは何もないと思いますけど。では明後日戻られるまでに新たな情報が入り次第メールを送ってください。電話は明日の夜など、時間が空いた時で結構ですから」

「そうだね。また連絡する」

 佐倉はそこで電話を切った。時間はもうすぐ六時になろうかという時間だ。今宿泊しているビジネスホテルに朝食はついているが、夕飯はない。幸い時間はある。そこで食事を取りがてら、中之島や加治田が在宅しているかだけでも確認しておくことにした。部屋を出てフロントに鍵を預けると、一泊二日で借りているレンタカーに乗り込んで街に出た。

 夕食を先に済ませ、まずは加治田智彦が住んでいる家を訪ねた。市内だが小さな山の麓にあるせいか、隣近所とは少し離れてひっそりとした場所に立っている。その為長い間路上駐車していても、とがめられる心配は無さそうだ。しかし七時近くで辺りが暗くなったにも拘らず、家には灯りが点いていないのでどうも留守のようだと木下宛にメールを送る。

 彼が現在一人暮らしをしていることは事前に調べがついていた。現在六十五歳になる加治田智彦には一歳年下の妻がいた。その間に子供は二人産まれたが、長男の永智は二十歳の時、東京の大学に通っている際にカルト球団に嵌ったという。そしてその十五年後、三十五歳の時に彼が信仰していた教団を糾弾していた城崎を敵視し、一家四人を惨殺したのだ。それが五年前の事である。

 その一年後に加治田永智が逮捕されて罪を認めた結果、加治田一家は加害者家族として世間から糾弾を受け離散したそうだ。加治田夫妻は離婚し、永智の二歳年下の妹は既に結婚をして別居していたが、事件の影響で離婚したらしい。今はどこにいるのかは不明だ。妻と娘が加治田家とは縁を切ったと聞いている。

 だが永智の父親である智彦だけは、甲府の地元に事務所を構える勅使川原に事件の弁護を頼み、息子は教団に洗脳されて命令を受けただけだと主張し続けたらしい。しかし当の本人があくまで自分一人の判断だと主張し、また教団の指示があったとの証拠が見つからなかった。

 その為検察は永智の単独犯として起訴したのだ。その結果、死刑判決が出ても彼は上告せずそれを受け入れたため、刑が確定したのである。

 小さな一軒家に住んでいる加治田の家のガレージには車は無く、出かけているらしいとその様子も写真に撮って木下にメールで送付した。そこで佐倉は、隣の市に住む中之島の家へと向かった。

 車で二十分ほど走れば着く場所に彼女は住んでいる。中之島早苗は現在五十歳だ。五階建てのマンションの一室に夫婦二人暮らしだという。子供は三人いるが、すでに皆家を離れているらしい。

 一旦近くにあった公園の脇に車を停めた佐倉は、窓から漏れる灯りを見つめた。彼女の住む部屋番号からあの辺りだと見当をつけると、在宅しているらしいことが分かった。時計を見ると、八時近くになっていた。

 いきなり訪問するにはやや微妙な時間帯だ。非常識だと言って追い返されたとしても不思議ではない。勅使川原弁護士との約束は明日のお昼前だから、当初はその前に彼女か加治田に会う予定だった。

 しかし午前中の早めの時間に再訪問したとしても、二人が在宅しているとは限らない。彼女が専業主婦だとしても買い物などに出かけていない場合もある。パートなど働きに出ていれば尚更だ。当初の予定より時間が限られてしまった為、できることは先に済ませておきたい。

 それに彼女の場合、怪しむべきことは何故閲覧をしたかの一点のみだ。それならば居ると分かっている時に会って話を聞くべきだと思い直す。

 そこで佐倉はマンションの階段を駆け上がった。入り口がオートロックでなかったことが幸いした。そして目的の部屋の前に着くと、中から灯りが洩れて人がいることを再確認し、録音レコーダーの電源を入れてからインターホンを鳴らした。

 少し間があり、不機嫌そうに女性の声がした。

「はい。どちらさまですか?」

 恐らく中之島早苗だろう。

「夜分遅く申し訳ありません。私、東京の法務省刑事局から参りました佐倉と申します。突然で恐縮ですが、お伺いしたいことがございまして参りました。少しだけで結構ですから、お時間をいただくことは出来ますでしょうか」

「法務省、ですか? 東京の? どういったことでしょう?」

 佐倉は声のトーンを落として告げた。

「先日、中之島様が甲府地検に寄られて閲覧された件です」

 用件の意味が分かったのだろう。しばらくの沈黙があった後に、扉が少しだけ開いた。しかしチェーンはかかったままだ。そこですかさず佐倉は名刺を出し、さらに省庁に出入りする際に使用するIDコードの入った顔写真付き身分証を提示して見せた。

「決して怪しいものではありません。ある件を調査していまして、裁判記録を閲覧されたと甲府地検から伺ったものですから、その経緯をお伺いしたくて参りました」

 しばらく手に取った名刺とIDカードを凝視していた彼女は、一旦扉を閉めてチェーンを外して再び開けた。

「まだ主人が帰ってきていないものですから中にお入れすることは出来ませんが、どういうお話でしょうか」

 隣近所の迷惑を考えて小声で話してはいたが、明らかに口調は怒っている。それでも佐倉はにこやかに微笑み、質問をした。

「もちろん、ここで結構です。念のため、こちらでの会話を録音させていただきます。早速ですが先日、奥様のお兄様が亡くなられた事件の裁判記録を見られたようですが、どういった理由で閲覧しようと思われたのでしょうか」

 閲覧する際、申請する用紙には理由を記入する欄がある。そこには遺族として事件の詳細をより深く知りたい、と書かれていたことは承知していた。地検としても被害者遺族からそのような申し出があれば、閲覧制限している記録以外は基本的に開示しなければならない。

 だが理由としては曖昧で、かつ死刑判決が確定してしばらく経ったこの時期に、何故閲覧を希望したのか。その真意を聞いておかなければならなかった。

 会話の録音も了承を得ないまま強行したが、彼女の反応は拍子抜けするほどあっさりとしたものだった。

「ああ、あれですか。そういう話だったらいいですよ。実は一カ月ほど前に変な電話がかかって来たからです。だから地検に行って裁判記録の閲覧を申請する際に、死刑が本当に確定していて執行されるのかを聞きに行きました。ただそれだけですよ」

「え? 電話がかかって来た? どなたからですか?」

「それが良く分りません。甲府地検の加藤とかいう人から、“お宅のお兄様が加治田に殺された事件ですが、もしかすると犯人が死刑執行されない可能性があります。だから一度地検の裁判記録を閲覧して、間違いないかどうかご確認された方がよろしいでしょう”ってかかって来たのよ」

「甲府地検の加藤?」

「でもそんな人、いなかったわ。後で確認したら加藤という男性はいたけど、女性はいないって言われたから。電話の相手は女性だったので、いたずらだったって分かったのよ」

「いたずら、ですか」

「そうなの。確かにおかしな電話だと思ったわよ。新聞やニュースでも死刑が確定したと言っていたし。時間はかかるだろうけど何年かすれば、死刑は執行されると思っていたから、私達親戚全員で一安心していたのよ。それなのにそんな電話があったものだから、半信半疑で地検に行って、裁判記録を見せてくださいって言ったの」

「何故電話で地検に問い合わせをされなかったのですか?」

「その加藤という女が言ったからよ。この件は公になっていないので、問い合わせをしてもちゃんと答えて貰えない。だから遺族が裁判記録の閲覧申請をして、その場で問題ないかを確認してから質問しないと、本当の事は教えてくれないって言うから」

「それで閲覧申請を出して、先方に聞かれたのですか?」

「そうよ。私なんかが裁判記録を見たって、何が書いているか難しすぎて良く分らなかったけど、そういうものを見たという事実が必要だと聞いていたから、その通りにしたの。そうしたら、ちゃんと偉い方が出てこられてしっかりと説明をされたわよ。間違いなく死刑は確定しているけれども、人ひとりの命がかかっているものだから執行自体はいつになるか判らないって。今後色々な書類を作成して、沢山の人が確認した上で死刑執行に問題ないと判断された時がくるまでお待ちください、と頭まで下げられたわ」

「それを聞いて、ご納得されたのですね」

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