新たな調査~1

 佐倉達が総務課長の渡口から呼び出しを受けたのは、紛失事件から丁度一週間が経った時だ。朝の九時を少し過ぎていた。

「先程甲府地検から、紛失した裁判記録の再作成が終わったと連絡が入った。それをこれからお前達で取りに行ってくれないか。今から出れば夕方までには帰ってこられるだろう」

 席の横には大飯達が持っていたものより二回り小さいスーツケースが一つ、既に置かれている。これに佐倉は慌てた。

「ちょっと待ってください。取りに行くこと自体は問題ありませんが、直ぐ帰って来いとおっしゃるのですか」

「ああ。峰島検事も残りの書類審査はほぼ終わり、起案書の作成に取り掛かっているようだ。残りの書類があれば、あと数日で提出できるらしい」

「お言葉ですが、この件についての報告書で既に申し上げているように、紛失した経緯を調査するには時間が必要です。甲府に行く機会を利用して何か所か周り、いくつかの事情を確認しなければなりません。それに甲府地検でも話をしっかり伺いたいと思いますので、書類を受け取ってトンボ返りしろと言われても、それは無理です」

 すでに二日前、報告書を出し終えた佐倉達は、甲府地検から連絡があるまでこれ以上こちらで調べる必要は無いと判断された。その為大飯達に引き継いでいた仕事も元に戻し、昨日から通常業務に戻ったところだ。

 しかし甲府へ行くとなれば、いくつか調査をしなければならない。その為最低二、三日は滞在しなければならないと事前に説明はしていた。そして課長もその時は分かった、と言っていたはずだ。

 けれど彼はそんな事を口にしたことも忘れたかのような態度を見せ、言ったのだ。

「そのことだが、この件についてこれ以上調査する必要は無い。再作成された資料さえ手元に戻り起案書さえ完成させて刑事局で確認し、矯正局へと送ることができればいい。局長がそう判断された。だからお前達は急いで甲府地検に行き、書類回収をしてくれ」

 佐倉は驚いて聞き返した。

「局長がそうおっしゃっているのですか? 裁判記録の一部が紛失しているのですよ。しかも外部の人間の手に渡っている可能性があるにも拘らず、調査をしないのですか? その上資料一式を運ぶ日時が漏洩している公算も高いというのに、放っておくのですか?」

 課長は渋い顔をして答えた。

「いや二人が出してくれた報告書を見る限り、確かに外部の人間が絡んでいる可能性は否定できない。だが一番可能性があるのは甲府地検だ、と書かれていただろう。その次にはこの庁舎のどこかに隠されているともあったな。しかしいずれにしても確実な証拠がない」

「それはそうですが」

「外部に流出した危険性が薄いのなら、これ以上調べる必要は無い。もし甲府地検で発見されたとしても、それはそれで問題無いだろう」

「本当にそうお思いですか? 情報漏洩の件はどうお考えですか?」

「これは局長とも相談した上での判断だ。甲府地検に対し、明らかな証拠も示せない状態で疑うような調査をすることは避けたい。加治田の父親に似た人物から声をかけられたと言うのも、根拠に乏しい。そうお考えだ」

「つまり今回の紛失事件や、情報漏洩に関して無かったことにする訳ですか」

 課長は強張った表情で、言葉を荒げて反論した。

「口の利き方に気を付けろ。これ以上の調査を現時点ではできないと判断した。だから一旦中止するということだ」

「同じことじゃないですか。ここで関係者に話を聞かないと言うことは、闇に葬ることでしょう。各省庁が公文書の隠蔽や改ざんを行っているとマスコミから叩かれている中で、法務省も先日公文書を破棄し、外国人労働者の失踪理由についての報告が虚偽だったと責められたばかりじゃないですか。また同じことをするとおっしゃるのですか」

 それだけはできない。これは佐倉にとって絶対に譲れない一線だ。しかしその抗議は受け入れて貰えなかった。

「馬鹿な事を言うな。改ざんや隠蔽もしていない。調査はしただろ。ただ今は起案書の作成を優先するだけだ。それにお前達が口外しなければ、外に漏れることも無い」

 言外にマスコミなどへリークするなよ、との警告を感じ取った。このままではまずい。そう思った佐倉は、言葉を和らげて別の方向から攻めることにした。

「では書類を今日中に持って来さえすれば、調査は続けても良いのではないですか」

「何度も甲府へ行ったり来たりはさせられないぞ。そんな予算などない」

「いえ、行くのは二人で行きます。ですが書類を受け取ったら木下だけ先に戻り、書類を峰島検事にお渡しすればいいでしょう。その間私は向こうに残り、明後日の夜にはこちらへ出社します。それでも駄目ですか。たった二日の出張延期さえも駄目だとおっしゃるのなら、今後私達が口外しなくても何らかの形で外部の人間が知った時、調査を怠ったと非難されるでしょう。私が後二日だけ追加調査をし、その結果の報告書を上げます。それをお読みになった上で、さらなる調査を断念するかどうかご判断されても遅くはないと思いますが、いかがですか」

 木下がギョッとした顔でこちらを向いていたが、佐倉は課長の目から視線を逸らさず、強く訴えた。このままだとこの件はこれで終わってしまう。再作成できたとはいえ、死刑の執行に絶対不可欠である裁判書類の一つが紛失しているのだ。これをそのまま放置することは、それこそ隠蔽体質と言われても仕方がない。

 上としてもこれ以上周りの省庁以上に法務省が非難を受けることは避けたいはずだし、許し難いことである。少なくともこれ以上同じ過ちを繰り返してはいけない。それも法務省という部署でしかも自ら関わった事案で不祥事を隠す手助けをするなど、決してできなかった。それ以上にどうしてもここで打ち切られる訳にいかない事情が、佐倉にはあるのだ。

 そうした強い意志が通じたのだろう。課長はちょっと待て、といって席を立った。二人取り残された課長室の応接間で、木下は心配気な顔で言った。

「佐倉さん、本気ですか。一人で加治田の父親や勅使川原弁護士と中之島の聴取、サービスエリアの防犯カメラに甲府地検の波間口監理官の調査もされるおつもりですか。さすがに難しいと思いますが」

「厳しいのは分かっている。だけどああでも言わないと、このままうやむやにされてしまうからしょうがないでしょう」

「それはそうかもしれませんが、無茶が過ぎませんか」

「おそらく今、課長は局長に相談していると思う。却下されれば終わりだけど、もし一日でも了承されれば、限られた時間を有効に使うしかない。移動中に勅使川原弁護士にはアポを取った方が良いわね。加治田智彦と中之島早苗には、電話をかけて在宅しているかどうか確認する必要がある。それと甲府地検でも監理官が在席しているかも重要だから、話を聞く時間を貰えるかどうかだけでも、事前に伝えて置いた方が良いかもしれない」

 するとそれまで調査自体に腰が引けていたと思われる木下が、急に張り切り出した。

「そうですね。サービスエリアにも先に連絡しておきましょう。こちらが調べたい時間帯の記録が残っているか、有るなら用意して貰って見せてくれるようお願いしておきます」

「う、うん。お願いね。少しでも時間を無駄にしたくないから。しかし報告書を挙げた時点では、こうなる気配など全く無かったから油断していたわよ。まさか当日になって調査を切り上げろと告げられるとは思ってもみなかった」

「局長はこれ以上騒ぐことで、責任問題にしたくないのでしょうか。それなら調査の許可が得られるとは考えにくいですね。覚悟しておいた方が良いかもしれません」

「いや、局長を信じましょう。最後に告げた一言が響けばいいけど」

「万が一外部に漏れた場合、の話ですか」

「そう。局長も大事にしたくないのは本音だと思う。だけどそれだけ最悪の事態に備えて、打てる手は打っておくと言うのも身を守る一つの手だから」

「それは言えますね。他の省庁でもその辺の危機管理が甘かったから、後々になって泥沼化していきましたから。問題が発覚した際にもっと早く手を打っておけば、もう少し被害を食い止めることは出来たでしょう」

 木下の態度が急変したことに戸惑いながら、佐倉は頷いた。

「結局はそこじゃないかな。人のやることだからミスは必ず起こる。問題なのはその後よ。迅速かつ正確に、責任逃れやプライドなどといったものを恐れず、その時考え得る最善の処置を行うかどうかなんだと思う」

「下手にエリートばかり揃った部署だと、それがなかなかできないのでしょう」

「それと縦割り行政だけでなく、省庁では上下での力関係がしっかりしすぎているからね。だから物事を決めることは早くても、方向を誤った時に修正する横の力、相互監視の力が働かないのが弱点になる」

「民間の場合は、派閥や学閥といったものが力を持っていたりすると聞きますね。ある人間達が間違えば、もう片方の勢力がそれを口実に排除しようとする。昔の政治家の派閥なんかがそうだったようですね。悪い面ばかり強調されていますが、一方では良い一面もあるってことじゃないですか。今の政府や官公庁の状態を見る限り、権力が一本に集中すると、何か問題が起こった場合には良くないことを証明しています」

 話が本題から逸れて熱くなっている間に、応接間の扉がいきなり開いた。課長が戻ってきたのだ。時計を見ると三十分ほど経っていた。彼は席に座らず入ってきたそのままの状態で言った。

「佐倉、一泊だけ出張延期を認める。ただし明後日の朝一にはこちらへ出勤しろ。木下は地検から書類を受け取ったら寄り道をせず、すぐに帰ってこい。重要な書類だが一部だけだ。一人でもなんとかなるだろ。いまからそこにあるスーツケースを持って出発しろ。鍵の暗証番号は、書類を持ってこの課長室へ到着した際に伝える。甲府へは電車で迎え。車の使用は禁じる。いいな。以上だ」

 そのまま早く出て行けと言わんばかりに、扉を開けたまま立っていた。許可は得られたようだが時間は無い。ここで余計な押し問答をしている余裕も無かった。なんとか最悪の事態を避けられただけでもマシだと思い直す。

「分かりました。行ってきます」

 佐倉達は席を立ち、木下はスーツケースを持って外に出た。急いで席に戻り、最低限のものを自分のカバンに詰めて庁舎を出る。その後すぐに地下鉄に乗り、新宿駅へと向かった。甲府までの最短ルートでは、そこで特急に乗る必要があったからだ。

「車は向こうでレンタカーを借りることにするわ。時間が無いから移動中に先ほど話していた、事前連絡すべきところは手分けしてやろう」

 声をかけ合い、佐倉は勅使川原弁護士と甲府地検へと連絡を入れた。木下はサービスエリアに電話をかける役目を引き受けてくれた。新宿駅へ着き、甲府までの特急電車に乗っている間にも、佐倉は一泊分のホテルの予約とレンタカー会社にも連絡した。そして甲府駅に着いた頃には、大方の手続きを済ますことが出来たのである。

 甲府地検に到着した佐倉達は、資料室ではなく検事室にある応接間に通された。事前に打ち合わせしていた通り、加治田の事件で死刑を求刑した喜多原きたはら重美しげみ検事が同席している。そこに地検の資料室管理責任者であり、前回大飯達との裁判記録の受け渡しを行った波間口伊知郎いちろうが、再作成された裁判書類を持って座っていた。

 二人は着席するよう促され、簡単に挨拶を済ませた。まずは受け取るべき書類の確認を行う。

「これが再作成された裁判書類です。前回の受け渡しの際、こちらが作成し用意していたリストの中の、裁判記録の項の三が紛失していたとのお話でしたね。間違いないかご確認ください」

 中身はともかく、事前にどういうものなのか確認項目は教えられていた。そこでそれらが記載されており、誤っていないかをチェックする。ただ喜多原検事からも用意した資料に問題はないとお墨付きをいただいている為、実際は体裁を気にしただけだ。

 一通り目を通すと、木下が用意していたスーツケースに書類を入れた。そして鍵を掛け、さらに体と固定しているワイヤーロープを袖から通して固定する。これで万全だ。彼はそこで立ち上がり、頭を下げた。

「申し訳ございません。私は本日中に戻らなければならないので、先に失礼します」

 彼が部屋を出て行った後に残された佐倉は、改めて挨拶をした。

「法務省総務課の佐倉です。大変恐縮なのですが事前にお伝えしました通り、今回の書類紛失騒ぎについて、局長から調査を依頼されて参りました。ご協力をお願いできますでしょうか。また念の為にここでの会話を録音させていただいてもよろしいでしょうか」

 木下が途中退席してしまうため、ここでの話の内容などをまとめる人物がいない。その為、事前に録音だけはしておこうと彼の提案により決まった。何が心境を変えたかは知らないが、調査協力を惜しまないと言い出したからである。

 そこで一足先に部署へと戻る彼の元に、録音データや入手した情報を随時メールで送ってくれと言われたのだ。そうすればすぐに整理が出来て、報告書も作成できる。時間が無い佐倉にとって、そうした申し出を断る理由など見つからない。その為受け入れることにしたのである。

「それで構わないよ。前回の受け渡し時の状況などを話せばいいのですね」

 先方の了承を得たため、佐倉はレコーダーのスイッチを入れて質問をした。波間口が口を開き、一週間前の出来事について時系列に沿いながら説明してくれた。彼から聞いた内容は、ほぼ完全に大飯や間中から聞いたものと一致している。事前に把握していた状況は間違っていないようだ。

 しかし問題はここからである。その後の質問に対し、先方が警戒している気配を感じた。そこで佐倉は話の矛先を、隣で聞いていた検事に向けた。

「前回の状況は分かりました。ところで喜多原検事は、今回の事件のご担当でしたね」

 虚を突かれたらしく、彼は一瞬驚いた顔をしていたがすぐ冷静になって答えた。

「その通りです。今回の紛失の件に事件関係者が関わっているかもしれないからと告げられ、ここに同席するよう頼まれましたが一体どういうことでしょうか」

 峰島と同じく検事という職業柄なのか、相手に質問をする際の言葉は丁寧だが、目つきはとても鋭く、冷たい表情をしていた。

「はい。実は前回受け取った裁判書類の中に、こういうものが発見されました。これは局長付の峰島検事が、書類の審査中に見つけたものです」

 現物ではなく、書類に張り付けられた状態で撮影した写真を、スマホの画面で見せた。検事と波間口が身を乗り出して覗き込む。これは何かと聞かれる前に、説明を始めた。

「発見されたものは、薄型のGPS機能が付いたシールです。調べた所、バッテリーは最大十二カ月持ち、主として財布等に取り付けるものでした。紛失した際にスマホなどで場所を検索できるようです。一枚一枚資料をめくってみないと気付かないほどの薄さでした」

「GPS機能が付いたシールが?」

 その事実を聞いてさすがに二人も驚きを隠せなかったようだ。この件を含めていくつかの情報はこちらで調査をし易くするため、わざと事前に伝えていなかった。裁判書類からこれが発見されたことで、事件性がある可能性が高いと相手にも思わせるためである。

「ちなみに電波の届く範囲は、せいぜい二十数メートルとそう広くはありません。かなり近くまで寄らないと、探知できないもののようです」

「そんなはずは、」

 波間口が呟く横で、検事が身を乗り出して尋ねて来た。

「何だってこんなものがあったんだ」

「それは分かりません。書類の紛失した件とこの件が関係するかどうかも不明です。ただこのシールと関係すると思われる奇妙な出来事が、前回書類を持ち帰った大飯達の身に起こりました。ですから全く無関係とは思えず、検事にも同席していただいたのです」

 佐倉は相手の関心を引きだした所で、サービスエリアでの話を聞かせた。すると検事の顔色が変わった。

「なんだって? あの加治田の父親らしき人物が声をかけた?」

「それが加治田智彦本人かどうかは、この後サービスエリアに映っている防犯カメラを確認した後、本人にも会って直接確かめようと思っています。写っているかはまだ不明ですが連絡をしたところ、一週間前の映像はサービスエリアに残っているとのことでした。また調査にもご協力いただき、この後見せていただく許可も取っています」

 予想外の展開に検事や波間口も唸っていた。話しかけた人物が加治田でないとしても、隠密に重要書類を運んでいるはずの情報が、第三者に漏れていた事には変わりはない。ここで佐倉は畳みかけるため、波間口に向けて尋ねた。

「このGPSシールのバッテリーから考えて、最低でも一年以内に取り付けられたことが分かります。そこで事前にこちらへ問い合わせをして、この事件の裁判記録を閲覧した人物を調べていただきましたが、この一カ月以内で三名いたと聞きました。それは間違いありませんね」

 その件については聞いていなかったらしく、検事は目を丸くして横にいた彼の顔を見ていた。問い合わせた際には、何のために尋ねたか理由は告げていない。その為同じく事の重大さを認識していなかった波間口は、頷きながら言葉を濁らせた。

「あ、ああ。確かに三名閲覧したという記録が残っていた。直近一年間では、その三名しかいない」

「その三名というのは誰ですか?」

 検事が彼を問い詰めたため、佐倉が代わりに答えた。

「被告側の弁護士である勅使川原氏、被害者遺族の中之島早苗さん、そして現在書類の審査を行っている峰島検事、の三名です。そうですよね」

 波間口は頷き、それを聞いた検事は先程より大きく目を見開き口調も変わった。

「なんだ、そのメンバーは。どういうことだ」

「事件に関わった弁護士と被害者遺族、そして検事が閲覧すること自体問題はありません。ただその時期とこのシール、そして書類が紛失した件が関係しているのかどうかです。時期的に考えて、完全に無関係だとは考え難いとは思いませんか。その為調査が必要だとこちらでは考え、お話を伺うために私だけがこうして残っている訳です」

 ここでようやく、厄介者をどう追い払おうかと考えていたはずの場の空気が変わった。

「少し整理しよう。まずは勅使川原弁護士や中之島さんはいいとして、何故峰島検事が資料の閲覧をしたんだ? 検事は自分が担当している事件などのために、他の様々な案件の裁判記録などを参考にすることはある。時には遠くの地検まで足を運び、閲覧することもあるだろう。私も数は少ないが経験しているから理解できなくはない。しかしそれにしても何故このタイミングだったんだ」

 検事の質問には、峰島が述べた通りの理由を告げた。それを聞いた彼は少し首を傾げながら呟いた。

「そうか。彼はそう言っていたのか。理解できないこともないが」

 佐倉はその口ぶりを聞き逃さなかった。

「失礼ですが、喜多原検事は峰島検事と面識がおありですか?」

 峰島のことを調べた際に、喜多原検事の名は出てこなかった。佐倉達の限られた人脈からは彼に到達しなかった為だろう。しかも今回連絡する相手として名前は挙がっていたが、別件の方が重要だったため、峰島と関わりがあるか聞くことを失念していた。

「ああ。彼は私より五期下だが仙台地裁にいた時、一度仕事をしたことがある」

「喜多原検事から見て、峰島検事はどういった印象をお持ちですか?」

「ん? 印象と言っても特別なことはない。仕事ぶりも他の検事同様、真面目で一生懸命に取り組んでいたと思うよ。それに彼は育ちが良いだろ。確か父親も含めて政治家一族の中で育っただけあって、言葉遣いや礼儀などもしっかりしていたよ。人当たりも悪くない」

「例えば死刑廃止論などを強く主張していた、ということはありませんか?」

 この問いには彼も眉をしかめた。

「確かに弁護士の中では死刑廃止論を唱えている集団がいるし、検事や裁判官の中にも絶対にいないとは言わない。しかし彼は個人的な主張など、目立った発言をするタイプではなかったよ。もっと国を良くしたいといった、政治家一族らしい話は聞いたことがあるけれど、極端な思想は持っていなかったと思う。それにいずれ彼も地盤を継いで、政治家を目指すらしいという噂は耳にしているからね」

「ご本人からは、そうした話を聞かれたことはありますか?」

「一度そんな話をした気がする。しかしまだあの頃は時期尚早で、今は検事として勉強をし、経験を積みたいと話していたからな。それにもう五年以上前の事だ。今もそうだが、彼の親父さんは当時もまだまだ元気で、バリバリやっていたし」

 ここでも彼については特別新しい情報は得られなかった。しかし本命は別にある。そこで話題を波間口に振った。

「話は少し戻りますが、大飯達に書類を受け渡した際、何か気付いたことはありませんか」

 突然矛先が自分に向いた為、戸惑ったのだろう。最初に対面した時にまとっていた警戒心が薄くなっていたからか、慌てていた。

「な、何かってどういう意味だ。先程言った通りだよ。特に変わったことはなかった」

「そうですか。では監理官から見ても資料室の中で大飯達が書類を紛失、又は抜き取ったと疑われるような行動は取っていない、ということでしょうか」

「当然だ。三人の目で間違いなく揃っている事を確認した上で彼らに引き渡したよ。カウンターに積まれた書類を、せっせとスーツケースに入れている様子を私は見ていただけだ」

「カウンター越しだったために、下で行われている作業は見えましたか」

「手元までは見えなかったが、上から下へと運ぶだけの動作だ。腰から上は見えていたので、おかしな行動を取っていたとしたら気付くと思うが、それは無かった。一応作業が終わって出て行くまで見守っていたから間違いない」

 ここで思い切って尋ねた。

「これは失礼な質問になるかもしれませんが、ご容赦ください。監理官は書類一式が揃ったことを確認した後、カウンターの上に置かれている資料には触れられたりしましたか?」

 これにはさすがに彼も表情を強張らせて、強く否定した。

「冗談じゃない。確認後、私は一切書類には触れてない。書類が紛失しているとそちらから連絡があった時も、上から同じように疑われた。しかし間違って書類を落としたりもしていない。書庫の中もその時徹底的に探してもらった。ましてや抜き取ったりもしていない。何の為にそんなことをする必要がある。私はこの地検の資料室を管理している責任者だぞ。万が一紛失などすれば、真っ先に責任を取らされるのは私だ」

 彼の言う通りである。普通に考えれば書類を隠す動機はない。木下との話では間違って書類を落とし、どこかに紛れ込んだ可能性が高いだろうと予測していた。しかし横で検事が頷いていた所を見ると、説明通りのようだ。ならばこちらから紛失したと連絡した際に見つかっていただろう。

 それでもあえて突っ込んだ質問をした。

「資料室の中の捜索は、どの程度されましたか」

「徹底的にしたようだよ。私は中には入らず書庫の外で見ていただけだが、紛れ込む可能性がある場所だけでなく、他の段ボールの中も開けて探していたからね。私が抜き取り、他の場所に隠すこともあり得ると思ったのだろう。しかしそんな真似ができるはずはない」

「何故そう言い切れるのですか?」

「書類を彼らに渡した後、三人で一緒に書庫から出て私は鍵を掛けた。そこからは外で待機していた別の職員と一緒に職場へと帰り、所定の場所に鍵を戻してからは一切触っていないからだよ。それは他の職員も見ているから、間違いない。つまり仮に私が抜き取ったとしても、書庫から持ち出すことはもちろんどこかに隠す時間も無い。不可能なんだよ」

 書庫の外に他の職員がいた話は、初めて耳にした。大飯達からの聴取でそのような話は出なかったが、外にいたため気付かなかったのだろうか。それともたいして重要な事ではないと思い、伝えなかったのか失念していたのかもしれない。これも検事がその通りだと追認していた。

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