木下の憂鬱~2

 黙ってしまった木下を見て、熱くなり過ぎたと思ったのだろう。峰島検事は急に話題を変えた。

「そういえば、今回の書類紛失事件は、「財田川事件」を知った上で行ったのではないかという話が出ていましたね。木下さんはどの程度ご存知ですか」

「どの程度かと言われましても、ざっとした流れと、検察や警察にとって恥ずべき冤罪事件だったことは知っています」

 所謂「財田川事件」は一九五〇年の二月末、香川県三豊郡みとよ財田村さいたむらの自宅で闇米ブローカーの香川かがわ重雄しげお(当時六十一)が殺害された事件を指す。後に犯人として逮捕された谷口繁義(当時十九)が兇器を捨てたかどうか、その真実は財田川が一番よく知っている、という彼に就いた矢野やの弁護士の発言から、いつしか「財田川事件」と呼ばれるようになったものだ。

 谷口は香川が殺された同じ年の四月に、隣村の神田農協強盗殺傷人事件で逮捕され、同年七月に香川を殺したと犯行を自供。翌八月にそれまで別件で拘留されていたが、香川殺害の罪で逮捕された。だがこの時の自供による調書や手記は、警察による捏造であると後に疑われたのだ。

 しかし一九五二年の一月、高松丸亀支部が谷口に死刑判決を下した。犯行を否認する谷口は控訴したが、一九五六年六月に高松高等裁判所が控訴を棄却。翌年一九五七年一月、最高裁判所が上告を棄却して、死刑が確定。そして谷口の身柄は、死刑執行ができる大阪拘置所へと移監されたのである。そして一九五八年三月二十日、棄却を受け、死刑は動かしがたいものなった。

 そのため法務省が死刑執行準備のため高松高検に命じ、「公判不提出書類」を取り寄せることになり、高検は地検に申し伝え、資料一式の提出要求を行ったのだ。

 しかしここで奇妙な事が起こった。一九五九年六月二日、地検から法務省に送付された資料の中には、部下の「紛失報告」が添付されていた。つまり死刑施行の為に必要な書類の一部が無くなっていたと言うのだ。

 その為起案書を作成することもできず、死刑執行が滞ったのである。そしてそこから約十年の空白期間を経た一九六九年四月、丸亀支部に就任した裁判長矢野きちが放置されていた谷口の手紙を発見し、これはおかしいと調査を行った。その上でこれは冤罪事件だと疑い、第二次再審請求の手続きを開始したのである。

 しかも驚くべきことに、再審決定がなされれば矢野裁判長は退官し、谷口の弁護をすると発表したのだ。しかし様々な力が働いたのだろう。再審の「決定」は延期となった。そこで一九七〇年八月に矢野裁判長は、定年まで五年を残して退官。その後弁護士となった彼は大阪を訪れ、谷口と面会し弁護人選任届を作成したのだ。

 当時も今もそうだが、裁判官が在任中に担当した事件を扱うことや、その内容を公表したりすることはタブーとなっている。しかしそれを破り、矢野弁護士はまず国を相手取って、損害賠償請求の民事訴訟を起こしたのだ。

 彼の奮闘が実り一九七六年十月には最高裁が差し戻しを決め、一九七九年六月には高松地裁が再審開始を決定。高松地方検察所が即時抗告を提出したが、一九八一年三月に高松高裁が地検の即時抗告を棄却した。そこで同年九月に谷口は大阪拘置所から高松拘置所へ移監され、高松地裁で再審が開始されたのである。谷口が逮捕されてからここまで三十一年の歳月が流れていた。

 しかし悲劇にも一九八三年三月、裁判の判決を聞くことなく七十一歳の若さで、矢野が急性肺炎で死去したのだ。そして同年九月に再審が結審し、翌年の三月高松地裁は谷口に無罪判決を出し、即日釈放したのである。逮捕から三十三年、十九歳だった谷口はすでに五十二歳になっていた。

 そして彼は七十四歳で脳梗塞などを患い、心不全で死亡した。晩年は一部のジャーナリストの取材は受けていたものの、静かに暮らしていたと言う。

「あの事件で多くの問題が明らかになりました。事件当時の谷口は、よからぬ仲間と事件を起こしていたことから、素行が悪い人物だったことは確かです。別件で傷害事件を起こしていましたからね。しかし香川を殺した犯人がなかなか見つからない中、焦った警察がなんとしても谷口を犯人に仕立て上げようとしたことが、間違いの始まりでした」

 昭和の四大冤罪事件とまで称されたこの事件の事は、法務省に入るまでにも関連書物を読む機会があった。その為木下でさえそれなりには理解している。

「素行が悪いという風評だけで、別件で逮捕した彼を不当な理由で長期に勾留し、拷問までして無理やり自白させたようですね」

「そうです。警察は百十日を超える強引な取り調べで、自白を強要しました。それだけではなく、供述調書や谷口の手記を警察や検察の手で捏造までしています。さらには自白した調書の中にある兇器とされた刺身包丁は、捨てたと言われる川からも発見されていません。そして谷口が有罪であると決定づけた血の付いたズボンも、彼の弟から無理やり取り上げたものでした。当時はDNA鑑定などありませんでしたからね。いい加減な鑑定でたまたまついていたO型の血痕が被害者の血と一致すると思われる、という曖昧かつ捏造された物的証拠により、有罪へと導いたのです」

「それを検察だけでなく、裁判所までもが疑わずに死刑判決を出してしまったのですね」

「そうです。最高裁まで上告して棄却され、死刑が確定されました。しかしそこで救世主が現れます。事件から十九年後に就任した矢野裁判長が、それまで黙殺され続けてきた谷口からの再審要求の手紙を発見し、動き出しました」

「当時の関係者達に様々な聞き取りを行ったようですね。そこで検察の調書を書いた事務官から話を聞き、多くの矛盾点が明らかになり捏造の疑いが浮上した。そして事件は冤罪だと確信した矢野裁判長は、再審請求の手続きを取る手助けをされたのでしたね」

「確信に至った経緯の一つが、裁判では使われなかった公判不提出書類が紛失していたことです。谷口の自白に沿わない証言などが全て抹消されていました。おそらく検事達の手によるものだと言われています」

「悪質極まりないですね。しかし現在でもいくつか表面化している冤罪事件というものも、大なり小なり、そういった有り得ない実態が裏で行われて発生しています」

「そこです。財田川事件もそうですが、多くの冤罪事件ではせんだつが一度出した判決を覆すことなどできないと考える警察や検察、そして裁判官が思考停止して起きました。さらに悪質なのは、先の判決を貫き通そうとして嘘に嘘を重ねることにあります」

「今の国会で行われている騒動と、まるで同じですね」

「その通りです。しかし矢野裁判長はそこに立ち向かった。後に彼は自らが愛した裁判官という立場から、警察や検察庁、裁判所や法務省にまで疑惑を持ち批判しなければならなかったことに苦しんだ、と述べています」

「そうですね。大変勇気ある正義感を持った行動と、簡単には片付けられないほどの大きな決意と覚悟があったのだと思います。定年まであと数年という長い間続けてきた裁判官という立場を捨てたのですから。一人の人物を救うために弁護士となり、かつての仲間達を敵に回し、それでも真実を明らかにするなんて、自分ならできないと思います」

「木下さんは正直ですね。しかしそこが重要なポイントなのです。多くの方はそれができずに思考停止してしまいます。または現在の状況や地位などを守るため、真実ではないと気付きながらも、正義に反する行動を取ってしまう。しかしそれはしょうがない、と言って片付けられるものでしょうか。私はそう思いません。人一人の命がかかっているだけではなく真実を捻じ曲げることは、自らの職務を根本から否定することなのですから」

 間違ってはいない。ただ自らの立場に置き換えた時、素直に頷けないため、反論した。

「しかし現実問題として、皆一人一人に生活があります。そこまで身を削れというのは、酷ではありませんか。個人で責任を負うには、余りにも犠牲が大きすぎます」

「ですからそうならないよう個人ではなく組織全体で、あるべき姿に戻そうとする力が働かなければなりません。組織が何のために存在しているか。その根本の理念を忘れ、個人ではなく組織自体を守ろうとするから、歪みが生じるのです。人は間違いを犯します。だからこそ素直に頭を下げ、正す姿勢が求められるのではないでしょうか」

 余りの正論に言い返すことができず、俯いてしまった。峰島はそこで話を切り上げた。

「少し休憩を長く取りすぎましたね。そろそろ仕事を再開しないといけません。木下さんも仕事にお戻りください」

 我に返り席を立って部屋を後にした木下は、今までの己の仕事における姿勢に対して反省をしながら部署へと戻った。その足取りはとても重く、胸の痛む思いをしながら歩いたのだった。

 その日、早めに帰宅した木下に妻のともが声をかけて来た。

「お疲れ様。今日は早かったけど、元気がないわね。大丈夫? どこか体の調子が悪い?」

「そういう訳じゃないけど、そんな風に見える?」

「うん。最近は忙しそうだったけど、何となく張り切っているというかいつもと違う感じがしていたのに、今日は疲れているように見える」

 彼女とは幼馴染だからか、多くを語らずとも通じ合える仲だ。これまで仕事の内容について詳しく話したことなどなかったけれど、彼女はここ数日の普段と異なる様子に気付いていたらしい。言われてみれば、佐倉さんと一緒に書類紛失についての調査をし始めてから、これまでやってきた仕事では味わえない奇妙な充実感があった。

「そう? そんなに張り切っているように見えた?」

「うん。何事も淡々としているアックンにしては、とても楽しそうだったよ」

 彼女は木下の事を下の名前の秋雄からとってそう呼ぶのだが、意外な言葉に驚いた。

「楽しそう?」

「大変な仕事をしているんだろうから、楽しいなんて言ったら不謹慎かな。でも今までやったことのない新しいことをしているんだろう、とは思ったわよ。それがアックンに合った仕事なのかもね。生き生きしているって言った方が良いのかな」

 予想外の見方をされていたことに戸惑った。今やっている事は法務省での仕事としてはイレギュラーな事だ。それなのに合っているとか生き生きしているなどと言われても困る。しかしどうしてそう感じたのかがとても気になった。長い付き合いの彼女がそう言うのだ。何がそう思わせるのかを木下は知りたくなった。

 そこでひとまず着替えを済ませていつもより早い夕飯を済ませた後、できるだけ仕事を家に持ち込まないという一人で密かに決めていた信条を破り、ここ数日していたことを彼女に説明してみたのである。

 しばらく黙って頷いたり驚いたりしていたが、一通り聞き終わると彼女は言った。

「そんなことをしていたの。だからいつもと違ったんだ。今の話だとそう滅多にある仕事ではなさそうだけど、やる気というか本気度が高かったからじゃないかな。あなたは真面目で堅実だし、冒険するタイプじゃないよね。こう言っちゃうと誤解されるかもしれないけど、結婚相手としては安心していられる。あなたも自分でそう思っているんじゃない? 父親が早くに亡くなって、母親にとても苦労させたと思っているからかもしれないけど」

「そうかもね。だから今回の仕事は首を突っ込み過ぎると危険なんだ。下手をするとおかしなことに巻き込まれてしまう。だから佐倉さんにはこれ以上踏み込めないと思ったら、身を引くかもしれないと伝えてある。だって智花と結婚したばかりだし、地雷を踏んで仕事を首になったり、降格人事をくらったりする訳にはいかないからね」

「それは考え過ぎじゃない? あなたは何も悪い事なんてしていないじゃない。それどころかおかしなことをした人が誰なのかを調べている訳でしょ。責任を取らされるいわれはないと思うけど」

「官僚組織というのはそんな単純な所じゃないんだ。それなのに佐倉さんは踏み込み過ぎる気がするから危なっかしいんだよ。正義感が強すぎるというか、真面目過ぎるというか」

「真面目なのはあなたもそうじゃない。正義感もあるわ。石橋を叩いて渡らない堅実さは公務員としてある意味必要な事なのかもしれないけど、多分あなたは佐倉さんと同じように、今回の事件の裏にある真相を究明したいという使命感が強いんだと思う。だから忙しくても楽しく見えるし、充実しているように見えるんじゃないかな」

「そんな自覚はないんだけど。それどころか峰島検事や佐倉さん程真剣に考えた事なんてないんだよ」

「あなたとは今までこういう仕事関係や社会情勢の話なんてほとんどしたことがないわよ。でも口にしないだけで、同じ思いをしていたんじゃないかな? 私だってそうよ。最近はテレビや新聞やネットを見れば、政治家だけでなく官僚の人達が叩かれてばかりいるじゃない。あれを見て腹が立たないはずがないでしょう」

「そうなのか?」

「そうよ。それにあなただって立場上言わないだけで、本当は心の中でそう思っているんじゃない?」

 そんなことは無いとも言い難く、何と答えていいか困り言葉に詰まっていると、彼女が急に話題を変えた。

「ねぇ、小学校の同級生のはなちゃんって覚えている?」

「華ちゃん? そんな名前の子がいたような気がするけど、よく覚えてないな」

「そうなの? アックンって華ちゃんの事が好きなのかなって思っていたんだけどな。本当は覚えているんじゃないの? だって小学校四年生の時、あの子が女子の間で苛められていたのを止めたことがあるじゃない」

 そう言われると徐々に頭の中に小学校時代の事が蘇り、教室の風景が浮かんできた。

「ああ、思い出した。そんなことがあったね」

「そうよ。華ちゃんが囲まれて困っている時、アックンが苛めなんてカッコ悪いからやめろよ、って言ったのよ」

 ぼんやりとしていた記憶が少しずつ鮮明になっていく。

「そうだった。確か教室で他の男子と遊んでいる時、直ぐ近くでおかしなことをやっているから腹が立って、そんなことを言った気がする。苛めていた奴の中心にいた女子は何て言ったけ。そいつが嫌いだったから、思わず呟いた程度だったんだけどね」

「やっぱり覚えていたんじゃない」

 意地悪そうに笑う彼女に、木下は慌てて首を振った。

「いや、あれは別に華って子が好きだったからじゃないよ。どっちかといえば暗い感じだったから苦手だったと思う。苛められやすいタイプだったんじゃないかな。おかげでその後、俺が攻撃されたんだよ。五年になる時クラス替えで離れるまでずっと絡まれていた覚えがある。黒板に相合傘でその子と名前が書かれたり、トイレで大の方をしていたら、女子なのに男子の方まで入ってきて、臭い臭いとか言われたりしたんだ」

「そうそう。私はあの時、別のクラスだったけど話だけは聞いていたから、本当に好きだから苛めを止めたのかと思ってた。でもアックンは完全に無視していたよね。何をされても平気な顔をしてた」

「あの集団だけだったからね。男子でも一部では好きなの? とかからかってくる奴はいたけど、大抵は何も言わない奴が多かった気がする。だから平気だったんじゃないかな」

「アックンはあの頃から頭が良かったじゃない? 勉強ができて周りから一目置かれていたからだと思うな。宿題を見せてあげたり、分からない所があったら教えてあげたりしていたでしょ。私も同じクラスで隣の席になった時、助けて貰ったことがあるし」

「そうだった。だから男子で一番の悪ガキには気に入られていたよ。だから苛められなくて済んだのかもね。でもそんな昔の事、よく覚えているな」

「それはそうよ。あの頃は真面目だけでなく正義感が強くて、人に優しかった。まだアックンのお父さんが事故に遭う前だったからかもしれないけど」

 胸がドキリとした。急に鼓動が激しくなる。彼女はそんな木下の様子に感付いたらしい。

「ごめんね。嫌な事を思い出させちゃって。でも元々アックンはそういう人だったことを思い出して欲しかったの。母親と二人で生活するようになってからは大変だったと思う。あれから少し人が変わっちゃったのは、仕方がないことだとも分かっている。でも私があなたの事を好きになって結婚したのは、そういうことも含めてだから。今のように堅実なあなたも、本当は芯の強い人だということも知っている。佐倉さん一人に任せず会議室の資料の片づけを手伝うと手を挙げたのは、あなたの正義感からじゃないの?」

照れくさくなった木下は、顔が赤くなるのを隠す為に俯いた。それでも彼女は話を続けた。

「ここ最近あなたが生き生きしているように見えたのは、そういうことだと思う。だから遠慮なんかしないで思いっきりやればいいのよ。別にいいじゃない。出世が見込めなくても死ぬわけじゃないし、クビになったからってあなたなら大丈夫。いざとなれば私だって働けばいいんだもの。まだ子供もいないし何とかなるって」

 彼女は木下との結婚を機に、働いていた大手損害保険会社を退職して専業主婦になった。しかし今の時代を反映してか保険会社も働き手不足らしく、OBの再雇用を積極的に行っているらしい。最近も彼女のかつての同僚から、直接誘いの電話があったと聞いていた。

 これには木下も慌てて顔を上げ、言った。

「おいおい、怖いことを言うなよ。クビになんかなってたまるか。なんの為に国家一種試験に合格して官僚になったと思っているんだ。生活に困るようなことはしないさ」

「だからって、自分の心に嘘をついてまで仕事をするのはやめてよ。そうやって流されていくうちに罪を犯すくらいなら、出世なんかしなくていいからね。それに心を病んだり上司をかばったりして自殺するような人には絶対なって欲しくない。目立たなくていいし堅実なのはいいけど、私達に胸を張れないような仕事はしないで。今あなたがやっている事は、とても大事な事だと思う。だから勇気を持って取り組んで欲しい。それはあなた自身が一番分かっているんじゃないかな」

 彼女にここまで言われたのは初めてだ。仕事の話は当然ながら、心の中に抱えていたことをここまで見透かされているとは思いもしなかった。そしてこんなに彼女が頼もしいと感じたこともない。

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