木下の憂鬱~1
峰島検事達の聴取をすべて終えた後、課長の立ち合いの元、木下は佐倉さんと二人で手分けをし、広い書庫を再度徹底的に探すことになった。大量の書類が収められている中、二人だけでの作業は正直厳しい。それでも外部に漏らしてはいけない案件だったことから、やむを得ず半分に分けて行ったのだ。それを課長が適正に進めているかをチェックしつつ、他の職員に立ち入らせないよう入り口で監視していた。
だが相当な時間を費やしたにもかかわらず、B会議室から運び込んだ段ボール箱の中で蓋が少し破れているものが見つかった以外に特別なことは無く、資料は発見されなかった。さらに地下の駐車場の防犯カメラもチェックし、大飯さんや間中が写っている個所を何度も繰り返して見た。しかし二人の証言通りだったことは明らかになっている。他におかしな動きをした人物もいなかった。
まだ甲府からは再作成されたとの連絡は無い。その為木下は佐倉さんの助言を受けながら、書類紛失事件の調査報告書を作成し終えた。そして今日の夕方、課長に目を通して貰った上で局長へ提出した所である。その結果、明日からは通常業務に戻るよう言われたのだ。
しかしその間ぽっかりと時間が空いてしまった。間中達から仕事の引き上げについて打ち合わせしようとしたところ今日だと切りが悪いと言われ、明日の朝から引き継ぐ事になった為だ。
そこで休憩がてら省内の自販機でペットボトルのお茶を購入した木下は、何気なくB会議室へと足を向けた。そこでは峰島検事が一人で籠り、起案書作りに専念しているはずである。すると気分転換の為に部屋から出ていたのか、手には買ったばかりらしいペットボトルの水を持ち、会議室の鍵を開けて入ろうとしている姿が見えた。
木下が気付いたと同時に、検事もこちらを向く。そこで会釈すると、声をかけられた。
「休憩ですか。私も今そうしようと思っていた所です。どうです。中で少し話しませんか」
断る理由もないため頷き、後に続いて部屋の中に入った。彼は念のために中からも鍵を掛けていた。中には大事な資料がある為、外へ出る時も含めてそうしているのだろう。積まれた資料の脇の椅子に腰かけるよう促され、彼と向かい合わせに座った。
長い間、一人で黙々と作業しているせいだろう。顔色は疲労を隠せていない。ペットボトルの蓋を開け、水をぐびぐびと飲むと大きくため息をついていた。
木下も彼に合わせてお茶を飲む。そこで尋ねられた。
「調査の方は、まだ時間がかかりそうですか」
「いえ、先程報告書を課長と局長に提出しました。後は甲府からの連絡待ちです。明日からは通常業務に戻れと言われました」
「そうですか。ご苦労さまでした」
「いえいえ、検事の作業に比べればたいしたことはありません。そちらの進捗具合はいかがですか?」
積まれた資料の山を横目で見た彼は、苦笑しながら言った。
「確かに目を通す資料が多いので大変ですが、なんとか六~七割程度は終わらせました。あと二、三日もすれば残りの資料が届くでしょう。それまで最後の詰めの作業に入れるよう、スパートをかけているところです」
「大変ですよね。私達の仕事でも大量の資料に目を通すことはありますが、お一人でやられていると気が滅入りませんか」
「正直、時々そう思うこともあります。しかし起案書作りは、局長付の検事が一人で行うと決まっていますので仕方がありません。それに周りから遮断されていた方が集中出来ますから」
「そうかもしれませんね」
しばらく間があったので再びお茶を口に含む。彼も水に口をつけていたが、気まずい沈黙が続いた。報告書は既に提出済みなので、今更書類紛失の件について話すのも妙だ。といって何を話そうかと話題に困った木下は、彼の経歴について尋ねてみた。
「そういえば峰島検事のお家は代々、政治家になられていると伺いました。検事も将来的には立候補されるのですか」
しかしこの話題は余り触れられたくなかったのか、眉間に皺を寄せて話し出した。
「たしかに幼い頃からそう言われています。ただそれまでに学歴も社会的な経験も必要だと、勉強もしっかりさせられました。しかし祖父の後を継いだばかりでまだ若かった父の背中は、いつも頭を下げてばかりでしたから正直気乗りはしなかったですね。それでも時が経つにつれて、先生や社長と呼ばれる多くの人達が、頭を下げにやってくるようになりました。そんな父を誇らしく思い、自分もやがて祖父や父のようになりたいと思えるようになったのは、ごく最近のことです。それまでは検事のままか、やがては弁護士になろうとも悩んだこともありましたから」
「そうでしたか。でもどういうきっかけで政治家も良いと思われたのですか?」
するとさらに彼の表情は険しくなった。
「近年続いている国会での馬鹿げた騒ぎです。国有地を不当に売却したとの噂から始まった野党の追及は、やがて公文書の改ざん問題や隠ぺい問題へと発展しています。しかし政治家は誰も責任を取らず、挙句の果てに全て官僚に罪を擦り付けて、辞任させていきました。そしてそれらの官僚も政治家達を守るように、口を塞いだままです。木下さんもご存じでしょう。そんな様子を見せつけられ、私は同じ国家公務員の一員として、恥ずかしく情けない想いと怒りで一杯になりました。一時期は国を動かす人間の一人だった父も、再び野党となり分裂も経験しました。年を重ね過ぎた今となっては衰えつつあり、巨大与党の愚かな政治家達を排除する力も無い。だからいずれは力を持っていた頃の祖父や父のような、国の為に働く政治家に転身することも悪い選択ではない。そう思うようになったことは事実です。だからと言って、今すぐどうこうするつもりはありません」
「そうでしたか。噂ではそろそろ地盤を継ぐのでは、との話も聞きましたが違うのですね」
そこで彼はふっと笑った。
「今回の疑わしい人物達の背景まで、調査をしていたようですね」
手の内を明かしてしまったと、軽率な発言に思わず頭を下げた。しかし彼は意外なことを言い出した。
「父の跡を継げば、確かに応援してくれる人達は一定数います。だから検事を辞めてもなんとかなるでしょう。万が一落選しても、弁護士になったって良い。今の職を辞して転身し、開業すると同時に身を立てる方法もあります。ただそれでは父が若い頃に経験したような、下積みから始めることになるでしょう。しかし今そんなことに時間をかけている場合ではありません。よほど知名度があるか、転身と共に敵の足元を揺るがす大ネタでも持っていれば大きな武器になり、政治家になることも考えるでしょう。それでも勉強は必要です。まだ私には学ぶべきことが沢山あるし、経験も足りない。今の状況で政治家に転身するのは、時期尚早だと思っています」
「そういうものですか。しかし若くして大した経験や知識も無いのに、知名度だけで立候補し、政治家になっている人達は山ほどいると思いますけど」
皮肉った木下に彼も同意しながら語り出した。
「確かにいますが、そんな有象無象な
木下は自分が非難されているかと思い、どきりとした。今の所仕事上でおかしなことはやっていないつもりだ。しかし佐倉さん程正義感も強くなく、大飯さんのような上昇志向など持っていない。堅実過ぎて面白みがないタイプだと言われたこともある。そんな自分でも今の職場で長く働いていれば周りに染まり、これまで問題を起こしてきた官僚達と同じようになってしまうのだろうか。
峰島の問いにどう答えていいのか分からず黙っていると、彼は言った。
「これまでは醜い派閥争いや不祥事により、トップや大臣がコロコロと代わる愚かな政治家達の代わりに、優秀な官僚達が国を支えていると言われてきました。それが今やどうです。人事権を握られ与党が絶対的安定多数の勢力を持ったことで、長期政権が続いています。その為なのかこれまでの関係が、完全に逆転してしまいました。同時に長らく保持してきた既得権益を守るため、モラルの欠片も無い傍若無人な振る舞いを、政治家も官僚も続けています」
これには頷かざるを得なかった。さらに彼の熱弁は続いた。
「天下り先の確保から補助金をどこに出すか、公共工事業者の選定する権限等、己達の持つ特権を利用した汚職も後を絶ちません。障害者雇用を水増しした不正問題などもそうです。民間企業には罰則規定を設けて置きながら、模範となるべき国や自治体などが法を守っていない。国の制度を守るために、必要悪として止む無く行ったと言う類の犯罪なら、多少同情の余地もあるでしょう。しかし彼らは己達の私利私欲のために、罪を犯しているとしか思えない。しかも同じ罪でも一般の人達が犯すものとは意味が大きく異なることを、彼らは全く理解していません。彼らも私も、国民から集めた税金によって収入を得ています。だからといって国民に
以前佐倉さんと飲んでいた時にも似たような話をされたことがある。しかし現状は全く違う。対価分の仕事をしているどころか、期待を裏切り国民の生活を危うくしている。特にここ数年の官僚は、信頼を損ねることばかりしていた。
しかも選び抜かれた国のトップであるはずの、自分も含む官僚達の体たらくと理不尽な態度は、後に続く優秀な人材の将来像をも汚している。その罪はとてつもなく大きい、と自覚はしていた。
佐倉さんも良く言っていた。新聞やテレビ、ネットニュースで流れる愚かな行為を見せつけられる子供達は、こんな大人達を見てどう思うのか、と。自分の親や学校の先生達よりも地位が高いと思われる人達が、平気な顔をして社会のルールを破っている。
嘘は泥棒の始まり、人の話を聞く時の態度には気を付けろ、間違った場合は素直に謝ること、人を苛めるな、差別をしてはいけない等など。誰もが幼い頃から当たり前のように学んできた事ばかりである。
しかし国を代表する人達が、当然のように踏みにじる姿を見せつけているのが現状だ。正直者は馬鹿を見る、自分にとって都合の悪い人の話は聞かなくて良い、なんならヤジを飛ばすか力でねじ伏せて黙らせろ、間違いを犯しても簡単には頭を下げるなと言わんばかりではないか。
さらには力が無いから苛められるのであって、苛める側の人間になれ、人間は決して平等ではないから差別は当然等と堂々発言する輩もいる。当たり前のように警察官が人を殺したり、教師が生徒にわいせつ行為や暴力を振るったりするような社会なら、国民やその生徒達は誰も信じることなど出来なくなるだろう。
特に子供は親の背中を見て育つともいう。同じく国を代表する者の振る舞いは、そこに住む国民達の民度に影響を与えるとの自覚を持たなければならないのではないか。しかしそれができていないどころか、意図的に民度を下げようとしているとしか思えない。
現実の社会は目を覆いたくなる振る舞いばかりが目立っている。一方で日本は世界に誇れる良い国だと宣伝する。外国人観光客を多く招いて、国に金を落とさせるが難民はほぼ受け入れない。といって少子高齢化などによる働き手の人材不足を解消するために、海外からやってくる人達を安い賃金で働かせ、そして使い捨てにする。
その上大量に国の金で株を購入して株価を安定させ、円高を食い止め絶対的な安定多数の勢力を武器に、マスコミなどの口を封じてマイナス要因は出来るだけ流さない。プラス要因は大々的に流布させ、経済的には安定または順調に成長していると見せかける。
ただそれもここ最近に起こったと統計不正問題が明らかになったことで、メッキがはげかけて来た。しかしこれでようやく国民も目を覚ますかと思えばそうではない。悪いのは与党ばかりだとも言い切れないからだ。野党もまた非難ばかりで決定的な代替案を示せず、分裂に分裂を重ねることで国民からの信頼を損ねている。
ただでさえ日本人は、政治に関心を持たない人達が多いと言われてきた。さらにはお上に対し、奇妙な位に無条件で信頼している人達も少なくない。その上、皆日々の仕事と己の生活を維持することで必死だ。
その為だろう。目の前の経済さえ良ければそれで満足し、先の事まで見ている余裕はないと考える人達が一定数いる。そうした人達が多い事を利用し、政治家や官僚達は国民を馬鹿にするような言動など慎むことも考えていない。そして絶対的権力さえあれば、何だって出来てしまうことを容認させているのは国民自身なのだ。そういう間違ったメッセージを発信し続けている現状は、絶対に阻止しなければならない。
その為には一人一人何が正しいかを見極める力が必要で、対抗する個人も力を持たなければならないのだろう。しかし悲しいかな、綺麗ごとだけでは通用しないのが今の社会だ。矛盾しているがそれを変えるためには、敢えて泥を被ることも必要だと思う、と佐倉さんは酷く酔っぱらう度に熱弁をふるっていた。
しかしこれまで木下は半ば白けながら聞き流し、深く考えようとしてこなかった。だが峰島の話を聞いて少し分かる気がした。木下は小学校を卒業する間際に事故で父親を亡くした為、長い間母子家庭だった。父が残した死亡保険金などでそれなりに生活は出来たが、決して贅沢など出来ない環境だった。
そうした事情もあって、常に安定した生活を求め必死に勉強をして国立の大学へと進み、公務員試験を受けて官僚になった。父の突然の死を受け、今日あることが明日も続くとは限らない現実を目の当たりにしたことで、臆病になってしまったからかもしれない。または母親が苦労している背中を見て育った影響もあるだろう。
そうした育ちから身に染みた性格は、なかなか変えられるものでは無い。その為冒険はせず、無難な道を選んでばかりいた。恋愛経験も碌に無いまま、昨年近所に住む気心が知れた幼馴染と結婚をしたのもそうだ。穏やかな生活ができればそれでいい、と思って生きて来たのである。
だからといって、仕事などに対してやる気がない訳ではない。時には佐倉さん達に刺激され、正義感や使命感が湧くこともあった。しかし出る杭は打たれる怖さが先に立ち、なかなか先頭に立って突き進むことができない。そんな自分の性格に正直苛立つこともある。
今回の件についても、急に会議室を片付けろと課長に指示されている佐倉さんの姿を見てそれは余りにも酷い扱いだと思い、手伝いを買って出た。あの会議室で作業していたのは自分も含め、佐倉さんより後輩の職員が他にもいたからだ。
それなのに課長が理不尽な理由で佐倉さん一人に仕事を押し付けていた。それが許せなかったのである。しかしそれが災いしてか、大きな問題に巻き込まれ調査する立場に立たされてしまったのだから、やはり余計な事はすべきでなかったのかもしれない。
それでも佐倉さんや峰島検事の言う、公務員としての矜持はわずかながらだが自分にだってある。何か起こった際に対する隠蔽体質や、意味を理解しないまま上が行うことに従う、前例のない事はしたがらない役人気質に、腹を立てたことも何度かあった。
しかし正しい事を正しいと言えない空気に押されてしまい、流されてしまう自分がいたことも確かだ。それでいいのだろうか、どこを向いて仕事をしているのだろうかと自問自答したこともある。だからこそ今回の調査を手伝っていく内に、言われた事だけをコツコツとやるいつもの仕事とは真逆の為、心が熱くなる瞬間が何度か感じていたのだ。
自らの頭で何が必要か、何を優先してどうやって動けば効率的かを考えてきた。そして実際に行動し、その結果を分析して報告書を作り、再び次に何をすべきかを思案する。この繰り返しこそが遣り甲斐なのかもしれないと思い始めていたところだった。
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