背油のシズカ

 三代目の入院は山谷によって却下された。

「おれたちのような人種は入院する権利がない。常になにかに狙われてるからな、乗り込まれれば病院に迷惑を掛ける。お前も中山を潰したことでそういう面倒事を背負う男になった」

 李金印リ・キンインの通訳によると、そういう内容だった。李いわく入院費をケチりたいだけらしいが三代目も入院はしたくなかった。なぜだか山谷家の人々といたかった。

 中山との激闘から三週間。病院で治療を受けたあとは、家で真智子や澪の介抱を受け、ゆっくりと回復に向かっていた。

 ひねり潰された腕には硬く分厚いギプスが巻かれている。もっとも重傷だった箇所である。腹部のダメージも大きく、完全回復まではまだまだ時間が掛かりそうであった。

 真智子は道場経営、澪は学校へ。家に残ったのは三代目とプーの山谷だけという昼下がり。李を交えて、三人は核心に迫る会話をしていた。

 なぜ強くなる必要があるのか、という話である。

「随分と回復してきたようだから訊くが、なぜそうなるまで中山とる必要があった? 強くなりたい、それはなぜだ」

「強くなって、ぼくはやっと人間になれるんです」

「弱いから人間なんだぞ」

「違います。僕は中米のポポアック家に生まれました。ぼくのおじいちゃんの代から家は武ひとつで成り上がり、その娘……ぼくのママでもって世界最強の一角として語られるに至ったんです。ポポアックというブランドは強くなければならない、そういうことになってしまいました。ぼくは強くならないと家の者とは認められず、名前すらも与えてもらえない。それに、ママに抱っこもキスも……してもらえません」

 寂しそうに、三代目が言った。

 彼は家を呪っていた。ヒステリー気味で、そして中山以上にいちじるしく人間性を欠いた母親のことを憎んでいた。だが母は母、そのイカレた母しか母はいなかった。愛されてみたくもあったのだ。

「家の者になり、母に愛されたら……ぼくはやっと人間です。この世に存在する人間です」

「ああ、そう」

 李のまじめな通訳を聞きながら、山谷はぶっきらぼうに反応した。どこか遠い目をしている。

「戦うのは……正直言って、好きかもしれませんが。残念ながら、それしか知らないんで。山谷さんもそうでしょ?」

「ン……? はは、そうかもな。残念……ホントに残念だよ」

 残念。三代目が戦うことをやめられないと話したことに対してだろうか。

 いやそれは違う。山谷の目が沈むような寂しい目に変わっている。自分の血に対して残念と言ったらしかった。

 無事に済んだ右拳を握って、山谷に向かって振ってみた。カッターナックル、三代目は新技をおもむろに走らせたのだ。

 まったく流れに乗っていない奇襲にも関わらず、山谷はなんでもなさそうに拳の方向に首を振って、斬撃を無効にした。高度なスリッピング・アウェーである。

「すごい……」

「いきなり攻撃して来る奴があるか」

「ごめんなさい。我慢できないバカなんです、ぼく。山谷さんなら技を受け止めてくれると思って……甘えちゃいましたね」

 はにかんで、言う。山谷も微笑した。

 山谷の過去とはどんなものだったのだろう。なぜ、そこまで強くなってしまったのだろうと思う。考えていると、山谷が顔を上げて、

「ボウズ、ラーメンでも食いに行くか」

「らあめん」

「李も行くか?」

「よかった、感情を持たない通訳機だと思われてるんじゃないかと心配になってたネ!」

 山谷が部屋のドアノブに手を掛けて「自分で歩けよ」と、ベッドに横たわる三代目に言った。

「自分で歩けってさ」

 李が教えてくれたが、そういうニュアンスだとは思っていたので答え合わせに近かった。

 少しずつ言語の壁が薄くなってきているのは、郷に入ったことと、負傷して動けなくなった分だけ『Study Japanese』を読み返していたことだろう。

 三代目はひとつに生真面目になれる少年であった。


 山谷と李のうしろを、肉体を軋ませながら松葉杖を突いて必死に追った。

 電車に乗り、西武池袋線から山手線に乗り換え、中央線を中継して中野で降りた。らあめんとやらを食べるには、いささか遠い距離を移動しないといけないらしい。

「ここだ」

 駅からしばし歩いて、綺麗とは言いがたい川に架けられた橋を渡ると、その店が現れた。

「らーめんしずか」と印刷されたボロボロになった死に体の看板。やけに細長く幅の狭い店構えは、建物と建物の隙間を埋めるために無理に建てたかのような場違い感がある。薄汚い赤色をした壁は、ところどころ塗装が剥げており、まるで忘れ去られた山奥の郵便ポストである。

 せめて内装くらいは綺麗であってほしかったが、足を踏み入れてみると綺麗だとか汚いだとか以前に、テンションが下がる。

 回転寿司のスシゾーとは逆にひどく暗い。三代目は、小さいころに近所の老人の葬式に立ち会ったときと同じ気持ちになりながら、カウンター席に座った。

「しずちゃんらーめん、三つ」

「あと餃子を二人前ネ」

 カウンターの向かい側、厨房に立つ顎の割れた店主らしき男に、山谷と李が注文を入れた。

「注文の確認をさせていただきます。しずちゃんらーめん三つ、餃子二人前、唐揚げストリーム、バケツプリン祭り、お子様らーめんセット十個、怒りのチャーハンセット十個、生ビール三つ、枝豆三粒。以上でよろしいですか?」

「よろしくねーよ。この店秘伝の継ぎ足しスープ鍋にサンポール入れるぞ」

「ごちゃごちゃ抜かすな、山谷」

 店の奥から抑揚よくように欠けた女の声がした。

 三代目が見てみると、厨房の奥の椅子に座る影がある。黒を基調としたゴシックな雰囲気のドレス。かわいらしいフリルが、店と大幅に浮いている。顔の前に新聞紙を広げているが、今の声とその服装、体の線の細さからしてかなり若い。

「どうせまたオレから情報を買いに来たんだろう。だったらそんだけの料金は払ってもらわなきゃな」

 新聞紙が下ろされて、人形のような顔が出てきた。きっちり揃った真っ黒のボブカット、光のない目とその周りに施された赤メイクが病的な印象を抱かせる。澪と歳は近そうだ。

「あれが店長のシズカ。人呼んで『壁耳のシズカ』……東京イチの情報屋ネ」

 李が耳打ちしてきた。

 情報屋なのはいいが、なぜその恰好でラーメン屋なのだろう。

「ラーメン業界では『背油のシズカ』と呼ばれてるネ。背油を入れさせたら、あの人の右に出る者はいないヨ」

 それは死ぬほどどうでもいい情報である。

「喧嘩師の中山を路上で倒した三代目ポポアックまで連れて来て、なんの情報がほしいんだ」

「ボウズを連れて来たのは、ひとりにするわけにもイカンかったからだ」

「その子を狙う奴は今のところはいない」

「そらいい情報だ」

「五千円ってところか」

「サービスにしろ。おれが欲しい情報の本命は、次に開催されるマッチについてだ」

「珍しいな。アンタが観戦なんて。まさか参戦か?」

「バカ言うな。このボウズに見せてやろうと思ってな」

「ふうん。オレからすればどうでもいいが……五万だ」

「一万で売れ」

「やなこった。四万でいいだろう」

「二万まで落とせるだろ、おれは常連だぞ」

「いつもラーメン一杯しか頼まんケチな客には三万までだな」

「背油が多過ぎる、おれも若くないんでね。二万三千」

「二万五千だ」

「払おう」

 ダンとカウンターに山谷が二万円と五千円を叩きつけた。

 シズカがやっと椅子から立って、差し出された金をポケットに入れた。彼女のうしろで顎の店員はラーメンの湯切りを行っている。

「日時と開催地とメンツを教えろ」

「今夜、バーニングムーン・マッチが開催される」

「バーニングムーン?」

 李が水を飲んでから訊いた。

「今夜のマッチは名前がついている」

「ということは、メンツが豪華なのか」

「どういうこと?」

 話についていけず、三代目が隣の李に質問した。

「山谷が言ってるマッチっていうのは裏の試合のことネ。不定期で開催されてるんだけど、基本的に名前はないんだよネ。ほら、総合格闘技だとPRIDEとかDREAMとかイベント名があるけど、そういうのがない。ノールールにはノーネーム。そういうことヨ」

「うん」

「でも今回は『BMM(バーニングムーン)』って名前がつけられてる。要するに大物の試合が組まれてるから注目度が高いってことネ」

 ぐいと興味が引かれた。

 東京の裏でやってる格闘イベントとは、どうしようもなくおもしろそうだ。山谷はそこに連れて行ってくれるのか。わくわくが膨らんでいく。

「午後十時から後楽園ホールで計三試合。船坂軍曹VS.マシンガンペニー、根来の九意VS.木村鬼雅、ウッドマンVS.ヘクセン」

「ほお、たしかにいいメンツだ」

「癖の強いのが揃ったネ」

 山谷と李がうなずいた。まったく知らない人物の名ばかりだが、ふたりを満足させる足る闘士であるらしい。

「お待ち」

 三人の前にしずちゃんらーめんが順に並べられた。

 これがらあめん。香ばしい香りと熱気に食欲がわいてきた。わいてきたのだが、パッと見ではほぼゴミであった。背油が多過ぎて、油以外のなにも見えない。どんぶり周りにも油が付着していていてゲロバケツのようだ。最悪のビジュアル……なのに、腹は減る。不思議体験である。

 割り箸を割って、澪から教えてもらったとおりに使う。戸惑いながらも箸を油の沼に突っ込むと、奥になにかあるのがわかった。引き上げると、麺が伸びてきた。一口食べてみる。

「ンっ!」

 うまい。

 容赦ないコクとこってりとした旨味が津波のように押し寄せる。その癖、どこかあっさりしており食べづらいということがない。くどくない。喉を流れてゆく。

 次の一口にいきたい! そう思わせるのは、ちょっとした辛さがアクセントになっているからかもしれない。止まらない。

 三代目はずるずると麺をすすり、スープをレンゲで掬って飲んでは「まるでぼくはガソリンスタンドの給油機だ!」「豚の餌だこれは!」と心の中で叫ぶ。背油のシズカは天才だ。背油マッドサイエンティストと言っても過言ではない。

 ひとり燃える三代目の横で、バーニングムーン・マッチの詳細語りはつづいていた。

「後楽園ホールって、そんなメジャーなところでやるなんてネ」

「普段はどっかの倉庫とかなのにな」

「特別ってことだ。入場料もいつもより高いぜ」

「いいメンツだが、そこまで盛り上げるほどか?」

「メインは三つの試合じゃない。ゲストがいる」

「誰ネ?」

「稀代の夢想家」

 山谷と李が驚愕の表情を浮かべて、機能停止した。

 しずちゃんらーめんに夢中になっていた三代目も、場の雰囲気が変わったのを察して「どうしたの?」と訊いた。

 稀代の夢想家……そう聞こえた気がする。どこかで聞いたふたつ名のような気もする。

「本当に来日するのか」

「オレの情報筋によれば、もう日本に入ってるらしい。偶然……彼女が旅行に来ると知った今回の主催者は、無理を通して彼女を招待した。是非に来てくれと懇願したそうだ。金になるし――」

「なにより、あの稀代の夢想家を間近で見たい。誰もが思うことネ」

「界隈のほかの連中も騒いでるんじゃないのか」

 渋い顔で山谷がラーメンをすすった。ギラついている。

「この東京でなにかが起こるだろうな。史上最強の破格が降臨したことで周囲が勝手に発火する。裏社会は血生臭くなるな」

 と言って、神妙そうにする山谷と李からシズカは目線を解き、三代目のほうを向いた。カウンターに肘を突いて、顎の上に掌を乗せている。目だけ笑いながら「おいしいだろ、オレのラーメン」と色っぽく言った。

 三代目は縦に首を振って、カロリー爆弾の汁をグイと飲み干した。

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