三代目ポポアックvs.喧嘩師中山
身長約一四〇センチ、体重約三五キロ。それが三代目の大体の大きさである。彼は小学六年生の歳だが、日本の小学五年生の男子、その平均より少し小さい。
対する喧嘩師の中山の身長は二〇〇センチを超えているだろうか。体重も一〇〇キロでは利かないはずだ。筋肉質な巨漢である。
この身体的な差は、格闘の場において絶望的と言わざるをえない。
身長があれば、リーチの長さで有利を獲れる。遠心力を攻撃に加えることができる。ガードに融通が利く。骨の量がそもそも勝る。
贅肉ではなく筋肉を柱とした体重があれば、攻撃の威力とスピードや踏み込みにも関係する。もちろんのこと、防御力や耐久性にも箔がつく。
では、その差は埋めようがないのか。それは違う。そのために技があるのだ。あらゆる闘争を想定して、連綿とつづく歴史の中で人間たちは技を編みだして習得してきた。肉体のハンデをも乗り切れるような技の体系を模索しつづけてきた。
しかし……しかしな点は、それにも限界があるということだろうか。
垂直に跳躍し、中山の顔面を蹴り飛ばして軽く着地した三代目が感じたこと――今の一撃がなんの効果も、相手に与えていない。決して甘い攻撃ではなかったのに、それが通っていないと直感した。
接地してすぐに構えを取った。取りながら、三倍を超える身長差と体重差の難しさを実感し、冷や汗を垂らす。
ルールのある格闘技。たとえばボクシングなどは有名だが、特に体重差を覆すのが非常に厳しい。一定のルール下での試合なら、二倍差でももってのほか。論外だ。一〇キロ差で明暗がわかれ始めるのだから当然のことであろう。
――ルールの
「バーリトゥードでタッパの差を語る奴は三流だ」
彼の母、二代目の言葉が鮮明によみがえった。ノールールなら相手がゴジラでも殺せる。バナナを食べながら「げははは」と笑って、あの強き母はそう言った。
三代目がニタリと笑った。
「サン美ちゃん、なにやってんの! すみません、中山さん本当にあばぼ」
謝罪しようと前に出た店長が、中山に跳ねのけられた。わあーと悲鳴が上がり、客も店員も店から緊急避難しだした。中山と三代目と真智子、気絶した店長だけがシンとして残された。
「サン美……サンミーかなにかか?」
「サンミー?」
中山が唐突に言い出した台詞に、三代目はオウム返しした。
「菓子パンのことを言っているのか」
真智子が平然と席に座りながら言った。
「関西ローカルの菓子パン、サンミー。クリームとチョコとケーキ生地をパンでサンドした一度で三度おいしいサンミー。関東人ですら知らん産物なのに、外国の少年が知るわけもあるまい。……そしてこれは余談になるが、ごくまれにヨンミーも店頭に出現する。百個に一個の割合、超レアな一品でな。みかん味のなんかや抹茶味のなんかが追加されて一度に四度おいしいヨンミー。これは関西人でも約六割は存在を知らん。なぜならほぼ店頭に並ばないからだ」
「ババア、誰だテメー」
「山谷真智子、十四歳」
「死ねやババア」
早口で語った真智子の解説らしきものはまったく理解不能で、OKとしか言いようがないが、そんなことよりもじりじりと中山の闘志……否、殺意が空間を歪めていっているのを三代目は肌で感じていた。
「おれの部下をヤったの、お前だろ。サンミー」
「……」
「変な一家、特にガキにやられたから中山さん殺してください……って頼まれてよ。だけどなぁ、おれァそんなガキの相手するほど暇じゃねーからよォ……レイプの最中に邪魔されて頭に来たからよォ~、三人カタして……『テメーらで始末つけろ』っつったのに、全員ボコボコにされて帰って来やがってからに。いらねーなー、使えねーよなー……ぐふ。ぐふふ。興味なかったんだがなぁ、そっちから生意気な蹴りくれちゃってまぁ……女児をひねるのもな、たまにはいいかァ」
愉悦の表情でぼそぼそつぶやくと、中山が拳を振った。
ぶんと左側から風を切る音がして、三代目はすかさず構えを落として左腕を下ろし、ガードした。衝撃が走る。横からのパンチを食らって、三代目が吹き飛んだ。壁に叩きつけられる寸前に体勢を変えて、両足で壁を蹴る。回転しながら、テーブルの上に着地した。
ウィッグを掴んで、床に叩きつける。邪魔だ。
中山が驚いた様子で、
「お前、男だったのか」
「男だよ」
「チンチンついてんのか」
「OK!」
「女装趣味の変態ショタ、そういうことか?」
「OK!」
「そのOKもうやめとけ!」
真智子がツッコむのを合図としたように、中山が走り出した。
アッパーカットを三代目の立つテーブルの真下に打ち込んだ。テーブルが木っ端微塵に分解され、三代目も足下からの力に打ち上げられた。天井に頭が突き刺さる。
両手で天井を押して、三代目が落ちる。着地する直前を狙って、中山が十分に溜めたパンチを三代目の腹に叩き込んだ。
「ぐはッ!」
ブロックできずに押し出され、壁に激突した。反動で跳ね返り、三代目が中山のほうへ飛んでゆく。
中山は彼を逆お姫様抱っこのようにして抱え、がっちりホールドしたまま三代目の腹を膝蹴りした。
「ごぱァッー!」
胃液らしき透明の液体が、開け放たれた口から飛び散り出た。
三代目の細い足首を中山は掴むと、そのままグランドピアノに向かって投げた。激痛の中、受け身を辛うじて取り、大きなピアノに激突した。瞬間的な重さに耐えきれずに脚が折れ、ピアノが床にぐしゃと潰れた。三代目が当たった上部もへこんでいる。
「がっは……」
ダウンして、立ち上がれない。
三代目は完全にスタンしていた。
「喧嘩慣れしているな。壁のバウンドを利用した追撃など、そうそうやれるものではない」
真智子が相も変わらず、席に深くもたれたまま言った。
野獣のごとく破顔しながら中山が走り出す。三代目もピアノをさらに床に押し込んで跳躍した。空中でひるがえり、かかと落としの形になって急降下する。
かかとが中山の肩を打ったが、威力が足りない。
股に手を回され、そのまま三代目は床に叩きつけられた。
「ザコがよォ」
三代目の両脚を掴み、ジャイアントスイングのように中山が振り回し始めた。とっさに両腕を顔の前に交差させてガードする。テーブルに激突した。ガシャァン! と、爆音を鳴らしてふたりの周囲に物がなくなった。あるのは、足元に散らばる残骸だけだ。
「おらッ!」
中山が三代目から手を放し、少し距離のあったテーブルに突っ込ませた。テーブルが真っ二つに割れて落ちた。食器やガラス瓶などが粉々になって飛び散る。
「やっろお~……」
額が割れて、流血している。めまいがしそうな出血である。
フラフラになりながら立って、中山のほうを向く。
「女ならガキでも価値はあったんだがなぁ。せいぜい痛みで泣く姿を見るくらいしかねぇやなぁ」
ギヒヒと焦点の合わない目で笑い、ヨダレを垂らしながら中山が走って、三代目を真っ向から殴った。
防御が破られ、びゅーんと一直線に飛ぶ。ラウンジを超えて、カウンターを超え、店の出入口であるドアにぶつかった。
爬虫類染みたハンターの顔をしながら、中山が倒れた三代目に近づいていく。真智子ものそのそとそのあとにつづきながら、
「ブロックを崩すパワーではあるが、技とスピードには乏しい相手。勝てん相手でもないな」
ぱたたと小さな血の池を床板に作りながら、よろりと三代目が立った。
「まだ立つのか」
中山の残忍な笑顔が消えた。
ペッと血の唾を吐いて、三代目は中指を目の前の怪獣に向かって突きつけた。ぺろんと下を出して、挑発した。
これは効いたらしい。みるみる顔を真っ赤にして、中山が拳を振り上げながら突進して来た。
打たれる覚悟で三代目も前に出て、全体重を乗せた拳を中山の喉に向かって放った。
ごちゅっと居心地の悪い音がして、そのあとにばきっと砕くような音がした。
前者は中山の喉に三代目の握り拳がめり込んだ音。後者は三代目の顔面をブチ抜かれた音である。三代目はドアを吹き飛ばして、外の路地に倒れ込んだ。
「ごええっ」
苦しそうに中山がその場に膝を突いた。
「わざと挑発して、予備動作の大きいテレフォンパンチを誘発させたか」
嬉しそうに真智子が壁にもたれかかりながら言う。
「ぐわあッ!」
しばらくゲーゲーと鳴いて、涙目のまま立った。怒りに我を忘れたふうにギリギリと歯ぎしりして、中山は外に飛び出した。
倒れ伏す三代目の髪を引っ掴み、また振り回した。剛力の腕を三代目が両手でがっしりと掴み返す。そうせねば、髪ごと頭皮が千切れてしまう。
「どわあーッ!」
「くああッ!」
街灯に体をぶつけられた。バキィと街灯が曲がった。
外を歩いていた人たちの悲鳴が上がり、それなりの間隔を空けてふたりを囲む円状に人々が広がった。喧嘩だぞ、もしかして中山じゃないか、あの女の子は誰だ、と叫んでいる。
振り回されながら、三代目は親指を、中山の手首の
「ごわァーッ!」
神経を切る前に中山が手を放した。吹っ飛んだ三代目は、アスファルトに落ちると同時に回転して受け身を取った。すぐさま立ち上がる。肉体が熱い。燃えるようだ。
「加勢するか」
店から真智子が顔を出して、三代目に言った。
小さく首を横に振る。きっと手伝おうかと言っているのだと、彼女の表情を見てわかった。心配そうな光が目にある……が、それといっしょになにか「しめしめ」という怪しい光もあるような気がした。
「男の子だもんな、そう言うと思っていた」
「邪魔すンじゃねぇ、ババア!」
「少し卑怯だが、息継ぎする間を作ってやったぞ三代目。もう反撃できるだろう」
バチンと真智子が指パッチンした。
ハッとする。果たして、深呼吸を今の間に何度した? かなり楽になった。攻めることができる。それは相手もあろうが、これで仕切り直しだ。真智子に助けられたのだと思った。
「ありがとう」
日本語で、たどたどしく言う。見守ってもらえてることが嬉しかった。
「くっちゃべっ――」
中山が怒声を上げた刹那、地面に穴を開ける勢いで足元を蹴って、中山の懐に最速で飛び込んだ。言葉ではなく、目で中山が「あっ」と言った。
「くっちゃべってんじゃねぇよ」
英語で言って、ハイキックを中山の顔面にぶちかました。よろけたところに手刀でまた喉を打つ。壁に中山の背中が当たったのを確認して、ドロップキックを腹に見舞う。壁にぶつかり、跳ね返って来た。顔面を殴る。ローで重心を崩す。またハイで顔面を打つ。壁にぶつかる。跳ね返って来る。みぞおちを足場にして駆け上がり、中山の顔面にまたドロップキック。
ラッシュ。猛攻だった。
きっと今ぼくは、戦うときの母のように笑っているのだ。相手を破壊するとき、母は人間とは思えない邪悪な、毒々しい笑顔をしていた。あの怪物の息子であるぼくには、あの悪い血が流れている。暴力的な母が大嫌いで、争いなんて最悪のことだと思っているのに頬が……ゆるむ。
嗚呼、
「おわわ!」
ビシュッと中山の顔面が袈裟懸けに深く切れて、出血した。
「!?」
なにが起こった?
いきなりのことに、三代目が連打をやめてうしろに下がった。
まるで刃物で切られたかのように顔面が割れて、血がどくどくと垂れ流れている。野次馬たちのがやがやとした声が大きくなった。
「カッターナックル」
真智子が面白そうに言った。その言葉に反応して、三代目は自分の握り拳を見た。いつの間にこうしたのか、人さし指と中指の下に親指を潜り込ませて、拳に角を作っていた。
これを喧嘩でやる奴はバカだ。本気で殴ったら、中で親指が折れてしまうからだ。それを無意識にやっていた。
人さし指と中指の曲がった第二関節に血がべっとりと付着している。……これで切ったのか。打つのではなく、当てて引いた。強く、速く。
「カッターナックル……」
中山は強い。だが、真智子や山谷と比べれば遥かに格下である。だから自分と釣り合う。戦っていたらギリギリの長勝負になり、発見が生じる。
技を手に入れた。これはタッパを超える、ノールールの力そのものになりえるのだろうか――
「ガキがよォォォッ!」
集中が拳に向いていたところを中山によって捕らえられた。
「アイアンクローだ!」
外野の誰かが叫んだ。
外面をわし掴みされた。すさまじいパワーだ。ものの数秒で頭がい骨が粉砕される、予感ではなく確実に目前まで迫った危機であった。
蹴りを繰り出す。中山の股間を下から打った。金蹴りだ。
「あがばッ!」
拘束がゆるんだ。左拳も右拳と同じカッターナックルの状態に変えて、跳びながら打った。中山の喉を切り裂いた。
ぶしゅーと血を噴き出しながら中山はよろけたが、「ぐむむ」とうなりながら、振り切ったあとの三代目の左腕を掴んだ。
ぶらりと宙吊りになる。そんな身長差である。
めきめきと骨が潰されてゆく。やはり尋常ではないパワー。これも
「握ってくれてるなら……がっちり固定してくれてるなら、それでいいや」
腹筋で体を曲げながら脚を振る。強く固定されているのだから、一分のブレもなく蹴りを放てた。敵のロックを利用した反撃である。
振ったつま先が中山の左目に届く。グチョと柔らかい感触が伝わってきた。左目を潰した。
「うわ!」
誰かの吐く音が聞こえた。
「クソがよォーッ!」
中山はひるまなかった。べきりと腕が握り潰された。耐えがたい激痛に襲われ、三代目が悲鳴を上げた。ぎゃあああああ。泡を吹いて暴れる。
パッと掴んでいた手を放し、中山が三代目のみぞおちにあっぱーを叩きこんだ。血とゲロをまき散らしながら、三代目が吹っ飛び、壁に衝突して倒れた。
「ぐおおッ!」
雄叫びが耳に入った。このままダウンしていたら頭を踏み潰されて、死ぬ。
「ぎひい~!」
涙を流し、鼻水を垂らし、泡を垂らし。立つ。
暴走機関車のように突っ込んで来た中山に、右のカッターナックルでアッパーを放つ。中山の顔面の正中線を切り上げた。べろべろと二股になった舌を躍らせながら、中山がずうんと仰向けになって倒れた。
ここで終わらせないと負ける!
腕挫十字固で中山の腕を折りたかったが、自分の片腕はすでに死んでいる。できない。ならばと跳んで、思いきり地面にぺたんと伸ばされた中山の右腕に向かって落下した。全体重を乗せて、腕の柔いところを――
「ッしゃぁッ!」
べきり。
ぐわあああと叫んで暴れる中山に振り回され、軸が合った瞬間に顔面を蹴り飛ばされた。チカチカと視界が点滅する。鼻血が弧を描きながら噴き出て、歯が空を舞っているのが見えた。
石の壁にべちょりと背中をつけて、三代目はただただ震えていた。死なないように必死に、現世に留まろうと戦っていた。気絶したら死ぬ、そう感じるのだ。
もし、中山がまた向かって来たら迎え撃てる気がしない。立たれたら、負ける。殺される。ぶふーっぶふーっと息をしながら、三代目は完全に冷静を失っていた。
「あ、がが……」
中山が立とうとしている。
やめてくれ。これ以上はやれる気がしない。
残った腕で体を支えて、中山が上半身だけを起き上がらせた。白目を剥いている。血まみれだ。
「ナカヤマぁぁぁ……」
なんてガッツだ。来るか。来るのか、中山。
「さ、サンミー……お前……どんなガキだ……?」
ぶつぶつと切れた血だらけの唇を動かして、中山がズズンとまた倒れた。
もう起きて来ない。
――エキシビションの喧嘩を制したのは、三代目ポポアック……
歓声と悲鳴、言葉に出すことさえはばかれた中山という最強喧嘩師の敗北を目撃した外野たちの興奮はすさまじいものがあった。
おそらくは若者たちは中山の武勇伝だけではなく、見た目や人となりも知っていたのだろう。だが、言えなかったのかもしれない。それだけ恐れられていたのかもしれない――
三代目もその場に膝を突いた。割り込めずに外で見ているだけだった通りがかりの野次馬たちと警官たちが群がって来る。
真智子がゆっくりと三代目に歩み寄った。しゃがみこみ、
「カッターナックル。あのいきなり出た技がよかった。あれによる中山の出血多量がなければ、貴様は負けていたぞ」
「真智子さん……あなたの声が聞こえない……」
「死にはせんだろうが、しばらくは戦えないな三代目」
ぜーぜーと息する三代目をひょういと真智子が担ぎ上げた。
「ナイスファイト」
その言葉だけは聞こえた。
三代目はぐちゃぐちゃになった顔で、にこりと満足気に微笑んだ。
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