第8話 母親同士

 死熊は突如として獲物が消えたことに驚きを隠せずあたりを見回す。

 そして視覚ではなくその優れた嗅覚により、死熊はアイザックを捉えた。


 獲物が何故か自らの後ろにいることに驚愕を覚えながら。


――ぺっ

「痛えよ……」

 口内に残った血とともにアイザックらしくない言葉が吐き出される。


 幾度となく踏みつぶされたアイザックは全身血にまみれていた。

 死熊の超重量によって骨は折れ、折れた骨は内臓、筋肉、皮膚を突き破り、大量の

 出血をしていたのである。

 ただ、その傷は既に癒え、吹き出た血液だけが残されていた。


 死熊の周囲にはおびただしい量の血が飛び散っている。

 口の中にはまだ血の味が残っていた。


 アイザックは腕でざっと目を拭い視界を確保する。


 そして呟く様に声を発した。

「クソッたれししぐま……」

 

 アイザックは怒っていた。

 いや、そのあまりの痛みに怒っていたはずだった。

 

 しかし、その痛みからは既に解放されてしまった。


 アイザックとしてはそのまま勢いで自身の怒りを死熊にぶつけたいところだったが、痛みから解放された途端、自分でも驚くほどその怒りは急に鳴りを潜めてしまった。

 代わりにアイザックの心の大部分を占めるようになったのは恐怖である。


 怒りが無くなったわけではない。当然ある。

 しかし、それは魂に刻まれたかのような痛みの記憶の前には取るに足らないものとなってしまっていた。


 故に小声で呟くに留まった。

 死熊を刺激しないように。


 そして、心に占める恐怖の割合が増えるにつれ、アイザックは怒りに任せて死熊に突っかからなかったことを安堵した。


 アイザックは動かず、死熊は様子を伺い、しばしの膠着となる。


 が、すぐにその膠着は崩れた。


「うちの子から離れろおおおおおおお!」

 ユーリである。

 ユーリは死熊に向かって全力で走っていた。


 その声に反応し死熊の意識はユーリに向く。 

 ユーリとはまだ距離があったが、得体の知れないアイザックを相手にするよりも死熊はユーリを選んだ。


 死熊はユーリに向かって駆け出す。


(速い!)


 意表を突かれた死熊の行動とその速度にアイザックは驚いた。


 短距離に限れば熊の走る速度は人よりも遥かに速い。

 この時、死熊は100mに換算すると7秒台で駆けていた。


 突然の死熊の猛進にユーリは驚き、慌てて向きを変えようとして躓き転ぶ。

「きゃっ」


 見る見るユーリと死熊の距離は狭まる。

 ユーリは腰が抜けたのか上手く立ち上がることができない。

 

――この村に残る男はアイザックだけになるからな。何かあればこれでユーリ達を守ってくれ――


 父の言葉がアイザックの脳裏をよぎった。


(守らなきゃ……あのししぐまから)


 そう思ったのと同時だった。


「ぐぁぁああああああああああああ」

 激しい痛みがアイザックの全身を襲った。


 人の脳は痛みを記憶する。

 そして強烈な痛みの場合、少ない回数でも痛みの記憶回路が形成されてしまう。

 それにより痛みの原因が取り除かれても脳が痛みの信号を発してしまうことがある。


 アイザックにとって死熊は痛みと恐怖の象徴として記憶に刻まれた。

 ユーリを守るためその死熊に立ち向かわなければと認識したことでフラッシュバックが起こり激しい恐怖と痛みに襲われたのである。


 つまり、トラウマが発現した。


 本来、恐怖体験の最中にそれがトラウマとして発現することはない。

 トラウマが発現するのは恐怖体験の記憶が定着し、後々その記憶を思い出したときである。


 しかし、何度も【命の息吹】が発動したことにより、アイザックの脳は何度も睡眠を得たのと同じ状態となっていた。つまり、恐怖体験の記憶をすっかり定着させてしまっていたのである。


 そのような知識を持ち合わせないアイザックは理不尽に身を襲う痛みに対し、ただただ必死に抗っていた。


「——あああああああああああああああああああああああ――」


(死……死ぬ……)


(死ぬほど痛い!!!)


(なんで急に痛みが……)


(いや、それよりも……ダメだ、このままだと)


(動け……)


(動け……動け……)


(今動かなきゃ)


(お母さんが死んじゃう!)



 激しい痛みで筋は強張り体は硬直する。


 にもかかわらずアイザックは……


「動けよ!!!」


――ズン


 一歩前に踏み出していた。

 アイザックの体は淡く光を発する。

 

「お母さんにぃぃぃいいいいいいいいいいい」


――ズン


「手ぇ出なぁぁぁぁぁあああああああああ!!!」


――ドン


 瞬間、アイザックは弾かれるように飛び出す。


 決して恐怖心が無くなったわけではない。

 

 しかし……


 不思議と痛みは収まっていた。


 極限状態で、死熊に対する恐怖を母親への愛情が上回ったことにより、そしてその記憶が【命の息吹】により定着したことにより、図らずもアイザックは驚くほどの短時間でトラウマを克服したのである。


 ただ、アイザック自身はその両手で握る短剣が力を与えてくれるように感じていた。


 痛みという鎖から解き放たれたアイザックは弾けたように飛び出す。

 火事場の馬鹿力という言葉では収まらないほどの驚異的な脚力で死熊との距離を詰める。


 死熊は立ち上がれないユーリを目にし、速度を落として立ち止まる。

 そして右前足を振るわんと振りかぶっていた。


「間に合えええええええええええええ!!!」


 ユーリめがけて死熊の前足が振るわれる。


 が、そこに尋常ならざる速度でアイザックは割って入り、ユーリを抱きしめると地面に押し倒した。


「きゃあ」

 死熊の爪はユーリの左腕とアイザックの右腕をそれぞれ少し抉るにとどまり、前足は振りぬかれた。


 痛みでユーリは声を上げるが、逆にそれは生きてる証拠だ。

(良かった……何とか……間に合った)


 一方、死熊には余裕がなかった。

 捉えたと思った前足の攻撃は空振りに等しく終わり、目の前に突然現れた人間の子供は何故だか淡く光を放っている。


「GUAAAAOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOO!!!」

 後ろ足の二足で立ち上がり、残された力をあらん限り振り絞っての咆哮を放つ。

 それは最大限の威嚇だった。


 両前足を大きく広げた様は対峙した相手に死を連想させるに余りある。


 死熊はその両前足を目の前の二人の人間に振り下ろさんとしていた。


 が、しかし――


――ガンッ!!


 突如として死熊の頭が跳ね上がる。


「えっ?」


 ユーリは死熊の咆哮に死を覚悟した。

 それほど濃い死の圧力を感じた。


 しかし、信じがたいことにその死熊の頭は跳ね上がり、後ろに倒れようとしていた。


 アイザックが、3mを超える位置にある死熊の顎を蹴り上げていたのである。

 あまりのことにユーリは呆気に取られていた。 


(……あ、有り得ない!)


 6歳の子供が3mもの高さまで飛び上がったことも、僅か20㎏程しかない子供が800㎏を優に超える死熊を蹴り上げて倒したことも全く現実的ではなかった。


 しかし、それは確かに目の前で起きているのである。


――ドシィィィィィン


 死熊が倒れ地面が揺れる。

 蹴りそのもののダメージよりも、倒れたことによるダメージの方が明らかに大きいであろう。そう思える程の重量が地面に衝突した。


 とは言え、それでも単に倒れただけである。

 野生動物の、それも大型の肉食獣のタフネスは尋常ではない。


 死熊が倒れた衝撃でユーリは我に返る。

「アイザック! 今のうちに逃げるわよ!」

 そう言ってユーリは立ち上がった。


 しかし、アイザックにユーリの声は聞こえていないのか、倒れた死熊を睨みつけてその場を動かなかった。


 ただ、その小さな背中は物語っていた。

 家族を守ろうとする男の背中だった。


「お母さんは僕が守る! 逃げて!」


 アイザックは死熊のトラウマを克服していた。

 既に、恐怖に身を震わせる対象ではなくなっていた。


「ダメよ! 野生の獣はそう簡単には倒せないのよ。逃げるなら今!」

 

 そう言って、ユーリはアイザックを後ろから抱き上げ死熊から距離を取る。

 

 しかし、同時にユーリも違和感を感じていた。

 倒れた死熊が一向に起き上がろうとしないのだ。


――ハァ、ハァ、ハァ、ハァ


 死熊の呼吸は荒い。


 何故立ち上がらないのかと、よく見ると地面に血が流れていた。


 地面に倒れた時の打ちどころが悪かったとかではない。

 体の大半が黒い毛で覆われているため気づきにくかったが、死熊は体のあちこちから血を流していた。


 その出血の量から死熊は立ち上がらないのではなく、立ち上がれないんだとユーリは気づいた。


「クゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥン」


 不意に遠くから声が聞こえてきた。

 その声のする方に目を向けると死熊の子供が一頭、森の出口付近にいるのが見える。


「あなた……子連れだったの……」

 言葉が通じるわけはないのだが、ユーリは死熊に向けて言葉を発した。


 子連れの熊は雌である。

 そして子供を守るため狂暴になる。


 同じく母親であるユーリは何となく理解できた。


 この出血はアイザックによるものではない。

 何故ならアイザックの短剣はきれいなままだから。


 となると、この雌熊は森で襲われ致命傷を負っていたのだろう。

 そして、自分はもう助からないと悟り、子供のために最期にできるだけ餌を残そとしたのではないだろうか?


 そう言えばこの村には昨日手に入れた狼の大量の肉がある。

 熊の嗅覚は狼よりもはるかに鋭い。

 もしかしたらその臭いを嗅ぎつけたのかもしれない。


 ユーリは死熊に致命傷を負わせる存在が何なのかとか、そんなことは全く気にしなかったが、雌熊の気持ちだけは痛いほどに感じ取れた。


 既に限界はとうに超えていたのだろう、おそらく子を思う気持ちだけで無理やり体を動かしていたのだ。そしてアイザックに倒されたことで張り詰めていた気が途切れたのかもしれない。


――ハァ、ハァ、ハァ、ハァ

 死熊の潤んだ眼からは涙が流れているようにも見える。


「お母さん、逃げて。もう一頭近づいてくる」

 

 子熊とは言え、そのサイズはユーリよりも明らかに大きい。

 その子熊が警戒しながらゆっくりとこちらに近づいてきていた。


「ユーリ、大丈夫?」


 いつの間にか、後ろからニイナとサラが弓矢と槍を持って駆けつけてくれていた。


「ええ、何とか生きてるわね。こっちの雌熊の方は、沢山血を流してるから多分もう襲ってはこないと思う」


「良かった。私らも戦うわ!」

「私らでやっつけて、後で男どもに説教だね!」


 ニイナとサラの言葉は逞しい。

 伊達に開拓村に住んではいない。


 女手とは言え、地の利がある。弓矢や槍があれば動けない母熊と子熊を相手にすることは出来るかもしれない。屋内に籠れば危険は大分小さくなる。子熊であれば建物を倒壊させる膂力はないだろう。


 立て籠もって矢を射れば下手な矢でもいつかは倒せるかもしれない。

 少なくとも殺されることはないだろう。


「いえ」


 しかし、ユーリの意見は違った。


「狼の肉を少し分けてあげましょう」


「えっ、何で?」

「何言ってるの?」

 ニイナとサラは驚いて声を上げる。


「アイザック、ちょっと行って切り分けたお肉を一塊持ってきて」

「あ、う、うん」


 アイザックもユーリの意図が読めずにいたが、言うことに従って倉庫に行き、あっという間に肉を一塊持ってきた。


「はい、お肉」

「は、速い!」

「アイザックすごいね!」

「これは驚いた!」


 その足の速さに女性陣は皆驚く。


 ユーリは肉を受け取ると、雌熊の近くに放り投げた。

 貴重な肉ではあるが、元はガイルが仕留めたものだからニイナもサラも文句は言わなかった。それに肉はまだまだあるのだ。


 死熊は肉に反応を示し、ゆっくりと、ゆっくりと起き上がった。

 それが死力を尽くしていることはニイナとサラにも理解できた。


 死熊が起き上がったことで一瞬緊張が走る。


「大丈夫だよ」

 しかし、ユーリに言われるまでもなく、死熊に既に敵意がないことは皆が感じ取っていた。そして敵意を剥く力さえ残っていないことも。


 言うなればそれは蝋燭の最後の灯だろう。

 死を前にした命の最期の輝きだ。


 死熊は肉を咥えるとゆっくりと子熊のほうに向かっていった。


 母親がこちらに向かってくるのを見た子熊は安心したのか勢いよく母親の元へ駆け寄ってくる。

 そして子熊は母親の元に行くと、ぺろぺろと母親の顔をなめる。

 雌熊は子熊の足元に咥えていた肉を置き、子熊の顔をぺろぺろとなめた。


 そこには子を想う愛情しかなかった。

 死を前にして、ただただ子を愛するだけなのだ。

 それがユーリ達の胸を打つ。


 ユーリも、ニイナも、サラも子を失った悲しい過去を持つ。

 雌熊の死を前にして子を想う姿が、死に別れた子供への想いを思い起こさせた。


 子熊は足元の肉をガツガツと食べ始めると、肉はあっという間に無くなってしまった。


 死熊にとっては然程大した量ではない肉の塊。

 しかし、それが雌熊と子熊の最後の時間をもたらした。


 雌熊は一瞬ユーリを見つめたあと、静かに森へと去っていった。


 子熊はその後に付いていく。

 子熊はおそらくこの後母親に待ち受ける運命を全く分かっていないのだろう。


 かくして、村の危機はひとまず去った。



「何か、何か、私泣けてきた……」

「私も……」

「うん……。皆同じ母親ってことだね……」


 ユーリは去り際の雌熊の瞳から感謝と謝罪の念を感じていたのだった。

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