第7話 死熊襲来
「ねぇユーリ、本当に何か襲ってくるの? 結構時間経ってるけど……」
「ダメよ、ニイナ。アイザックが来るって言ってるんだから。あの子耳がとても良くなったのよ」
「私も出来ればお昼までに洗濯しておきたいんだけどなぁ。狼よりも大きい獣って……どうせ猪とかでしょ? 畑は荒らされるかもしれないけど、避難しなきゃいけないほど危険じゃないと思うよ?」
「サラ……、多分……猪じゃないわ」
「何でそう思うの?」
「アイザックは『やばいのが来る』って言ったのよ。そりゃ猪も危険だけど、あの子猪の鳴き声は聞いたことあるもの。猪ならちゃんとそう言うと思うの。だから……絶対出ないで」
「でもさ、その本人が「様子見てくる」って外に出てっちゃったじゃない」
「私だって行かせたくはなかったけど、あの子の耳だけが頼りなんだから仕方ないじゃない。危なくなる前に戻ってくるわよ。だから……、せめてアイザックが戻るまで待ってて。それにあの子、村に残った男は自分一人だから皆を守らなきゃって思ってるのよ」
「ええ! 何それ! 可愛い」
「もう、帰ってきたらぎゅうって抱きしめちゃお」
ユーリ、ニイナ、サラは村の集会所に避難していた。
集会所は倉庫としても使われるため色々なものが置いてある。
ちなみに、そんな会話をしながら3人は昨日男たちが持ち帰った狼の肉を天日干しするため薄切りにしている。
身に危険が迫っているからと言って、何もせずに怯えているほど彼女たちは暇ではない。
一方、アイザックは短剣を手に、村に迫りくる何かを迎え撃とうとしていた。
「ウソ……デカ過ぎるよ……」
アイザックの目は、既にそれを捉えていた。
遠目にはそのサイズはなかなか掴めなかったが、近づいてくるにつれそれが予想をはるかに超える巨体であることが分かってきた。
ガイルから皆を守るように言われ、その使命感から迎え撃つつもりでいた。
しかし、その巨体を目にした途端、使命感などは吹き飛んでしまっていた。
「に、逃げなきゃ……」
とても自分が戦える相手ではない。
そう瞬時に悟ったアイザックであったが、恐怖で足が思ったように動かなかった。
それがこちらに近づいてくる速度は決して早くはない。
だからこそ余計に、ずしんずしんと近づいてくる一歩一歩からとてつもない恐怖と圧力を感じた。まるで死刑宣告を受けているかのように感じられたのだ。
距離が縮まるにつれ空気が強張りプレッシャーが増していく。
そして、それは遂に森から出てきた。
――GRUAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAA——
森から出るやいなや、それは力の限り吼え猛り後ろ脚で立ち上がった。
その咆哮は集会所にいるユーリ達の耳にも届く。
「きゃっ」
「い、今のって……」
「やっぱり来たのね……あ、アイザックは?」
半信半疑だったニイナとサラは身を竦め、ユーリは集会所から飛び出て声のする方に目を向けた。
そこにいたのは鎌のような白い模様を胸に刻む黒い悪魔のような熊だった。
身の丈はユーリの倍近くあるかもしれない。
「し……死熊……」
その存在は耳にしたことはある。しかし実際に目にするのは初めてであった。
あまりの恐怖に遠目に目にしただけでもユーリは腰が抜けそうになる。
しかし、その化け物のような熊に、息子は震えながら対峙していた。
死熊は4足歩行に戻りゆっくりと距離を詰める。
「アイザック、逃げなさい!」
その叫びは届いているのかいないのか、息子は恐怖で身が竦み動けないでいるようだった。
死熊は左前足を持ち上げると、おもむろに振り下ろす。
「いやああああああああああああああああ」
ユーリの悲鳴が響く中、血しぶきが舞っていた。
◇アイザック◇
こんなに大きな動物見たことない。
もし、食べられたら……教皇様の魔法があってもさすがに死んじゃうよね……。
後ろからお母さんの声が聞こえてきた。
「し……しぐま……」
ししぐま?
この動物はししぐまって言うのか。
ししぐま……クマ?
そうか、これが、森の王様……クマなんだ。
お父さん言ってた。
森にはクマっていうとても大きな動物がいるって。
クマは木の実も食べるけど、他の動物も食べるから危険だって。
森で一番強い獣の王様なんだって。
短剣を持つ手が震える。
足もだ。
奥歯がカチカチと音をならす。
──ドクンッ、ドクンッ、ドクンッ······
心臓の音がやけに大きい。
喉もカラカラだ。
でかい。
思ってたよりもずっとデカい。
来る。
こ、怖い……。
怖すぎる……。
ち、近い。
──スゥ──ハァ──
ししぐまの息が降りかかる。
「アイザック、逃げなさい!」
遠くで叫ぶお母さんの声が聞こえる。
逃げる?
ごめん、お母さん。
逃げられない。
ししぐまは前足をゆっくりと振り上げた。
あの大きな前足で僕を狙ってる。
こ、怖い。
怖すぎて足が動かないんだよ。
声も出せない。
ししぐまを見たら怖くて体が動かなくなっちゃった。
……逃げられない。
死……
死ぬ。
「いやああああああああああああああああ」
お、お母さん。
ダメだ! 来ちゃダメだ!
アイザックは本能的に体が動かなくなっていた。
そう、まるで蛇に睨まれた蛙のように。
そしてユーリはアイザックに向かって走り出していた。
とは言え、アイザックがいた場所は村の外れであり、ユーリが全力で駆けても到底間に合う距離ではない。
それでもユーリは駆ける。
死熊に勝てるはずもないことは承知の上で。自分が死ぬかもしれないことも覚悟の上で。自分のことは全て脇に置いていた。
アイザックが危険なのだ。
そしてアイザックのユーリに向けた思いが言葉になる前に、アイザックは死熊の前掌に叩き潰されていた。
――ボキボキメキメキメキメキ……
(ぎゃあああぐあああああああああああああううううああああああああああああああぐああああああああ……)
アイザックの脳内に絶叫と悲鳴が響き渡る。
アイザックの肺は潰され声は出なかった。
そのため彼が感じる激痛は脳内で静かに処理されていた。
肩に振り下ろされた前掌が体中の骨を折り、人体の構造を無視して叩き潰されるのを不幸にもアイザックは認識できていた。
常人ならば即死、辛うじて息があったとしても痛覚が遮断されて当然の損傷である。にも関わらず、アイザックは痛みを感じていた。
死熊の筋力と超重量により、骨は砕かれ、内臓も潰され、それでもアイザックが意識を失うことはなかった。
――ポウ
と淡い光を放ち掌下でアイザックの体は瞬時に再生された。
よ、よかった。
教皇様の魔法のお陰で……何とか……助かった。
ほ、本当に……死ぬところだった。
でも……苦しい……息ができない……
仰向けの状態で死熊の超重量に圧されながらも、体が癒されたことでアイザックは一先ず安堵する。
実のところ肉体の損傷から回復までにかかった時間は1秒にも満たない時間であった。
しかし、そのあまりの激痛によりアイザックにとっては何十秒にも何分にも感じられたのである。
そして今もなお押し潰されているため息もできない。
息もできないというか、実のところ圧死するのに十分な重量で圧されていた。
絶え間なく回復し続けていたお陰で圧死と蘇生を繰り返していたのである。
引き延ばされた時間の中で、アイザックはひどく長い時間死熊の前足に押し潰されているように感じていた。
ふと足元に違和感を感じた死熊は前足を持ち上げる。
そして、驚愕した。
叩き潰したと思った獲物が生きていたからである。
しかも淡く光を放ちながら。
死熊は再び前足を振り上げた。
そしてその前足は再度振り下ろされる。
「う、ウソ!」
ほんの一瞬、圧力から解放された際にアイザックから漏れ出た声は、現実を否定したい己の心情を短く表していた。
――ズドンッ
先ほどよりも力を込めて死熊は前足を叩きつけていた。
しかし、先ほどと同様に、死熊は足元に違和感を感じる。
――グリグリグリ……
前足に力を込めて更に圧力を加えてみたが、違和感は消えない。
――ズドンッ、ズドンッ
次いで2連続の踏みつけ。
それでも小さな獲物は死んでいなかった。
――ズドンッ、ズドンッ、ズドンッ
それならばと3連続の踏みつけ。
――ズドンッ、ズドンッ、ズドンッ、ズドンッ、ズドンッ……
前足からは確かに骨を砕き、内臓を潰した感触が伝わってくる。
しかし、何度叩き潰しても、地面に半分その体をめり込ませながらも、小さな獲物は死んでいなかった。
ならばと死熊は勢いよく後ろ足で立ち上がった。
そして、全体重を前足に乗せ叩きつけた。
――ドシィィン
蛇に睨まれた蛙はなぜ動けなくなるのか。
それは恐怖にのまれ、生を諦めて捕食されるのを単に待っているからではない。
むしろ逆で、蛇が牙を剥いて飛び掛かってくるのを待っているのである。
恐怖に駆られ逃げ出した後に蛇に飛び掛かられるよりも、蛇が飛び掛かってきた瞬間に別方向に逃げ出す方が生存率が高いことをカエルは本能的に知っているからである。
言い換えれば、カエルは生き延びるために恐怖と戦っているのである。
死地の先にある生き残る可能性の高い一瞬に己の命を懸けているのである。
アイザックに足りない点はまさにそこであった。
恐怖にのまれてしまい。逃げることを諦めてしまっていた。
自然界の法則にしたがえばその先に待つのは死である。
しかし、幸か不幸か、本人が逃げることを諦めても不老不死の呪いは彼の体を癒す。癒してしまう。
結果、死んだ方がましに思える程の激痛にさらされ、何度も死と蘇生を繰り返した。
その最中、次第に恐怖は薄れていき、激痛から逃がれたいという思いに変わる。
(うがああああああぐああああああああああああ……)
(ぎゃあああああああぐががががががあああああああああああああ……)
(もう……)
(あああああああぎゃああああああああああああああああ……)
(うあああああああああああああああああああああぐああああああああああああ……)
(もう……死……死にたい……)
それは「死」でもよかった。
死によって痛みから解放されるならそれでも良いとアイザックは思っていた。
しかし、死ねない。
死んで楽になりたかったが死ねない。
何度も何度も叩き潰されるうちに、死を願っても死ねないことがよく分かった。
(ぐあああああああああああああがああああああ……)
(く……そ……死ねないのか……)
(ううおあああああああああああああぐああああああああああああ……)
(くそったれ……)
すると次に湧いてきた思いは「怒り」だった。
一度はあまりの激痛に生を諦めたが、理不尽なまでに続く痛みが怒りを生んでいた。
それは諦めとは異なる反応である。
その怒りが恐怖を上回り、いつしかアイザックの体の震えは止まっていた。
蛇に睨まれた蛙のように、その目は死地を抜け出す一瞬を狙っていた。
そして死熊が全体重を乗せてアイザックを叩き潰そうとしたとき、防衛本能に加えてアドレナリンが驚異的な集中力を引きだした。堰を切ったかのようにアイザックの脳は一気に加速したのである。
今だ!
あれ……?
何だろう……
ししぐまの動きが良く見える……
っていうか、すごくゆっくりに見える。
背中が半分地面に埋まっていたものの抜け出すのは問題なかった。
死熊が前足を地面に叩きつける前に、アイザックは驚異的な身のこなしで死地を抜け出していた。
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