第31話 心の平静について
先日までの長い雨が嘘の様に、ここ数日は快晴が続いていた。
8月1日にようやく気象庁は梅雨明けを発表し、開催が危惧されていた今夜の鮎まつりも無事に開催されそうだった。
母に浴衣を着たいと言うと、押入れ奥にしまってあった母の浴衣を用意してくれた。
母とは体型も身長もほとんど同じなので、サイズも着丈も問題なかった。
母が若い頃に着ていたというその浴衣は藍色の生地に朝顔の模様で、お世辞にも現代風とは言えなかったが、日本的で古風なその柄が私も気に入った。
トロは私の浴衣姿を見て初めは少し警戒していたが、すぐに慣れて喉をゴロゴロ鳴らしていた。
厚木駅には浴衣の人が多く、せっかく着付けてもらった浴衣が電車の中で崩れてしまわないかと不安だったが、幸い厚木駅から乗る各停にはそれほど人がいなかった。
本厚木に着いてから、私は履き慣れない下駄を鳴らして待ち合わせのミロードの入り口へと向かうとまだ誰も来ていないらしく、私は巾着から扇子を取り出して少し涼んだ。
「結奈―!お待たせ!」
声の方を振り返ると、百合の柄の浴衣を着た未怜が走って近寄ってくる。
そのすぐ後ろには瑞季先輩、祐一先輩、明莉先生そして哲司先輩の姿があった。
「町田でみんな偶然会ったんだよ。電車やばい混んでたよー」
「結構人いるね!知らなかったけど、大きいお祭りなんだね」
瑞季先輩も扇子を扇ぎながら駆け寄ってきた。
椿柄の浴衣がよく似合っている。
明莉先生はシックな麻の葉柄の浴衣に日傘をさしていて、なんだか大人の女性の色気を感じた。
明莉先生の後ろに祐一先輩と哲司先輩も浴衣姿で立っていた。
哲司先輩は少し照れているのか、あまり私の方を見てくれなかったが、黒の縦縞の浴衣姿はなんだか新鮮で、私の方が照れてしまった。
「哲司くん、浅井さんの浴衣姿みて照れてるのよ。さっきまではペラペラ喋ってたのに、浅井さんのこと見たら急に黙っちゃって」
明莉先生はそう耳元で囁いて笑うので、なんだか本当に姉弟みたいだなと私は思った。
「よし、じゃあ早速祭り行こうぜ!早く場所取りしないと!色々食いたいし!」
グレーの浴衣の祐一先輩が号令を出し、私たちは花火会場の相模川の方へと歩いた。
街は普段より活気付いていて、祭りの熱気と人の多さと強い西日で私は頭が痛くなりそうだった。
下駄は思った以上に歩きづらく、みんなに遅れない様に一生懸命歩いていると、哲司先輩が隣に来てくれた。
「大丈夫?結奈、浴衣、似合ってるよ」
そう言って、私の手を握ってくれた。
「ありがとうございます。哲司先輩も、浴衣似合ってますよ」
私も手を握り返して、私たちは手を繋いだままみんなの後ろを歩いた。
浴衣を着て2人で手を繋いで歩くなんて、嬉しくて心臓が弾けそうだった。
私はチラチラと横目で哲司先輩の方を見ながら、その度に1人でこそこそと笑った。
たまに目が合うと顔を赤くして目をそらすので、なんだか可愛くてついからかいたくなる。
「この浴衣、お母さんが昔着てたやつを借りたんです」
「へー、朝顔柄か。綺麗な生地だなこれ。俺は今朝祐一と一緒に浴衣買いに行ったよ」
「先輩の浴衣姿、新鮮でかっこいいですよ」
哲司先輩は少し顔を赤くして目を背けるので、いつも乱されてばかりのペースを今日は私が掴んでいるようでなんだか楽しかった。
少しずつ暗くなる空とは反対に、花火会場への道は裸電球や提灯が照らして明るくなっていった。
駅の近くではまばらだった屋台も川沿いになるとたくさん並んでいて、私たちはかき氷を買って食べた。
私はいちご、未怜はメロンを買って、交換しながら食べた。
哲司先輩は私のいちご味のかき氷を2、3口勝手に食べた。瑞季先輩はブルーハワイのかき氷を祐一先輩にあげていた。
未怜と瑞季先輩がスーパーボールすくいに夢中になっている間、哲司先輩と祐一先輩が必死に応援していた。
それを私は明莉先生と一緒にその様子を後ろで見ていた。
「ねぇ、浅井さんは、哲司くんのどこを好きになったの?」
明莉先生は妹をからかうように笑いながら尋ねた。
突然の質問に驚いて私はすぐに反応できなかった。
「えーと、あの、優しいし、面白いし、それに、哲司先輩の描く絵がすごく好きで。絵と向き合っている時の真面目な顔も好きです。素敵な夢も持っているし」
自分で話していて、どんどん顔が赤くなっていくのを感じた。
「夢ね。ねぇ、浅井さんが哲司くんとくっついて、私すごく嬉しいの。哲司くん、私に、浅井さんのこと好きになったかもって相談してきてね。俺の絵を分かってくれる人がいた!って」
「え?賞まで取ってるんだから、みんな分かってるんじゃないですか?」
少し間を空けて、明莉先生は少しうつむきながら話し始めた。
「哲司くんね、小さい頃にお母さんを亡くしてるのよ。…それで、一時期落ち込んでしまって、学校も行けなくなって。哲司くん、小さい頃から絵が好きで私が通っていた絵画教室に来てたんだけど、それまで明るかった子が、急にふさぎ込んでしまって」
「……初めて、聞きました」
「…私が中学3年の頃だったから、哲司くんが9歳の頃かな。話しかけても何も話さなくなって、すごく心配したわ。ひたすら絵を描いて技術は上がっていったんだけど、心ここにあらずって感じで。そう、ちょうどこの間までの浅井さんみたいに。それでも、色々な絵を描いていくうちに少しずつ明るくなっていったのよ。哲司くんが中学2年の時かな、自分は絵に助けられたから、今度は自分が絵でだれかを助けたいって。夢を見つけて、前を向けるようになったのね」
「…そうだったんですか」
「準備室で哲司くんの絵、見たでしょ?眠られぬ朝の木漏れ日。浅井さん、あの絵を見て、お母さんに包まれてるみたいって言ったでしょ。あの絵はね、お母さんが亡くなってお葬式が終わって、その日の夜眠れなくて、夜明け前に1人で芹ヶ谷公園に行った時にみた朝日を思い出して描いた絵なんだって。あの光を見て、お母さんに包まれてるみたいって言ったのは浅井さんだけなの。コンクールでも誰もあの光の意味について語る人はいなかったわ」
遠くの祭囃子が、風に乗って微かに聞こえてくる。
「だからね、哲司くん、自分が筆に込めた気持ちが伝わって嬉しかったみたい。内閣総理大臣賞とった時なんかより、はるかに嬉しそうな顔してたわよ」
そう言って、私の方を見て明莉先生は優しく笑った。
(気持ちを筆に載せる、か。哲司先輩そんなこと言っていたな)
「私は、絵のことはよく分からないですし、何て言うか、直感で、そう思っただけで」
「そういうインスピレーションって、知識なんかよりすごく大切よ」
明莉先生は優しい声で続けた。
「……浅井さん、友達と遊んでいて、家に帰ると一気に疲れが出ることない?」
「…え、と、未怜とはそういうの感じないですけど、確かに中学時代はありました」
「他の人が怒られてるのをみて、まるで自分のことみたいに思って傷ついたりしたことは?」
「……あります。吹奏楽部はそういうのが日常で、何か辛くて」
私の肩を抱きながら明莉先生は続ける。
「浅井さんは、繊細なのね。ちょっとしたことで傷ついたり、日々の生活で生きづらさだったり、息苦しさを感じることない?私ね、たまに浅井さんがそういう風に見えることがあって心配してたの」
私はその言葉を聞いて、胸が痛くなった。
中学時代から作り笑いをして、好きなことも話さないで、話題を合わせて、自分を殺してきた。
必死で隠してきたはずなのに、完璧に演じてきたはずなのに、どうして明莉先生には見抜かれてしまうんだろう。
「私ね、繊細っていうのは素晴らしいことだと思うわ。それだけ人の気持ちを汲むことができるから。心のひだが大きいのね。人の痛みがわかるから、だから、浅井さんは人に優しくなれるのよ」
明莉先生はそのまま私をハグしてくれた。
「人に優しくするばかりじゃなくて、人に優しくされることも必要よ。浅井さんが持ってきた油彩セットを見て、ご両親はきっと優しい人なんだなって思ったの。愛されてるんだなって。それでね、家族以外にも、そういう人が見つかるといいなって思ってたの。哲司くんはね、優しいよ。私が保証するから、沢山甘えちゃいなさい」
明莉先生は鈴が鳴る様に微笑んだ。
私の背中で重ねた明莉先生の腕から、浴衣越しの胸から優しさが伝わってきて、きっと明莉先生も繊細なんだなと思った。
私も明莉先生の背中に手を回して、強く、優しくハグをした。
いつの間にか、祭囃子は人混みにかき消されて聞こえなくなっていた。
「明莉先生も優しいです。大好きです」
胸に感じた痛みはいつの間にか消え去っていた。
私の鼓動は浅利先生の鼓動と重なって、2人分の心臓の音に包まれながら私はそう呟いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます