第29話 S.W.A.L.K
まだ明けない梅雨に傘が乾くこともなく、油彩画の乾きも遅かった。
未怜が泊まりに来た土日もあいにくの雨で、町田でいつものように時間を潰した後、私の家に向かった。
人と勉強をするのは性に合わないと思っていたのだが、未怜が度々質問してくるので教えていると、何だか頭が整理されて自分の理解も深まったように思えた。
未怜は膝の上に乗ってきたトロに心を奪われてあまり勉強に身が入らない様子で、トロもゴロゴロと甘えていつの間にか眠ったりしていた。
夜は卒業アルバムを見ながら中学時代の思い出話をしたり、文化祭の制作について話したりした。
たまに哲司先輩とのことをからかわれたが、実際にはあれから彼氏彼女らしいことは何もなくただ日にちが過ぎていた。
「きっと受験生だし忙しいんだね。絵画教室通ってるってことは、芸大とか目指してるのかな?」
そういえば私は哲司先輩のことについて知らないことが多過ぎる。
2人の時間もあまりとれなかったのもあるが、中々話す時間もなくて、今度思い切って私からデートに誘ってみようと思った。
もう期末試験はすぐそこに迫ってきていた。
部活は試験前から休みになっていたので、結局哲司先輩との時間を作ることはできないまま時間が過ぎていった。
私は家だとトロがすぐ邪魔をしてくるので図書室で勉強をすることにしていた。
期末試験第1日目終了後、私は購買であんぱんとアップルティーを買って軽くお腹を満たしてから、今日も図書室へと向かった。
カーテンの向こうでは今日も雨が降り続いている。
もう7月も後半だというのに今年は中々梅雨明けにならなかった。
モネ展では恵みの雨だと思った雨も、こうしつこいと早く夏が来ないかなと鬱陶しく感じていた。
図書室内は今日もとても静かで、利用者は私の他に4,5人程度だった。
私が明日の数学の試験のために問題集を解いていると前の席に人が座る気配がしたので、キリのいいところでそっと見てみると、哲司先輩が頬杖をついて微笑みながら座っていた。
指で弾いた折りたたんだノートの切れ端が私の問題集の上に乗っかって、私はそれを音を立てない様に開く。
(ちょっと休憩しない?)
突然のことに私は驚いたが、久しぶりに会えて高鳴る胸と共に頷いて私は席を立った。
哲司先輩も同時に席を立ち、図書室を後にした。
旧校舎の廊下は今日も軋む音を立てながら、私たちは渡り廊下へ向かって歩く。
この間とは状況が違うが、私の心臓のドキドキは変わらなかった。
何となく隣を歩くのに気が引けて、2、3歩後ろを人から隠れるようについていく。
「あ、この曲、たなばただっけ?やっぱいい曲だよなぁ」
音楽室の方から七夕のアルトサックスのソロのメロディーが聞こえてきた。
きっと誰かが試験勉強の息抜きに吹いているのだろう。
「悪いな邪魔して、試験どう?」
「先輩たちの過去問のおかげで今日は大丈夫ですけど、明日がちょっと心配です。数学、応用問題多いんですよ」
「あー、確かに応用多いよなー、まぁ基本をしっかりやっておけば大丈夫でしょ」
「先輩は試験どうですか?」
「俺は余裕。学校をさぼる結奈と違って、優等生だから」
「あれは先輩のせいじゃないですか、もう。先輩だってさぼったでしょ!」
何気ない会話で、何だか少し緊張も落ち着いてきた。
「ところでさ、俺、美術室で勉強してるんだけど、結奈も来ない?今、俺しかいないから」
2人きりで勉強なんて身がもたない気がしたが、それでも、少しでも一緒に過ごしたくて私はすぐに行くことにした。
急いで図書室から荷物を引き上げて、哲司先輩の待つ美術室へと向かう。
美術室のドアを開けると、哲司先輩は窓際に机を置いて勉強していた。
向かい合うように机と椅子がセットされていて、視線でそこに座るように促されたので、私は緊張しながらそこに座る。
「そんなに緊張するなって、俺ら付き合ってるんだから」
「うー、そうはいっても、やっぱりまだ緊張しますよ。むしろ付き合う前よりもかも」
「あはは、そうかもな、俺も少し緊張してるし」
「えー、先輩そうは見えないですよ」
「あ、2人でいる時はその先輩って禁止な。敬語も禁止。俺も結奈って呼ぶから、結奈も俺のこと下の名前で呼んでよ」
「え?そんな急には無理ですよ。ていうか先輩は元々結奈って呼んでるじゃないですか、ずるい!」
「あ、早速呼んだ。次は罰ゲームな」
突然の要求にパニックで、勉強どころではなかった。
私は話しかけないことで無言の抵抗を示すことにした。
そんな私の姿を見て哲司先輩は嬉しそうに微笑んでいた。
「うそうそ、黙るなって。徐々に慣れてくれればいいよ」
美術室の窓は結露ができていて、時々雫となって窓を伝った。
教科書をめくる音とペンの音以外何もしない放課後の美術室は新鮮で、時々ちらっと哲司先輩の顔をのぞいてみると、教科書を読む眼が素早く動いて長い睫毛が瞬きで揺れていた。
それからは不思議と集中できて、下校のベルがなるまで私たちは話すこともなく勉強をした。
じめじめとした湿気で過ごしにくいはずなのに、不思議と居心地がよかったのだ。
「よし、じゃあ帰ろうか」
私はカバンに教科書を詰め込んだ。
「俺、鍵閉めて返してくるから、結奈は新校舎の昇降口で待ってて」
そう言って、哲司先輩は1階の職員室へと階段を降りていった。
私は一緒に帰れることが嬉しくて、足早に渡り廊下を渡った。
校庭にはまだ雨が降り続いている。
傘を片手に昇降口でローファーに履き替えて待っていると、哲司先輩がやってきた。
「ごめん、おまたせ」
私が傘をさそうとすると、
「あれ?せっかくだから一緒に入ろうよ」
そう言って、私のよりも少し大きい傘を差し出した。
(相合傘なんて恥ずかしい)
と思いながらも、実は心の奥で期待していたことで、哲司先輩が私の気持ちを分かってくれたようで嬉しかった。
駅までの間、哲司先輩が傘を持って、私は隣にくっついて歩いた。
私の歩幅に合わせているらしく、時々、歩きにくそうにしていたが、そんな不器用な様子が何だか可愛くて1人で笑ってしまった。
「そういえば、哲司先輩は進路どうするんですか?やっぱり芸大ですか?」
この間未怜と話してから気になっていたことをぶつけてみる。
「んー?俺は芸大には行かないよ。絵は高校で終わりにするつもり」
自分の耳で聞いたことなのに信じられなかった。
「……絵をやめるって、…どうしてですか?あんなに素敵な絵が描けるのに」
期末試験のストレスもあってか、ついきつい口調になってしまった。
「…それに、先輩、どうしていつも部活でも絵を描かないんですか?高校最後の年なのに、せっかく才能があるのに活かさないなんてもったいない気がします」
言葉が止まらない。
哲司先輩はしばらく何も話さず、歩くのを止めた私たちの周りでは、しとしとと降る雨の音だけが静かに響いていた。
街灯の下にはまるで沢山の絹の糸のように雨の姿がただ静かに映し出されている。
嫌な言い方をしてしまったと思った。
謝ろうと思って口を開こうとすると哲司先輩が微笑みながら尋ねる。
「結奈はさ、何のために絵を描いているのか考えたことある?」
何のため?そんなこと私は考えたことなかった。
「俺はさ、自分の中から湧き出てくる感情や風景を形にしてみたいんだ。才能のある道に進むのは一つの生き方として正解だと思う。でも、自分がやりたいことと、才能を活かせる道が違っていたらどっちを選ぶ?たとえ才能がなくたって、たった一度しかない、短い人生なら俺はやりたいことを選ぶ。それだけだよ」
非難した形になってしまったのに、どこまでも優しい口調で哲司先輩はそう言った。
私はしばらく何も言えなかった。
私なんかより、哲司先輩の方が何倍も悩んで考えているはずなのに、なんて軽率なことを言ってしまったんだろう。
「…ごめんなさい。嫌な言い方になっちゃいました。私、先輩の絵が好きだから、先輩にはどうしても絵を続けて欲しくって」
「結奈、ありがとな。俺、絵は一応描いてるんだよ。ほら、絵画教室で。それと、部活動や進路として絵をやめるっていう意味で、趣味としては描き続けると思うよ。俺、絵を描くの好きだからさ。」
哲司先輩はそう言いながら微笑んだ。
私も、つられて笑顔になる。
「そういえば、先輩がこの間図書室に返却していた本、何の本なんですか?絵画療法?」
「あぁ、あれか。うーん、結奈さ、人生って楽しい?」
哲司先輩は私の方を見ずに、遠い目をして尋ねた。
突然の質問に私は少なからず動揺した。
しかし、ここ最近は実際に幸せだし、今となれば付き合う前の胸の痛みも悪い経験ではなかったと思える。
「……楽しいです。哲司先輩は?どうなんですか?」
そう尋ねると私は少しドキドキした。
同じ気持ちじゃなかったら、と少し不安になったのだ。
「俺も楽しいよ。こうして結奈と相合傘もしてるし」
今後はちゃんと私の顔を見て笑ってくれた。
「でもさ、そうじゃない人が世の中には沢山いるんだよ。俺らより小さい子供でもさ」
急に真面目な顔になった。
電線から落ちてくる水滴がビニール傘を揺らす。
「俺、医学部に行こうと思ってるんだ。この間の本はさ、絵画療法についての本なんだけど、いじめとか、家庭内の問題とか、いろんな問題で悩んでいる子供たちを救ってあげたくて。絵を描くことって、心の平静を保ったり、気持ちを整理するのに効果があるんだよ」
いきなり話が飛躍するので、私はついていくのに必死だった。
「今俺が行ってる絵画教室。芹ヶ谷公園の近くのStrawberry Fieldsっていうとこなんだけど、あ、明莉さんの婚約者がやってるところな。絵画教室の傍、そんな風に色々と悩んでる子供たちに絵を描く楽しさを教えてるんだよ。俺はそこで手伝いながら絵を描いたりしてるんだ」
「それで芹ヶ谷公園でたまたま会ったんですね」
「そうそう。アートセラピーっていうんだけど、アメリカやイギリスなんかだと幅広く行われていて、結構な数の子供、まあ子供に限らないんだけど、患者さんがセラピー受けてるんだ。日本ではまだあまりメジャーじゃないみたいで、それほど浸透してないんだよね。特に医師が行ってるところっていうのはあまりないみたいで」
「アートセラピーですか、初めて聞きました」
「だからさ、俺は医師になって、今まで臨床心理士とかに丸投げだった部分の橋渡しをして、悩みを抱えた子供たちを救っていきたいと思って。ちょっと壮大な夢で恥ずかしいんだけどさ。」
言葉とは裏腹に、夢を語る哲司先輩の眼は本気だった。
「恥ずかしくなんかないですよ。私、先輩に、自分が好きなものなら人になんて思われようと関係ないって言われて、すごく嬉しかったんです。哲司先輩の夢、すごく素敵だし、哲司先輩ならきっとできると思います。私、哲司先輩の夢、好きです。だから、先輩が自分の夢をそんな風に言うの、好きじゃないです」
気がつくと、私はほとんど雨に濡れていないのに哲司先輩の右半身はだいぶ雨に濡れている。
「結奈、ありがとう。頑張るよ」
哲司先輩は私を見つめて、いつもの優しい瞳でそう言った。
雨音とともに、哲司先輩の言葉が胸の中で響いて共鳴しているようだった。
同じ傘の下で、私たちは見つめ合った。
「また哲司先輩って言った。罰ゲーム。目瞑って」
哲司先輩は左手を私の頭の後ろに回して目を細めた。
少し戸惑いながらも、私もそれに応えるように目を閉じて、それから私たちは降りしきる雨の中冷たくなった唇を重ねた。
斜めに傾いた傘を水滴が伝って落ちて、私の足元で音を立てて跳ねた。
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