第28話 涼暮れ月の雨
その後雨はやがて小降りになって、私たちは手を繋いで小走りで帰った。
木の下を出る時、哲司先輩が微笑みながら左手を差し出したので、私はそっと右手をその上に乗せた。
繋いだ手からは哲司先輩の優しい体温が伝わってきた。
私よりも大きなその手はすっかりと私の手を包み込んでくれて、私たちは改札を通る時以外その手をずっと離さなかった。
帰りの電車は混み始めていた。
私たちはドアのすぐそばで2人で立っていたが、下北沢で人がたくさん乗ってくると、哲司先輩は私が人混みに巻き込まれないように、潰されないようにしてくれた。
満員電車には慣れているから私は別に平気だったのだけれど、哲司先輩が守ってくれているということが嬉しくてつい甘えてしまった。
次の日、教室に入ると未怜が駆け寄ってきて、席にカバンを置いた後、教室の後ろまで連れて行かれた。
「結奈、昨日、どうだった?」
未怜は私の腕を軽く掴んで心配そうな顔で私を見つめる。
「うん、実はね、私たち、付き合うことになったの」
私は何だか恥ずかしくて、照れてしまった。
「えー!それじゃあ、明莉先生とは何ともなかったの!?」
未怜が小声で尋ねるので、私は昨日のあらましを順追って説明した。
その間、未怜は真剣な顔で茶化すことなく聞いてくれた。
「そうだったんだ、ちゃんと聞いて良かったね。結奈が勇気を出したからだね。結奈、本当におめでとう!」
そう言って、未怜は涙ぐんでいた。
私の目が少し腫れていたのをみて、すごく心配だったらしい。
「ありがとう。でも、未怜のおかげだよ。未怜がいなかったら、私、勇気でなかったと思う。本当にありがとうね」
未怜は泣きながら喜んでくれた。
友達のために涙を流したことなんてあったかな。
私は、未怜のことが本当に好きだったのだが、もっと好きになった。
同時に、未怜と友達になれた私のことも、少し好きになれた。
昼食を教室で食べていると、
「そういえばさ、結奈たちのことって瑞季先輩たちには話すの?」
そう言われるとどうなのだろう。
特にそう言った話は昨日何もしなかった。
「どうだろう?何だか私から言うのもおかしいし、明莉先生もいるし、どうするつもりだろう?」
確かに、部員の少ない美術部で、哲司先輩とどう接したらいいか分からなかった。
そんなことをぼんやり考えていたら、あっという間に放課後になった。
未怜と2人で旧校舎の廊下を歩いて美術室に近づくたびに、昨日のことが思い出されてだんだんと緊張してくる。
美術室に着く前に相談しようかと思い3年A組をのぞくと哲司先輩は見当たらない。
(どうしよう、どうしよう)
そう思っているうちに、美術室に着いた。
ドアを開けると窓際で机に座りながら、哲司先輩が瑞季先輩、祐一先輩と話していた。
明莉先生も一緒だった。
「お疲れ様です!」
未怜は元気な声で挨拶をした。
私も緊張して頭が真っ白になりながら、その後に続く。
「結奈、昨日は早退したって聞いたけど、大丈夫だったの?もう平気?」
瑞季先輩が本気で心配そうに尋ねるので、私は罪悪感でもうパニックだった。
「実はさ、俺たち、付き合うことにしたから」
すると突然、静かに歩み寄ってきた哲司先輩が私の肩を抱き寄せていきなりみんなに発表した。
瑞季先輩と祐一先輩は座っていた椅子から立ち上がり衝撃を受けた様子だった。
「えー!哲司さん、マジですか!?いつから?」
祐一先輩の座っていた椅子は勢いをつけて後ろに倒れた。
「昨日から。実はさ、昨日の早退はサボりで、2人でモネ展行ってきたんだよ。昨日が最終日だったから」
明莉先生がすぐそこにいるのに、サボりだなんて言い出すので、私はますますパニックだった。
「なんだー、結奈、じゃあ体調は大丈夫なのね?良かったー。もう、心配したんだから」
瑞季先輩がそう言うので、私は申し訳なくなってきた。
「瑞季先輩、心配かけてごめんなさい。部活、ずる休みしてすみませんでした」
頭を深々とさげて謝る。
瑞季先輩は微笑みながら手を振っていた。
「まぁ、こうして反省しているわけだし」
哲司先輩がそう言うと、
「いやいや哲司さんも反省してくださいよ!」
祐一先輩がツッコミをいれて、その場は丸く収まった。
その後は記者会見のように質問責めだった。
私は自分の恋の話なんてしたことがなかったのでかなりしどろもどろだったが、哲司先輩がうまくフォローしてくれて、その姿を遠目に眺める未怜が目配せをして、ニコニコと笑っているのに気がついた。
「ていうか、明莉先生!教育的指導は?」
祐一先輩がそう言うと、
「そうね、今回は多めに見るけど、もうダメだからね。というか私、実は知ってたの。哲司くん、ずっと悩んでたのよ」
明莉先生も私たちの輪に入りながら、楽しそうに笑った。
「てかさ、あの前売り券くれたの、明莉さんなんだよ」
哲司先輩がそう言うので、
「え?そうだったんですか?明莉先生、昨日はすみませんでした。チケット、ありがとうございます」
私は明莉先生の方を向いてお辞儀をした。
「いいのよ。哲司くん、じゃなかった吉井くんに素敵な彼女ができて私も嬉しいから!あの子、ああ見えてまだまだ子供だから、ちゃんとお世話してあげてね」
そう言って、明莉先生はクスクスと笑った。
私はなんと答えたら良いか分からず、
「は、はい!」
と調子外れの声で答えた。
「悪いな、でも、隠しておくよりオープンにしといた方が過ごしやすいだろ?言うのが遅くなるほど言いにくくなるからさ」
哲司先輩は私に耳打ちをした。
なるほど、と思ったができれば先に言っておいて欲しかった。
心の準備だってあったのに。
でも、みんながお祝いをしてくれると、心が温まる気がして何だか嬉しかった。
「そうだ、私もみんなに言わなくちゃいけないことがあるの。私ね、今度結婚するのよ」
明莉先生の突然のカミングアウトで一度は静まった会見場がまた湧いた。
「え?結婚ですか?明莉先生、やめちゃうの?」
誰よりも先に質問したのは未怜だった。
「ううん、やめないわよ。年があけたら入籍をするだけ。苗字は変わるけどね」
「良かったー、明莉先生がいなくなったら本当に寂しいです」
瑞季先輩は泣きそうになっていた。
それからは明莉先生が質問責めに会い、結婚相手の情報やら初デートの思い出やら結婚式の予定やらを根掘り葉掘り聞き出されていた。
みんな、明莉先生がやめないと分かって一安心したようだった。
結婚式は3月末に予定しているそうだ。
「はい、そろそろ真面目に部活始めるわよ!すぐに期末試験もあるし、11月には学園祭もあるからね!みんなそれぞれ作品を提出してもらうから、構想を練っておいてね」
それからみんな、それぞれ自分の制作に取り掛かった。
私は相変わらず油彩の練習をした。
「透明色と半透明色、不透明色をうまく使い分けるといいわよ。ほら、透明色だと下書きが透けるでしょ。不透明色を使っていくと、時間の短縮になって効率が良くなるから試してみて」
私の絵を見て、明莉先生はそうアドバイスをしてくれた後、
「浅井さん、おめでとう。私、浅井さんが哲司くんのこと好きなんだなって、何となく気がついていたの。ついこの前までは、浅井さん感情むき出しで絵を描いていたでしょ。あれはあれで、そういう時期って必要なんだけど、今日は少し余計な力が抜けて、心も落ち着いてきたのかな。だいぶ良くなってきたわよ」
小さな声でそう囁いて微笑んだ。
私はこんなにいい人を疑ってしまっていたのかと思うと罪悪感で居た堪れなかった。
精一杯の感謝と謝罪の念を込めて、お礼を言うと、明莉先生はニコリと笑った。
哲司先輩はその日も特に作品には取り掛からずに、画集を眺めたりしていた。
下校のベルが鳴ると、私は未怜と教室を出た。
「結奈、心配事が一気に片付いて良かったね。哲司先輩、優しいんだね」
自転車を押しながら未怜が笑う。
「うん、未怜、色々とありがとう。未怜のおかげ。そうだ、良かったら今度うちに泊まりに来ない?この間のお礼もしたいし、また色々と語りたいし!」
「いいねー!じゃあ早速今度の土日にお邪魔してもいい?トロに会えるの楽しみー!」
ホームから電車の到着アナウンスが聞こえて、私は階段を駆け上った。
心なしかいつもより足取りが軽く感じて、1段飛ばしをしてみるとこけそうになったので、慣れないことはするものじゃないなと思った。
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