第27話 若葉のころ

 どれくらいの時間抱き合っていたのか、いつの間にか涙も止まって胸に響く心臓の動きは遅くなってきた。

 それは哲司先輩も同じで、胸につけた耳から聞こえる心臓の音はだんだんと落ち着いてきていた。


 私は哲司先輩の顔が見たくて、ゆっくりと顔をあげた。

 哲司先輩もそれに気がついたようで、抱き寄せる手を少し緩めてくれた。


「結奈」


 また私の名前を呼んでくれた。

 その顔は少し照れているようで、少し赤くなっている。

 私は名前を呼ばれたことがすごく嬉しくて、また涙が溢れそうになってしまった。


「俺と付き合ってくれる?」


 私は小さく頷くと、また胸に顔を埋めた。

 哲司先輩の体温を感じられるのが心地よくて、ワイシャツのボタンが頬に当たったがそんなこと気にならなかった。

 まるで泣き止まない子供をあやすように、哲司先輩の左手は私の背中を、右手は私の後頭部を一定のリズムで優しく叩いて、撫でてくれている。

 柑橘類の香りに包まれて、私はずっとこのままでいたいと思っていたのだが、現実は残酷だった。


「結奈、めっちゃ人が見てる」


 ふと我に気がつくと、美術館から出てきた人たちと目があった。

 血液が顔に上ってきて顔が真っ赤になるのが分かって、私たちは急いで体を離した。

 哲司先輩も照れくさそうに笑っている。


「最後なんていうから、俺、もうダメなのかと思ったよ」


「ごめんなさい、私、勘違いしてて」


「いいよいいよ。もう何でも許しちゃう気分だから」


 そう言って子供のように笑いながら、


「結奈、これからよろしくな」


 急に真面目な顔になるので、


「は、はい。こちらこそよろしくお願いします」


 なんて、ドギマギしてしまって何だか変な回答になってしまった。

 でも、哲司先輩が微笑むので、私もつられて微笑み返す。

 せっかくのいい雰囲気だったのに、雨の匂いがしたと思ったらすぐに雨が降ってきた。


「あれ?さっきまでいい天気だったのに」


 哲司先輩は私の右手を握って駆け足で広場の木の下に入った。

 手を引かれながら、私は何だか前にもこんなことがあったなと、今度はその左手を強く握り返した。



 雨は次第に強くなり、美術館の屋根までの距離でびしょ濡れになりそうだったので私たちはしばらく雨宿りをすることにした。

 哲司先輩の顔が雨で濡れていたので、私はカバンからハンカチを取り出した。

 すると、ハンカチに包まれていたフェルメールブルーの絵の具が地面に落ちてしまい、哲司先輩はそれに気がつきすぐに拾ってくれた。


「これ、あの時の」


「ありがとうございます。そう、あの時のです。まだ使わないで取っておいてるんです。私、今日の星占い7位で、微妙だったんです。だからラッキーアイテムが青い絵の具だったから、急いで持ってきました」


 何だか少し照れ臭かったのでそれを誤魔化すように、少し爪先立ちをして、私は雨の雫が伝う哲司先輩の顔をハンカチで拭いた。


「そうか、あの時さ、まさか結奈に会えると思ってなかったから。あの場で国立西洋美術館行こうって思いついたんだよ」


「そうだったんですか、私、2人で行くのかと思ってずっとドキドキしてました」


 哲司先輩はハンカチを受け取ると、今度は私の髪を優しく拭いてくれた。


「俺もそのつもりだったんだけどさ、やっぱりいきなり2人ってのは結奈も緊張するかなと思って、急いで瑞季と祐一に連絡取ったんだよ。ていうか俺がびびったんだけど。未怜には本当に悪いことしたな。今度は全員で行こうな」


 少し照れているようで、ハンカチで少し顔を隠して笑った。


「あの時は先輩たちがいてくれて安心しましたよ。うん、今度は未怜も一緒に行きたいです。改札はパンダ像前ですね。ちゃんと伝えないと」


「悪かったって」


 私の髪を丁寧にハンカチで撫でながら哲司先輩が笑う。


「ううん…、私、あの時先輩が必死で走ってきてくれたのが分かって、嬉しかったんです。もし会えなかったらって思うと本当に不安で。先輩が来てくれてもう全身の力が抜けそうになるくらい、安心しました」


 また、哲司先輩の腕が私を抱き寄せた。

 急だったので手のひらが先輩の胸に触れたままになって、そこからドクンドクンと力強い、それでいて優しい心臓の拍動が伝わってくる。

 先輩は何も言わずにそのまま優しく抱きしめてくれた。



 雨はまだ降り続いていたが、この雨のおかげで抱き合えているような気がして、私は初めて雨に感謝をした。


「こうして木の下で雨宿りしてると、あの映画みたいですね。小さな恋のメロディ」


 少し寄りかかりながらそう呟く。


「あれ?見たの?映画」


「はい。お父さんが好きでDVD持ってたんです。私、小さい頃お父さんにくっついてよく見てたらしいんですよ。それで、あの曲のメロディーだけ覚えてたみたいです」


「どうだった?俺あの映画好きでさ。だから結奈が鼻歌で歌ってるの聞いて、何だか嬉しかったんだよ。俺らの年で知ってるやつってまずいないから。これは運命だって」


 哲司先輩は私の頭の上で少し照れくさそうに笑いながらそう言った。


「すごく良かったです。何だか甘酸っぱくて。特に「First of May」のところ。もう1週間も愛してるって」


「俺もあそこが一番好きだよ」


 6月には似合わない強めの夕立が葉っぱを強く揺らした。


「結奈はさ、何か好きなものあるの?」


「好きなものですか?うーん、猫が好きです。トロっていう猫がいるんです」


「あぁ、デッサンしてたやつ。うまく描けてたよ。今度本人に会わせてよ。知らない人は苦手?」


「いいですよ。トロ、誰にでも懐くから。きっと喉を鳴らしてゴロゴロ言いますよ」


 その姿を想像しただけで、笑いそうになった。


「他には何が好きなの?好きな曲とか?」


「うーん、吹奏楽なんですけど、中学3年のコンクールで演奏した「一つの声に導かれる時」っていう曲がすごく好きなんです」


 練習が厳しくて辛い思い出が多い中学時代だが、それでも、精一杯頑張って全国にまで行けたこの曲は私にとって大切な曲だった。

 どれだけ流行っている曲よりも私はこの曲が好きだった。

 どうせ他人に話しても話題が広がらないし、理解されないだろうから普段なら正直に答えることのない質問だったが、私は私の好きなものを、哲司先輩の前で偽りたくなかったのだ。


「そうか、今度聞かせてよ。俺も結奈の好きなもの、もっと知りたいよ」


 好きな人が好きなものを。

 好きな人に好きなものを。

 共有できるのは、やっぱり素敵なことだった。

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