第26話 Let it rain
美術館を出てすぐの芝生の上で、私は目を瞑るのも忘れてずっと下を向いていた。
バーントアンバー色のローファーのステッチの端は二重になっていて、そこから規則正しく円を描くように等間隔に縫い目が繋がり、反対の端も二重になっている。
どちらが始まりでどちらが終わりなのかわからなかったが、確かなのはどんなことにも始まりと終わりが存在するということだった。
早く返事をして欲しかったが返事を聞きたくなくて、このまま時が止まってしまえばいいのにと思った。
「え?俺が?明莉さんと?何で?」
永遠に感じられたその沈黙を破ったのは、何だか拍子抜けする声だった。
「結奈、何か勘違いしてない?」
前を向くと、そう言う哲司先輩は何だか困り顔をしている。
「…だって、2人とも何だか特別な雰囲気だし、それに私、たまたま先輩と明莉先生が休日に町田で2人でデートしてるところも見ちゃったんです」
震えた声で何とか伝える。
「あぁ、見られてた?あれは違うんだよ。ちょっと待って、ちゃんと話すから」
哲司先輩は一息ついてから、ゆっくりと優しい声で話してくれた。
それによれば、哲司先輩が部活にあまり来ないのは、月・水・金と絵画教室に通っているから。
その絵画教室には明莉先生の紹介で哲司先輩が去年から通っていて、土曜日だけ明莉先生も一緒に来ているとのことだった。
そもそも、小さい頃哲司先輩が通っていた絵画教室にいた6コ上の女の子が明莉先生だったらしく、かれこれもう8年もの付き合いらしい。
「明莉さんは昔から絵がうまくてさ。俺も色々と教えてもらったよ。昔から知ってるから、つい明莉さんって呼んじゃうんだよ。向こうも最近は諦めてるみたいだけど」
「そうしたら、別に2人は付き合ってるわけじゃないんですか?」
「付き合ってないよ。ていうか、明莉さん今度結婚するし」
さらっととんでもないことを言うので、私は理解が追いつかなかった。
「え?結婚?誰とですか?」
「あ、俺が勝手に言うのはまずいな。でも、近いうちにみんなにも言うって言ってたからいいか。今通ってる絵画教室の先生。高校の部活の同級生なんだって」
(明莉先生が、結婚?部活の同級生ってことは、私たちの先輩ってこと?)
何だかもうわけがわからない。
「…それじゃあ、哲司先輩は、今誰かとお付き合いしてるんですか?」
震える声で、一番気になっていることをぶつけてみた。
哲司先輩は微笑みながら首を横に振った。
「いたら結奈と2人きりで美術館なんて来ないだろ」
私の頭をポンと叩いて笑いながらそう答える眼は、いつものあの優しい眼だった。
「それじゃあ、哲司先輩は、好きな人、いますか?」
勢いに任せるにはスピードが足りなくて、途中で失速してしまいながらも、何とか最後まで口にすることができた。
今度は下を向かずに、あの綺麗な瞳をまっすぐにみて尋ねた。
胸の奥で心臓が破裂しそうなくらい脈打っている。
それでも、何とか顔を見つめ続けた。
頭にはまだ哲司先輩の熱い右手が乗ったままだった。
「……いるよ」
少しの沈黙の後、長い瞬きをしたまま哲司先輩はそう答えた。
その瞬間目の前が真っ暗になったが、私は必死で眼を開き続けた。
「結奈」
頭の上にあった細い腕の割にゴツゴツとした手はゆっくりと優しく私の頬に触れて、細くて長い指がいつの間にか溢れていた私の涙を拭った。
「俺、結奈が好きだよ」
嬉しい時にも涙が出る。
口に流れてきた涙は気のせいか少し甘かった。
悲しい時の涙と成分は同じはずなのに、きっと心の中で作られる場所が違うのだろう。
堰き止めていた気持ちが決壊して、涙が溢れて止まらない。
自分の置かれている状況が信じられなくて、でも、左頬に優しく触れる手の暖かさは紛れもなく現実で。
本や絵画に向けていたのと同じ真剣な眼差しで私を見つめ続けるその顔が、涙で滲んでよく見えなかった。
「結奈?」
その声が私の名前を呼ぶだけで、胸の中が暖かくなるのを知っているだろうか。
子供のように無邪気に笑う顔を、美術館でみせる真面目な顔を見るたびに、高鳴る鼓動が聞こえていただろうか。
涙を拭うその手が、今までの不安な気持ちを全て消し去ってくれたことに気がついているだろうか。
あの木漏れ日の森林の中で、隣にいた私の気持ちが伝わっていただろうか。
永遠に言うつもりのなかった言葉。
ずっとずっと押し殺してきた言葉。
私は、精一杯気持ちを込めてあの綺麗な瞳を見つめて、
「私も、哲司先輩が好きです」
そう伝えた瞬間、哲司先輩の左手が黙って私をその胸の中に引き寄せた。
頬に触れていた右手もゆっくりと頭の後ろにまわり、一瞬息ができなくなるくらい私は強く抱きしめられた。
一吹の風も通さないくらいに私たちはくっついて、私も哲司先輩の背中にそっと手をまわす。
「よかった」
そう囁く哲司先輩の顔は見えなかったが、何枚かの布を通して胸の中に響く心臓の音が私の心臓の音と同期していて、同じ心拍数を刻む私たちの心臓はきっと同じ気持ちを抱えているに違いなかった。
私の嬉し涙はまだ止まらなくて、哲司先輩の半袖のシャツから胸の奥と染みこんでいった。
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