第25話 カササギ

 美術館に来るのは3回目。


 入り口でチケットを渡す際、学校をサボっていることを注意されたりしないかドキドキしたが、特に何の反応もなく通ることができた。

 最終日で人も多かったが、平日の午前中なだけあって比較的ゆっくり絵を眺めることができた。


「夕方以降になったら、きっと混むよ。こういう展覧会はさ、画家の人生を追体験するんだ」


 そう言って哲司先輩は手帳と鉛筆を手に奥へと進んでいく。

 瑞季先輩のアドバイスに従って、ストールを持ってきていたので私はそれを羽織って後に続いた。


 1人の画家に特化した展覧会に来るのは初めてで、モネの作品の歴史を紐解いていくその構成は非常に見応えのあるものだった。

 図書室のTASCHENの画集で見た絵も数多く展示されていて、やはり画集で見るのと実物を見るのは大違いで、ポスターにもなっている「日傘をさす女性」の絵はチケットで何度も見たはずなのに、実物を前にするとしばらくその場を動けなかった。


 そして、4月から想い焦がれてきた「カササギ」についに会うことができた。

 美術室の哲司先輩の描いた絵よりもはるかに大きいその絵は、私を100年以上前のフランスの冬に連れ出してくれた。

 雪の質感を出すのに多彩な色が塗り重ねられて、冷たくも暖かくもあって、画面の奥からは思わず目を細めてしまうほどの光が美しく輝いている。

 凛とした空気が張り詰めるその空間には1羽のカササギが柵で羽を休めていてどこか物語を感じさせた。

 瞬きを忘れるほどに美しいその絵は、静寂の風景なのに私の心の奥にある張り詰めた細い線を激しくかき鳴らして、私はしばらく絵の前から動くことができなかった。

 哲司先輩は微動だにしない私を急かすこともなく、ただ、隣に立っていてくれた。



 やっとの事で絵の前から足をあげた私は、その後も様々な絵を見ては息を飲んで、今自分が蒸し暑い梅雨時の日本にいることをすっかり忘れていた。

 モネは私を絵の中でどこへでも、どんな季節にも連れて行ってくれた。

 ふと気がつくと、哲司先輩がいない。

 振り返ると、「睡蓮」の前で哲司先輩は佇んでいる。

 絵と向き合うその横顔は、いつかの夕焼けの教室の姿と重なってタイムスリップしたようだった。

 絵に向ける眼差しも長いまつ毛も、細い首筋も、半袖のシャツから伸びる腕に透ける血管も、その姿の全てが再び私の心臓のリズムを乱す。

 絵を見つめ続けるその眼が、瞬きをした後に私の方を向いた。


『綺麗なものを沢山みると、瞳も綺麗になるんだって』


 あぁ、それで哲司先輩の瞳は綺麗なのか。

 今までも沢山綺麗なものを見てきたんだ。

 興味があるものは何でも。

 西洋美術だけじゃない、日本画も、立体造形も、建築物も、恐竜でさえ。

 綺麗になった瞳で見る景色は、きっとより綺麗に映るのだろうと思った。

 だからあんな素敵な絵が描けるんだ。

 その瞳に映る私は一体どんな風に映っているのだろうか。



 モネの絵に囲まれたその幻想的な空間の中で、私たちはしばらくの間見つめあった。

 哲司先輩はさっきまで真剣な眼差しで絵を見ていた同じ表情で私を見ている。

 一瞬時が止まったように感じたが、左腕に感じるごくごくわずかな秒針の振動が私たちの間に流れる時間を正確に刻んでいた。


 私は何だか金縛りにあったみたいにその場を動くことができなかった。

 秒針は少しの狂いもなく動いている。

 何秒経ったか分からないが、哲司先輩は微笑んだ。


「もう、終盤だな。結奈、もう一回カササギ見に行こうか」


 哲司先輩はゆっくりと歩いきて、どんどん短くなる私との距離が数cmになった所で小さく言うと、あの柑橘類の香りがふわりと薫った。


「え、美術館って逆走してもいいんですか?」


 何とか金縛りを解いて、私は震えた声を誤魔化すように小さい声を出した。


「もちろんいいんだよ。全体を通してからまた見ると、流れも理解しやすくなるし。それに、気に入った絵ももう一度見られるしな」


 哲司先輩も私に合わせて小声でそう囁いた。


 それから私たちは人の流れに逆らって、初めから作品を見直した。

 私が再びカササギの前に釘付けになるのを、哲司先輩は隣で見守ってくれていた。



 全ての絵を見終わると、出口にはミュージアムショップが開かれていたので、私はカササギのポストカードと、図録を買うことにした。


 会場を出て、美術館を出ると一気に蒸し暑い日本の梅雨が広がっていた。

 哲司先輩はストレッチをしながら尋ねた。


「いやーよかったなー、結奈、どうだった?」


「本当に素敵でした。私にもあんな絵が描けたらなぁって」


 人生をかけて作られた作品には、人の人生を変える力があるのだと思った。

 私もそういう絵が描けたら。

 誰かの心を揺り動かすことができたら。


「そういえば、ミュージアムショップで何買ってたの?」


「カササギのポストカードと、図録も買っちゃいました」


「図録?買ったの?重いだろ。俺が持とうか?」


「ううん、きっともうこんなことないだろうし。最後の思い出と思って」


 沢山の絵にあてられて、つい口が滑った。

 美術館の中でも、哲司先輩と2人で出かけるなんて、きっとこの先そんな機会はないだろうと思っていたのだ。

 最後の思い出がモネの絵に囲まれた美術館だなんて、ロマンチックだけど悲しくてきっと一生忘れられないだろう。


「何で?また見に行けばいいじゃん。展覧会が終わっても、作品がなくなるわけじゃないんだし」


 なるほど、確かにその通りだった。

 カササギはどうやらオルセー美術館に所蔵されているらしく、フランスに行けば好きな時に見ることはできる。

 どうやら哲司先輩は私が口を滑らせた内容を勘違いしているようだった。


 この流れのまま話を続ければ、これからも今まで通りの関係を続けることができるかもしれない。

 頭の中を思考が駆け巡って、押し寄せる感情の波に飲み込まれてしまいそうになる。

 本当のことを言えばもうこうして出かけることもないのかもしれない。

 今この瞬間の幸せが消えてしまいそうで、口に出すのを何回もためらってから、それでも、


「そう言う意味じゃなくて、哲司先輩と2人で見る、美術館の最後の思い出っていうことです」


 ついに言った。

 一瞬の間の後、哲司先輩は突然の話に戸惑っている。


「え?また行けばいいだろ。最後なんて、言うなよ」


 骨を伝って鼓膜を震わせる私の心臓の音はアレグロよりも早くなっていた。


「だって、哲司先輩、明莉先生と付き合ってるんでしょ?だから、2人で会うのはこれで最後にしようと思って、明莉先生に悪いじゃないですか。今日は、それだけは言わなくちゃと思って」


 必死で笑顔を作った。

 喉の奥が焼けそうに熱くて、呼吸をするのも忘れそうなくらいだった。

 震わせた声帯がなんとか声を作ってくれたが、哲司先輩の反応を聞きたくなくて、今すぐ駆け出してしまいたかった。


 あの綺麗な瞳が今は何を見ているのか、まともに目を合わせることができなかった。

 溢れる想いが言葉になるなら、私はいくらでも伝えたいことがあるのに、ただそれを言う勇気だけがなかった。

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