第24話 雨の日と月曜日は

 終わる気配の見えない梅雨は、毎日を降り注ぐ雨で包み込んでいた。


 私は渡り廊下での一件の後、美術室へ向かって制作に取り込んだ。

 正直言って少しも集中できなくて、あまり実のある活動はできなかった。 

 明莉先生が教室に来ると、土曜日のこと、7月2日のことを思い出してもうどう表現したら良いのかわからないくらい、気持ちが決壊して飲み込まれそうだった。


 部活が終わった後、帰り際に未怜に今度のことを打ち明けた。


「急展開だね、明莉先生もいるのに、どういうつもりなんだろう。…やっぱりちゃんと聞いた方が良いね。ちょうど良い機会だし、その日に聞いてみなよ。早退後のフォローは任せて!」


 ビニール傘に落ちる雨は霧雨のようで、ほとんど雨音がしないのにいつの間にか体が濡れてしまっていた。

 そう、明莉先生もいるのに一体どういうつもりなんだろうか。

 もしかして…からかわれてる?

 でも、あの眼と笑顔はそんな感じではなかった。

 とにかく、早く来週にならないかと心が落ち着かなかった。



 家に着いて傘の水滴を払って玄関を開けると、トロがいつも通り迎えてくれた。

 リビングにいる母には、学校をサボるなんてごめんねと言ったつもりで、ただいまと声をかけた。

 トロを抱き上げて、急いで階段を登って部屋に入る。

 興奮のせいか、トロが少し軽く感じた。

 カバンには、間違いなくモネ展のチケットが入っていた。

 鏡には湿気でまとまらない髪がはねた私が映っていて、湿気で蛍光灯がジジっと小さく音を立てた。

 心臓の音が響きそうな気がして無音の空間がいたたまれなくなり、CDコンポの電源を入れてあのサウンドトラックをかけた。



 それから数日の間、私の心臓はドキドキしっぱなしで、突然倒れてしまうんじゃないかと少し不安になったほどだった。

 手渡しされたチケットは、部屋のコルクボードに貼るのも何となく気が引けて、美術の参考書のモネのページに挟んでおいた。

 油彩の練習はそれでも今まで通りに続けた。

 絵を描くことは、私にとってもはや日常となっていた。



 1週間はあっという間に過ぎ去って、ついに7月2日月曜日の朝がやってきた。

 今日も目覚ましより先に起きて、トロにおはようと声をかける。


「早退計画がうまく行くように祈っててね」


 そう言いながら体を撫でると、トロは伸びをしながら体勢を変えた。

 どうやらまだ眠いみたいだ。

 今日の占いでは獅子座は7位と微妙な結果で、ラッキーアイテムは何と青い絵の具だった。

 普段はそれほど気にしない占いの結果なのに、今日ばかりは急いで机の引き出しに眠ったままのフェルメールブルーの絵の具を取り出して、モネのハンカチに包んでカバンの奥に大切にしまった。

 参考書からチケットを取り出し、忘れずに財布の中にしまう。

 折りたたみ財布の中でチケットにシワができてしまうのが何だか勿体無い気がして、いつもは気にせず閉める財布を今日はゆっくりと閉めてボタンもそっと閉じた。


 学校に着くと、未怜が目配せをした。

 早くも体調の悪い演技は始まっているのだ。

 おはようの挨拶もそこそこに、私は前から5番目の窓際の席に座った。

 何だか緊張で本当に胃が痛くなってくる。


 1限目の英語は小テストがあった。

 簡単な小テストだったが、ケアレスミスをしてしまった。

 普段なら落ち込むところだが今日はそれどころではなく、早く授業が終わってくれないかと左腕の時計を何度も見ては、中々動かない秒針をみて時計が止まっているのではないかと焦ってばかりいた。


 2限目の現国が半分も過ぎたところで、私は精一杯体調不良のふりをして、授業の途中で保健室へ向かった。

 心拍数は最高潮で一世一代の演技だったが、実際に胃が痛くなってきていたので、あながち演技とも言えなかった。教室のドアを出るとき、


「が・ん・ば・れ」


 と、未怜が応援してくれているのが見えた。

 保健室で少し休ませてもらい、2限が終わるタイミングを見計らって、保健室の先生に早退を申し出る。

 実際、学校をサボる緊張と恐怖感で顔色はすごく悪くなっていたらしく簡単に許可が出た。

 それから荷物を取りに教室に戻り、未怜と挨拶をした。

 昇降口で上履きを革靴に履き替えて、校門を出たところで私の初めてのサボりは完遂した。

 朝は曇り空だったのに、いつの間にか太陽が顔を覗かせていた。

 


 JR横浜線はすぐに駅に到着した。

 町田へ向かう電車の中、平日のこの時間はあまり乗客がいないことに気がつく。

 席は沢山空いているのに、私はいつも通りドアの脇に立って気持ちを落ち着かせようとした。


 電車は境川を超えて、見慣れた風景の町田駅に到着した。

 いつもと同じ風景なのに、どこか知らない街のように感じるのは人生で初めての経験をしているからかもしれない。

 改札を出て、コンコースを走って小田急線へと急ぐ。

 走っているせいか緊張のせいか分からないが心臓がばくばくして破裂しそうだった。

 

 待ち合わせの改札には、見慣れた制服を着た男子生徒が立っていた。


「哲司先輩!すみません、待ちました?」


「全然。何、走ったの?そんないいのに。でもお疲れ」


 息を切らす私の頭をポンと叩き、


「じゃあ行こっか」


 自動改札を通り、3番線から急行電車に乗る。

 電車はまばらながら人がいて、席は一つしか空いていなかったので、立っていようとしたが、


「結奈、座りなよ。なんか本当に顔色悪いけど、大丈夫?」


 哲司先輩が心配そうに顔を覗き込むので、恥ずかしくなって座らせてもらった。


「緊張し過ぎて、途中本当にお腹痛くなっちゃいました。もう大丈夫です」


 笑いながらそう言うと、哲司先輩も笑った。



 哲司先輩は私の目の前で、つり革を持って電車に揺られていた。

 電車の動きと同期して左右に揺れ動く哲司先輩の瞳には、外の景色が流れていて、少しずつ私たちを展覧会へと運んでくれた。


「先輩、かばん、私が持ちますよ」


 私だけ座っているのが何だか悪い気がしたのだ。

 いいよと言う哲司先輩の肩にかけたカバンを半ばむりやり受け取って私は膝の上におく。

 2人分のカバンが私の膝の上で仲良く並んでいるのが何だか無性に嬉しかった。


「結奈、学校サボらせちゃってごめん。でもありがとう。カササギ、次いつ見られるか分からないからさ」


 上から見下ろしながらそう話す哲司先輩に、


(どうして私なんですか?明莉先生はいいんですか?)


 と聞きたかったがまだ勇気が出なくて、


「大丈夫です。私も、本物見たかったですし。チケット、ありがとうございます」


 とだけ答えた。



 国立新美術館は今年できたばかりの新しい美術館で駅から直結していた。

 国立西洋美術館に比べるとより近代的な建物で、ガラス張りの曲面が久しぶりの太陽の光を反射して輝いている。


「新しい美術館なんですね」


「そう、日本で5番目の国立美術館。黒川紀章って人が設計したんだけど知ってる?」


 私は首を横に振る。


「福井県立恐竜博物館とかも設計してて、良いデザインなんだよ」


(…今、恐竜って言った?)


「先輩、恐竜好きなんですか?」


 からかうように私が聞くと、


「男子はみんな好きだろ。俺、去年1人で福井まで行ってきたよ。フクイラプトル、知らないの?」


「知らないです…」


「えー?マジで?結奈、絶対行った方がいいよ。マジでテンション上がるから」


 そう言いながら笑う横顔はまるで子供みたいで、何だか可愛くも思えた。


「そうしたら、今度恐竜について教えてください」


 笑いながらそう言ってから、


(今度、か。今度があるかな?)


 と、少し暗い気分になってしまった。


「いや、今でもいいけど。俺に恐竜語らせたら長いからな。とりあえず、先にモネ展行くか!」


 それからまばらに並ぶ人の群れを目指して館内を進んだ。

 大きく展覧会のタイトルが書かれた入り口を進むと、私たちは絵画に囲まれた不思議の国に迷い込んだ。

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